5分でわかる岩倉使節団!目的、成果、ビスマルクとの関係は?関連本も紹介

更新:2021.11.10

明治新政府の黎明期、政府高官や留学生など総勢107名もの大使節団が、世界各国を旅した「岩倉使節団」。いったいどのようなものだったのでしょうか。この記事では、その目的や成果、メンバー、旅の日程、ビスマルクとの出会いや関連本までご紹介していきます。

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岩倉使節団とは?誕生の経緯

 

岩倉使節団とは、明治初期の1871年12月に日本を出発し、アメリカやヨーロッパ諸国、アジアに派遣された総勢107人の大規模な使節団のことです。岩倉具視(いわくらともみ)が正使となり、大使や副使には政府の実力者を据え、そのほかにも国際的な知識をもつ旧幕臣や有能な人物が起用されました。

当時は、旧幕府が欧米各国と結んだ不平等条約の改定時期が1872年と迫っていた時期です。しかし立ち上がったばかりの明治政府は、いまだ諸外国と対等に改正交渉ができるような状態ではありません。そこで海外へ視察に行き、政治、経済、軍事、産業などあらゆる分野での近代化を進める必要がありました。

彼らの旅は当初10ヶ月程度の予定でしたが、12ヶ国を歴訪し、結果的にはおよそ1年10ヶ月という長いものになったのです。

 

消えた「大隈使節団」

 

1869年、明治政府の招請で長崎から上京したアメリカ人のフルベッキが、その門下生である大隈重信にある意見書を送りました。これは「ブリーフ・スケッチ」といわれるもので、日本から欧米へ使節団の派遣を勧めたものです。

1871年8月、大隈は不平等条約改正交渉のための使節派遣を、自らが率いたい旨を閣議で発議し、構想を起案しました。当時の規模は25人前後と考えられていました。

ところが、明治政府内部で大隈に対立していた岩倉具視と大久保利通は、岩倉使節団の構想を提出。協力を政府高官に働きかけます。そして9月上旬には岩倉たちの派遣が決定し、大隈使節団の話はなくなってしまいました。

 

岩倉使節団の目的

 

主な目的は3つありました。

1:新しい国家のお披露目

200年以上続いた鎖国政策をやめ、封建的な国家から近代的な国家に生まれ変わった日本を世界に認めてもらう必要がありました。

2:不平等条約改正の打診

対等に改正交渉できるような状態ではないとの判断から、各国に改正の時期を3年間延期してもらい、相手側が改正についてどんな考えを持っているのか打診をする必要がありました。

3:欧米諸国の視察

新しい国をつくろうとしている日本にとって、これは重要な課題でした。欧米列強の国家を見学し、制度や文物の視察、調査をする必要があったのです。

 

岩倉使節団の構成メンバー。津田梅子など後の有名人も。

 

特命全権大使が当時外務卿(現在の外務省長官)だった岩倉具視、副使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳の4人、このほか各省の調査理事官など正式メンバーは46人です。

そのほかに留学生として、公家や大名の息子たちや書生などが50人ほどと随従者の、総勢107人でした。留学生のなかには女性も5人いて、最年少は8歳の津田梅子です。

欧米先進国の制度や文物調査をし、日本の近代国家づくりのために働く人材養成も兼ねていたので、このような大人数になりました。政府の要人以外にも、帰国後に活躍した人が多数います。


中江兆民(なかえちょうみん)

パリへ留学し、ルソーの『社会契約論』を翻訳、「東洋のルソー」と評されました。自由民権運動の理論的指導者でもあります。

金子堅太郎(かねこけんたろう)

アメリカに留学し、ハーバード大学で法学を学びます。帰国後には大臣を歴任し、大日本帝国憲法の起草に参画しました。日本法律学校の初代校長でもあります。

団琢磨(だんたくま)

アメリカに留学し、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学びます。三井三池炭鉱の経営をおこない、三井財閥の総帥になりました。

津田梅子(つだうめこ)

最年少の8歳で渡米しました。1度帰国し華族女学校で教鞭をとりますが、再び渡米。帰国後女子英学塾(津田塾大学)を創設します。

山川捨松(やまかわすてまつ)

派遣された当時は12歳でした。米国のヴァッサー大学卒業時には、卒業生総代のひとりに選ばれ「日本に対する英国の外交政策」を演説します。帰国後は赤十字社篤志看護婦会など、社会福祉活動に尽力しました。

 

岩倉使節団の米欧回覧の旅、全日程を紹介

1年10ヶ月にわたる旅の行程は、以下のとおりです。
 

 

