5分で分かる白虎隊!会津のために命を尽くした少年隊とは

更新:2021.11.10

飯盛山での自刃であまりにも有名な会津の白虎隊ですが、彼らはいったいどのように戦い、短い命を燃やしたのでしょうか。より理解を深めることができるおすすめの本もご紹介致します。

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白虎隊とは

兵制改革

会津藩は長沼流の兵学を用いた槍隊が中心でした。ところが鳥羽伏見の戦いで、新政府軍は西洋式の戦い方(銃の導入など)をしていたため、歯が立ちませんでした。

そこで会津藩では兵制改革を行います。その内容は①装備を洋式に改める、②軍隊を年齢別に編成する、③農民から兵を募集する、という3点でした。

②では、中国の神話にある、「四神」と呼ばれる天の方位の神々を年齢別隊の名称にしました。その四神とは、青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)です。

年齢の内訳は以下の通りです。 

 

  • 白虎隊 16歳から17歳
     
  • 朱雀隊 18歳から35歳
     
  • 青龍隊 36歳から49歳
     
  • 玄武隊 50歳以上
     

 

各隊は身分ごとに士中、寄合組、足軽に分かれていました。士中とは単独で主君に会うことができる階級で、白虎隊では士中は80人ほどいて、そのなかでも2つの中隊に分かれていました。

会津戦争が起こった理由

1868年、薩摩、長州両藩が中心の新政府軍が、旧幕府勢力を一掃しようと戊辰戦争を始めました。初戦の鳥羽伏見の戦いで最後の将軍となった徳川慶喜が敗走し、その後蟄居します。

直接慶喜を攻撃できずに終わった新政府軍は、その矛先を会津藩にむけます。なぜなら幕末、会津藩は京都守護職として、倒幕運動をくり広げていた長州藩中心の浪士を武力で取り締まっていたからです。

1868年の1月、新政府は仙台、米沢を中心とする東北の各藩に会津追討令を出します。しかし東北諸藩とその周辺の藩は「この戦いは、薩摩、長州藩の私怨による戦い」なので追討などできないと考え、逆に奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に反旗を翻します。

これにより新政府軍は同盟諸藩と戦闘を始めました。そのなかのひとつが会津戦争なのです。

白虎隊の最後

白虎隊隊士招集

8月21日、新政府軍により会津城下へつながる母成峠が破られ、白虎隊の士中隊が招集をかけられます。士中一番隊は待機、士中二番隊が藩主の松平容保に従い滝沢村に出動しました。

当初二番隊は前線まで出る予定はありませんでしたが、十六橋方面の防備が手薄とのことで戸ノ口原投入が決まりました。少年たちは見送りに現れた容保にフランス式捧げ銃の礼をとってから滝沢峠を目指します。
 

新政府軍との戦闘
 

戸ノ口原で新政府軍と戦闘がはじまり、士中二番隊は銃撃に参加します。しかしこの日は日没になり戦闘は中止、白虎士中二番隊は緒戦を終えます。

その夜、士中二番隊は別の隊と挟み撃ちをする作戦をとり、新政府軍に逆襲を仕掛けようと考え移動していました。途中まで進んだとき、中隊頭日向内記が「我らには食料がないから、ほかの隊から都合してもらってくるのでここで待っているよう。」(『平石会戊』から引用)と言い、隊士たちはその場に待機しました。

空腹と寒さに加え、その夜は雨天。少年たちは木の下でしゃがみ込んで中隊頭の帰りを待っていました。夜がふけようとしたころ、教導の篠田儀三郎という隊士たちのリーダー格の少年が「隊長はいまだ帰らないので、今から自分が指揮をするので心得るよう。」と歩みだします。その後、士中二番隊は4班に分かれて行動しました。

8月23日夜明けごろ、篠田率いる隊は敵を見つけ銃撃しますが逆襲され退却します。城下への道は敵が遮っていることを知らなかったので、途中新政府軍から射撃を浴びて仲間が負傷しました。

敗走
 

隊士たちは飯盛山の東側へ逃れます。その山裾に弁天洞と呼ばれる洞門がくりぬかれて、戸ノ口から城下町用水を送るため山の西側に通じている水路がありました。洞門を抜けると若松です。篠田率いる士中二番隊の16人は(17人という説もある)、洞門を潜り抜け若松城下が一望できる高台に到着します。

彼らが見た光景とはいったいどんなものだったのでしょう。城から飯盛山までの距離は2800mほどあり、山の斜面から見ると城下の奥行きがよくわからない状態になります。そこで隊士たちには城下が燃えているのが、天守閣が燃えているように見えてしまったのです。

自刃
 

隊士の中には当初城で必死に戦うといって隊を退却させ、自刃に賛成しなかった者もいましたが、天守閣が燃えてしまってはこれまでと思ったのでしょう。「今こそ殉ずべきときである。諸君、覚悟したまえ」(『十九士伝』から引用)といい、自刃を決行します。飯盛山で自刃を決行したのは20人で、そのうち1人だけはかろうじて生き延びました。夜間に移動したので、はぐれたり、ほかの班が合流したりしてこの人数になったものと思われます。

