「原始、女性は太陽であった」という言葉を残し、ウーマンリブの先駆者として、生涯をかけて女性と平和のために奔走し続けた活動家、平塚らいてう。今日の日本の女性が社会で自由に生きる基盤を創った、彼女の思想に迫ります。
平塚らいてうは1886年、東京にある古くから続く士族の流れをくむ裕福な家庭に生まれます。国内外を飛び回る政府の高級官吏を父に持ち、幼少期は何不自由なく過ごしました。
彼女が生まれた1800年代後半は、文明開化による欧化主義から一変して、日清、日露戦争前夜の国粋主義思想が広まり、治安警察法もこの頃に発布されました。また、ようやく女子への教育制度が整いつつあったとはいえ、当時の女子教育は「良妻賢母」の理念が掲げられており、家を守ることがよしとされる女性にとって、社会進出など遠いものでした。
彼女も例に漏れず、良き妻、良き母となることを望む父に従い、1900年に東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属中学校・附属高等学校)へ進学します。
小学校時代から成績抜群の優等生であった彼女でしたが、時代の流れに添うように復古思想を強める父や当時の女子教育に反抗心を持つようになり、級友と「海賊組」という集団を作り道徳の授業をサボるなど、活発な女学校時代を過ごしました。
卒業後は父の反対を押し切り、日本で初めての「女子のための大学」である日本女子大学校に進学します。彼女はここで、創立者の成瀬仁蔵による「実践倫理」に心酔し、哲学や宗教、倫理学を通して、後の女性活動家としての人生の素養を身につけました。
卒業後も、女性として自活することを目指して様々な思想や学問を探求する中で、25歳の時に、日本初となる女性による女性のための雑誌、『青鞜』を発刊します。この時、「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。」という創刊の辞を寄せ、他の光によって輝く蒼白い月のような生活を余儀なくされていた、当時の女性たちに啓蒙しました。
1:ひ弱で小柄だった
平塚らいてうという人物を、その活動や文章の力強さから想像すると、はきはきとした物言いのキャリアウーマンを思い浮かべるでしょう。しかしその実像は全く対極にあり、小柄で生まれつき大きな声が出せない体質で、学生時代は奥手だったといいます。
彼女自身、その体質により幼少期に嫌な思いをしたと後に語っていますが、そうした日常的に感じていた人とのコミュニケーションの不具合の解決策を、文章に見出したのかもしれません。
2:自分を「新しい女」だと宣言した
平塚らいてうの魅力の一つに、表現の美しさがあります。彼女は自身の思想を伝えるために多くの新しい表現を生みました。1913年の『中央公論』に寄せた記事の中で、自身を「新しい女」と表現し、反響を呼んでいます。
彼女は、それまでの女性たちは「男性の便宜のために作られた法律の下で奴隷のような生活を送っていた」と訴え、「自分は新しい女である。太陽である。唯一人である。少くともそうありたいと日々に願い、日々に努めている。」と主張しました。
3:愛人と心中未遂
平塚らいてうは大学卒業後、語学や禅の修行など活動的な日々を送りながら「閨秀文学会」という私塾で文学も学びました。女学校時代までは、異性関係には全く興味が持てなかった彼女でしたが、ここで夏目漱石の門下生でもあった運営者・森田草平と出会い、不倫の関係に陥ってしまいます。
そして、とうとう2人は雪の残る栃木県塩原温泉の峠で心中をはかるのですが、失敗に終わりました。この事件は当時センセーショナルに取り上げられ、過剰な報道や父の辞職勧告などを体験したらいてうは、世間と自身は別次元であるという個人主義的思想を一層強めていくのでした。
4:事実婚の実践
平塚らいてうは『青鞜』時代に出会った画家志望の青年・奥村博史と恋に落ち、彼との共同生活を始めます。5歳も年下の男性との恋も当時は常識破りでしたが、女にとって極めて不利な規定に基づいているとして、彼女は結婚という形をとることを否定しました。
この同棲生活を始めるに当たり、彼女は「独立するに就いて両親に」という記事を発表しますが、その中で「恋愛中の男女が一緒に住むのは当然のことで、そこに結婚という形式は必要ない」と語っています。
5:母性保護論争を巻き起こした