  • 1871年11月12日横浜発
  • 12月6日~アメリカ滞在(サンフランシスコ、ワシントン、ボストンなど)
  • 7月13日~イギリス滞在(リバプール、ロンドン、マンチェスターなど)
     
  • 11月16日~フランス滞在(パリ)
     
  • 1873年2月17日~ベルギー滞在(ブリュッセル)
     
  • 2月24日~オランダ滞在(ハーグ、ロッテルダム、アムステルダムなど)
     
  • 3月9日~ドイツ滞在(ベルリンなど) 
     
  • 3月30日~ロシア滞在(サンクトペテルブルク)
     
  • 4月18日~デンマーク滞在(コペンハーゲン、ハンブルク)
     
  • 4月24日~スウェーデン滞在(ストックホルム、コペンハーゲンなど)
     
  • 5月9日~イタリア滞在(フィレンツェ、ローマ、ヴェニスなど) 
     
  • 6月3日~オーストリア滞在(ウィーン)
     
  • 6月19日~スイス滞在(チューリッヒ、ジュネーブ)
     
  • 7月15日~フランス滞在(リヨン、マルセーユ)
     
  • 7月20日~帰国の旅(地中海、スエズ運河、マラッカ海峡、香港、上海など)
     
  • 9月6日長崎着
     
  • 9月13日横浜着
     

 

岩倉使節団とビスマルク、帰国後の日本への影響は。

 

1873年3月、ドイツを訪問していた彼らは、当時首相を務めていたビスマルクから夕食に招かれました。

ドイツは、1867年の「普墺戦争」、1871年の「普仏戦争」を経て統一されたばかりの国家です。プロイセン王国の首相兼外相だったビスマルクは、「鉄血宰相」とよばれる厳しい軍事政策をとりながらドイツ帝国の樹立を果たしていました。

そんなビスマルクから、日本の使節団は次のような言葉をかけられます。

「不平等条約の改正を議論しているようだが、弱い国がいくら国際法を導入しても意味がない。大国は利益があれば法を守るが、なければ簡単に破って武力を使うだろう。まず日本は強くなるべきだ。」

「プロイセンは弱小国家だったが、数十年かけてようやく列強と対等に会話をできるようになった」

「日本も法を気にするより、まずは富国強兵が大事だ」

……これまで不平等条約を是正することを目的のひとつに旅をしていた使節団の面々は、ビスマルクの話の内容に大変驚きました。とりわけ大久保利通が感銘をうけ、西郷隆盛にあてた手紙ではビスマルクのことを「大先生」と表しているそうです。

この時のビスマルクの言葉は、後の日本にも大きな影響を与えました。使節団が帰国した後に、日本はドイツ式の軍備を敷き、国力をつけて「日清戦争」「日露戦争」へと進んでいくのです。

やがてアジアで独立した日本と、ヨーロッパで独立したドイツが手を組むのは、第二次世界大戦の前の1936年のことでした。

 

岩倉使節団の成果

 

「条約は/結び損ない/金は捨て/世間に大使/何と岩倉(なんて言い訳するのだ)」

当時、民衆のあいだではこのような狂歌が流行しました。ここで詠まれているように、大きな財政負担をしながらも出発した岩倉使節団でしたが、不平等条約の改正は進展することができなかったのです。

しかしながら、西洋の文物に直に触れ、日本の現状を知り、近代化を進めるため多くの人材を育てることができたのは大きな成果だったといえるでしょう。

帰国直後に起こった西郷隆盛らの「征韓論」を抑え、富国強兵、殖産興業政策に努めるようになったのも、世界を見てきたからこそ導き出せた政策でした。

また憲法の制定、国会の開設、貴族院と衆議院ができたのも、使節団の成果だといえるでしょう。

 

岩倉使節団とキリスト教

 

欧米の情勢を視察したメンバーが驚いたもののひとつに、世界でのキリスト教の影響力の大きさがあげられます。

当時の日本は、江戸時代初期から続いていた「キリスト教禁教令」が出されたままの状態でした。

1858年に「日米修好通商条約」や「日仏修好通商条約」などが締結され、鎖国体制が解除されると、多くの宣教師が来日。カトリック教会も日本に強い関心を示していました。

しかし1867年に設立した明治政府は、翌年「五榜の掲示」を出し、キリスト教を禁教とすることを継続したのです。信者の多くは拷問を受けたり流刑になったりと弾圧されました。

このことが、諸外国から大きな抗議と反発を引き起こします。

使節団のメンバーは、欧米文化の発展の原動力にキリスト教の存在があったことを理解していたので、積極的に導入するよう意見します。不平等条約を改正するためにも必須条件だとして、1873年にキリスト教禁止令が解かれました。