白虎隊士は約300人いました。そのうち戦死者と自刃したものは合わせて50人ほどになります。

飯盛山で唯一生き残った隊士、飯沼貞吉

飯盛山で自刃が行われてしばらくたったころ、足軽の印出新蔵の妻ハツが子供を探してやってくると、1人の少年がうめいていました。見ると顔見知りの飯沼貞吉でした。喉を刺した貞吉は死にきれずに苦しんでいたのです。ハツが彼を背負い、その後医者を呼んで手当てをして一命をとりとめました。

貞吉はのち電信学校に入学し、通信技師になり全国各地に赴任します。貞吉は日清戦争にも従軍し、「日清戦争初の勝報・飯沼の使命成功、白虎隊の生き残り」と新聞に報道されました。

貞吉自身はあまり白虎隊について語らなかったそうです。死に損なった自分を恥と思う気持ちもあったのでしょう。

彼は76歳で亡くなります。その遺髪は本人の遺言で会津に帰り、飯盛山にある仲間たちの墓のそばに埋められています。

白虎隊士のその後

隊士のなかには、その後社会的に成功した人たちがいます。山川健次郎は東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長を歴任し「白虎隊総長」とあだ名されました。柴四朗はベストセラー作家となり、衆議院議員に当選します。赤羽四郎はスペイン公使、高木盛之輔は釧路、甲府、山形の検事正を歴任しました。

今でも白虎隊が人気の理由

会津若松の鶴ヶ城を望む飯盛山では、白虎隊隊士の墓で死者を弔う人が絶えません。

わずか16、17歳の少年たちが、状況把握を誤ったために自刃を決行したというのが哀れを誘いますし、最後まで武士としての誇りを見せた潔さにも人は心惹かれるのでしょう。

白虎隊の概要を知る

著者
中村 彰彦
出版日
2016-01-04

白虎隊といえば飯盛山での自刃が有名なので、少人数だったのではないかと思われがちですが、実は総勢300人を超える隊であったことはあまり知られてはいません。

本書は、会津戦争のなかでどのように彼らが働いたのか、一人ひとりどのような人物であったのか資料をもとにあらわされたノンフィクションです。

白虎隊の成り立ちから、その後の彼らの人生までよくわかる一冊になっています。

白虎隊の生き残りの人生

著者
飯沼 一元
出版日
2013-03-15

著者は飯盛山での自刃で唯一の生き残りの飯沼貞吉の孫にあたります。飯沼家では白虎隊の話をするのはためらわれ、貞吉自身もあまり白虎隊のことを語らなかったそうです。

死にきれなかったことが恥とされた時代。その場で自刃するよりも、彼はつらい人生を歩んできたことでしょう。

白虎隊を終えてからの人生のほうがはるかに長かった貞吉が、どのようにその後の人生を生きていったのか、丹念に資料を読み解かれています。著者は「白虎隊の会」も設立し、歴史を知ってもらうための活動もしています。

460ページほど書かれている大作ながら、一気に読み進めることができる内容です。

会津の歴史がわかる超大作

著者
早乙女 貢
出版日
1999-06-18

歴史小説家、早乙女貢が著した『会津士魂』は全13巻で、幕末の京都時代から鶴ヶ城落城までの会津藩の歴史について書かれた小説です。今回ご紹介するのはその12巻「白虎隊の巻」です。

物語は新政府軍がいよいよ城下に迫ってきた、という会津の危機的状況から始まります。登場人物は多数いますが、エピソードを交えたストーリー展開はとてもわかりやすく、物語の世界に引き込まれることでしょう。

著者の曽祖父は会津藩士で、戊辰戦争にも参加していたといいます。その祖先の思いも汲み取って書かれたこのシリーズは、著者のライフワークにもなっています。「白虎隊の巻」以外の巻も読破すると、会津についての歴史が把握できるでしょう。

少年たちから見た戦争

著者
中条 厚
出版日
1998-12-01

この小説は白虎隊の少年たちの目線から語られた作品です。

彼らはこの戦いのなかで、どのように考え行動していったのか。まだ子供らしいところも見られる少年たちが、とてもいとおしく感じられるでしょう。

彼らが藩のなかで学んできたことや、隊の編成なども詳しく記述されており、白虎隊についての資料としても、よくわかる内容になっています。

少年とはいえ飯盛山にいた隊士たちは士中隊です。会津藩士のなかでも上の階級に所属している彼らの誇りも見られます。自刃に至るまでの経過が丁寧に書き記され、胸が痛くなるでしょう。

少年たちのまっすぐな心が胸に響く作品です。

白虎隊の士中二番隊が前線に投入され、滝沢峠を目指して歩いているとき、多数の村人たちが心配そうにその光景を見守っていたそうです。それほど当時の人にとっても彼らは幼く見えたのでしょう。

初めての戦いの翌朝に自刃するというあまりにも悲惨な出来事は、会津の人のみならず多くの人の心にいつまでも刻み込まれます。

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