天皇になることは無いと言われて官僚として働いていたのが、政変の末に45歳で即位。そこから後の日本に多大な影響を与える行政改革を行った桓武天皇。異色の経歴と功績を持つ天皇を深く知るための3冊をご紹介します。
山部王(後の桓武天皇)は、白壁王(後の光仁天皇)の第1王子として737年に生まれました。白壁王自体も天皇になることは考えらえていなかったため、山部王も皇位とは無縁で、当時は大学頭や侍従に任じられ、官僚として働きます。
政変などにより、父が光仁天皇として即位することになりますが、山部王の母は身分が低かったため、ここでも彼が皇太子になることは考えられていませんでした。
しかし、藤原氏を巻き込んだ政争により、山部王の異母弟である皇太子がその座を追われたため、773年に山部王が皇太子となります。781年に即位して桓武天皇となり、同母弟である早良親王を皇太子としました。
784年に長岡京を造営し遷都を行いますが、その遷都の責任者だった藤原種継が暗殺されてしまいます。種継暗殺の犯人として大友家持(この時すでに死亡)、大友継人ら複数名の名が挙がり、捕縛。そこで早良親王にも疑惑が広がり、捕らえられます。785年、早良親王は廃太子の上流罪になり、配流中に亡くなりました。
その後桓武天皇の妻、母が相次いで死亡。長岡京も洪水や飢饉に見舞われます。周囲では早良親王の祟りでは、との噂が立つようになりました。
祟りを受ける天皇だと民衆から反発されるのを恐れ、794年に平安京へあらためて遷都を行いました。 806年、在位中に崩御。息子である安殿親王が次の天皇として即位しました。
1:朝鮮の血を引いている
桓武天皇の母、高野新笠(たかののにいがさ)は、数代前に日本に帰化したと言われる百済系渡来人の一族、和氏の出身です。一説では、新笠は百済武寧王の子孫とも言われています。
2001年、天皇陛下がサッカワールドカップの日韓戦の際にされた「(桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫とされていることに)韓国とのゆかりを感じています」とのお話は、新笠のことを指しているのです。
2:これまでの勢力との決別のために長岡京へ遷都した
平城京には、東大寺や興福寺などの大きな寺社勢力がありました。僧侶の中には贅沢をむさぼって、政治に口出しをする者もいて、政治と宗教を切り離す必要があると考えた桓武天皇は、長岡への遷都を決めるのです。同時に、平城京は天武天皇系によって造られた都のため、一新する意味もあったようです。
3:弟の祟りを恐れて平安京へ遷都した
種継暗殺の容疑をかけ、同母弟である早良親王を地位剥奪の上、流罪としました。この際、親王が配流中に餓死により亡くなります。これは、無実を強く訴えていた親王の抗議による絶食だったとも、桓武天皇たちが食べ物を与えずして手を下さずに殺害した、とも言われています。
その後、桓武天皇の妻たち・母が相次いで亡くなり、皇太子だった息子の安殿親王が重病にかかりました。弟の祟りを恐れた桓武天皇は早良親王の墓を供養させ、墓守を置きます。 しかしそれでも祟りは止まず、都に天然痘が流行り、洪水といった災害も相次ぎました。
早良親王に対して数回鎮魂の儀を執り行い、祟道天皇という追称をしました。 相次いだ不幸・祟りが自身のせいだと民衆に判断されるのを恐れ、またこうした不幸を断ち切るために「平安」京への遷都を決めたのです。
4:最澄・空海を保護し、日本の仏教の歴史を変えた
天皇にならないと考えられていた青年期を経て、45歳での即位後、数々の偉業を成し遂げた桓武天皇。その人生は陰謀と策略、そして祟りという混沌としたものと隣り合わせのものでした。
彼が造り上げた都は、現在では世界有数の観光地となっています。桓武天皇を思いながら京都を見ると、また違ったものが見えてくるかもしれません。