 

留守政府とは。岩倉使節団がいない間にやったこと

 

使節団のメンバーには、明治政府の主要人物が数多く含まれていました。彼らが欧米を歴訪している間の日本政府を守るために組織されたのが「留守政府」です。中心となったのは、三条実美(さんじょうさねとみ)、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助など。

使節団とは出発前に盟約書を結んでいて、そこには「留守中に新しい改革はしてはいけない、何か大規模なことをする場合は使節団に報告しなくてはいけない」とありました。

しかし当初から10ヶ月を予定されていた歴訪です。その間何もしないわけにもいかず、留守政府はしっかりと政策を進めていきます。では彼らの功績をみていきましょう。

「県」の再編

まずおこなったのは、1871年に発令されたばかりの「廃藩置県」の後処理です。これに関しては使節団のメンバーからも速やかにおこなうよう頼まれていました。

当時300を超える県がありましたが、これをどんどん統合し、72まで減らします。県には県知事、府には府知事を派遣しました。

法制度の制定

近代国家として日本を整えるために、法制度や裁判制度の整備が必須でした。維新の十傑のひとりである江藤新平(えとうしんぺい)を司法卿に任命し、近代化政策を進めます。欧米の「三権分立」を導入し、行政から独立した司法の基礎を作りました。

壬申戸籍の編製

江戸時代には「宗門人別改帳」というものがありましたが、これをさらに整理して、皇族から平民まで、「戸」を単位にして集計しました。日本全国を同じ基準で調査したこと自体が画期的で、これによって総人口が3311万人とされています。

地券の発行

それまでは税が課せられていなかった都市の市街地に対して、地下100分の1の税金が課せられるようになり、地券が発行されました。

また、田畑の売買を禁止していた法令が廃止され、それに伴い土地の売買や譲渡をする際にも地券が交付されています。

 

堂々たる日本人とはどんな姿だったのか

著者
泉 三郎
出版日
2004-06-01

外国人から岩倉使節団の日本人たちは、どのように見えていたのでしょうか。

1年10ヶ月もの長きに渡りアメリカやヨーロッパを視察した日本人たちは、持ち前の勤勉さをもって海外の文物を調査し、吸収をしていきます。

彼らはやみくもに西洋の政治形態や文明をありがたがるのではなく、日本と西洋を比較して、良いところ、悪いところをしっかり考えます。そこには劣等感はなく、外国人に引け目を感じることもなかったのでしょう。

経営者でもある著者は、当時の使節団員を知ることで、現代のリーダーに必要な条件を考えます。歴史書としても、ビジネス書としても参考になる本です。

『米欧回覧実記』から辿る岩倉使節団

著者
泉 三郎
出版日
2001-12-03

著者は、実際に使節団員だった久米邦武が著した『米欧回覧実記』を知り、彼らが辿った行程を旅しました。その足跡を、写真と絵図を用いて紹介したものが本書です。いわば岩倉使節団についてのフィールドワークの集大成といえるでしょう。

当時の日本人がどれほど多くの文物を見聞きしたのか視覚的にとらえることができ、使節団を把握するのに役立つことでしょう。

岩倉使節団は国家の命運をかけた大冒険だった

著者
泉 三郎
出版日
2004-07-01

明治新政府の黎明期、政府の中心人物たちの長期大外遊が果たして成功するのか否か……国家の命運をかけた大冒険が始まります。

元維新の志士の政府高官や、旧幕臣の語学堪能な外国通の書記官たち、世が世ならお殿様になる大名や公家の子弟たち、向学心に燃えた書生たちや、まだ年端もいかぬ女の子まで、さまざまな人を乗せた岩倉使節団の一行が、横浜から船出します。

日本に残る留守政府も「鬼の居ぬ間に洗濯」とばかり、約定違反の改革を進めていきました。

本書では岩倉使節団の海外視察の旅と、日本の国内事情が同時進行で描かれています。視察内容はもとよりその前後の状況も書かれているので、広い視野で当時の状況を読むことができます。
 

帝国主義的だった西欧諸国が日本人を温かく歓迎し、惜しみなくその知識や技術を与えてくれたことが、どれほど当時の日本にとってありがたかったことでしょう。彼らひとりひとりが西洋でそれぞれの分野の種を摘み取り、日本で大輪の花を咲かせました。確かに岩倉使節団は莫大な費用を使いましたが、決して浪費ではなかったのではないかと思います。

「ここ一番/金と時間は/使うべし/無用の用と/古語もいわくら」このような狂歌も読まれているのです。

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