たび重なる発行禁止など、当時の世間において受け入れられることが難しかった『青鞜』の発行権を、同じく活動家で大杉栄の内縁の妻・伊藤野枝に譲った後、らいてうは出産により一度は家庭生活に専念します。
その生活の中で、労働に対する賃金は支払われるのに対し、次世代を育てる家庭内での労働にはそれが発生しないことに疑問を抱くようになりました。そして、子供が母の手を必要とする期間、国庫が母の仕事に対して報酬を支払うべきという「母性保護」を主張します。
これに対し与謝野晶子は、国家に対する依頼主義だとし、男性寄食と変わらないと反論。母性の価値をめぐるこの論争は社会問題化しました。
6:生活協同組合を立ち上げた
平塚らいてうは、資本主義社会で生まれる階級に否定的でした。また、子育てと社会活動の両立に悩む中で、周囲との支え合いの重要性も実感していました。それらをきっかけに、ピョートル・クロポトキンの『相互扶助論』に学び、協同的自給自足を目標とした消費組合「我らの家」を立ち上げます。
彼女は、政治経済の世界で常となっている、男性による闘争的な流れを批判し、平和的で助け合う日々の生活から、それらに立ち向かおうとしたのでした。
7:母として反戦活動を行なった
平塚らいてうは自身の生活の変化に合わせて、女性解放から、平和や反戦活動にまで視野を広げるようになります。第一次世界大戦を経験した彼女は、再び子供たちが戦争に向かうかもしれない可能性に危機を感じ、戦争を「生命の愛護者である「母」の最も憎悪するもの」と主張しました。
そしてその生涯において、幾度も戦争を経験する羽目になってしまった彼女は、以後、次世代を担う子を育てる母の立場から、人間は定められた国の国民である以前に「世界民」であるとし、その晩年まで反戦を訴え続けました。
本書は、女性活動家としてのみならず、さまざまな社会問題に対して筆を執ったらいてうの思想が詰まった一冊です。
彼女はその執筆活動において美しい比喩表現を用いましたが、ここではそれらの多くに触れることができるでしょう。
- 著者
- 平塚 らいてう
- 出版日
- 1987-05-18
また、家庭生活を通して、常に社会問題に目を向けていた彼女は、活動家である以前に悩める母でもありました。
そういった日常的な悩みを冷静に分析し、自分と同じように悩む女性たちのために思いを発信し続けた彼女の熱い文章は必見です。
彼女が生まれた明治期は、古くからの制度にとらわれ、女性が自身の権利を主張することなど思いもよらない時代でした。
- 著者
- 出版日
- 1991-04-16
そのなかで、過激な内容によりたびたび発刊を禁止され、わずか六巻の発行で休刊してしまった、日本初の女性雑誌『青鞜』。本書にはその代表的な作品がまとめられ、今日の女性たちの「普通」を創り上げた、当時の若き女性たちの奔走を知ることができる貴重な一冊となっています。
本書は、平塚らいてうと奥村博史の孫による、彼女の私生活についての回想録です。
1971年、85歳の天寿をまっとうした彼女は、時代を牽引するにふさわしい威風堂々たる女性ではなく、はにかみやで声の小さな女性でした。
- 著者
- 奥村 直史
- 出版日
- 2011-08-11
そのエネルギーを筆に乗せて多くの人に伝えた彼女は、孫から見てどのような女性だったのでしょうか。ここでは活動家であると同時に、そういった「おばあちゃん」としてのらいてうの、晩年の細かな営みをのぞくことができるでしょう。
彼女が生まれてから亡くなるまで、日本は事変と呼ばれるものも含め、6度もの対外戦争を起こしています。これらの現実は、らいてうの個人主義かつ反権威主義的思想に少なからず影響しているでしょう。
彼女による、ナショナリズムや男性主義的な社会への痛烈な批判は、時としてその活動の規制を強いられましたが、彼女はその活動を生涯貫き続けました。
- 著者
- 小林 登美枝
- 出版日
本書は、その若き日々の女性解放運動のみならず、敗戦以降の平和活動や、病に倒れた最晩年についても多く記されています。
一貫して生命の尊厳を主張し続けた彼女の、たくましく美しい生き様を存分に知ることができるでしょう。
いかがでしたでしょうか。バリキャリという言葉も生まれるほど、現在女性が社会で活躍する姿はめずらしいことではありませんが、それらは今とは比べものにならないほど過酷な差別と偏見の時代に生まれた、平塚らいてうのような活動家たちが奔走したからこそ、享受できているともいえるでしょう。
ぜひ、明治の静かなるキャリアウーマンの熱い思いに触れてみてください。