幕末から明治時代の黎明期まで活躍した奇兵隊とは、どのような軍隊だったのでしょう。奇兵隊の成り立ちから終わりまで、創設した高杉晋作の話も交えてご紹介します。
奇兵隊とは、幕末に長州藩で組織された非正規軍隊です。長州藩士の高杉晋作が、沿岸防備のため藩に願い出て創設しました。
「奇兵」は「正規」に対するもので、正式な武士とは違い奇襲攻撃をおこなう兵という意味。藩の正規軍を補う目的でつくられ、武士以外の者が武装することが初めて公に認められました。
結成の計画書には「身分を問わず、志のあるものなら誰でも取り立てる」と記されています。実際に奇兵隊の構成員は、武士がおよそ50%、農民がおよそ40%、残りの10%が商人などその他でした。
この長州で創られた「長州奇兵隊」のほかに、西南戦争の時に西郷軍が部隊編成を変えて結成した「西郷軍奇兵隊」というものもあります。
攘夷運動
江戸時代末期、開国はしたものの、国内では攘夷運動が盛んにおこなわれていました。「攘夷」とは外敵を追い払うという意味で、つまり欧米や西洋を力で追い払い、国内に入れないようにする考え方です。
なかでも外国嫌いであった孝明天皇は幕府に攘夷を迫っていて、将軍家茂はやむなく、1863年5月10日を攘夷決行の期限として天皇に奏上しました。
そして運命の5月10日、長州藩の攘夷推進派たちが下関沿岸にある砲台から、関門海峡を通過する外国船を次々と砲撃したのです。
奇兵隊の創設
1ヶ月後の6月、外国船が報復攻撃のために長州に襲来します。近代的な兵器と組織力を持つ外国軍に対し、長州藩の武士たちは逃げまどうばかりでした。
そこで長州藩は、海外視察経験のある高杉晋作を呼び出し、彼が奇兵隊の創設を提案したのです。以下のような5箇条をまとめ、藩政府へ提出しました。
1:奇兵隊は有志の者の集まりで、身分を問わず力量を重んじて強力な隊にしたい。
2:書面を前田孫右衛門に出せば、ただちに藩主に届くようにしてほしい。
3:既存の小銃隊などの組織から参加する者もいるだろうが、身分が低いこれらの者も拒否せず隊に加えたい。
4:日記を書きつぶさに報告するので、賞罰の裁定は身分にかかわらず速やかにしてほしい。
5:和流(槍や刀剣)、西洋流(銃)にかかわらず、それぞれの武器で戦う。
このようにして、1863年6月7日、長州奇兵隊は結成されました。また奇兵隊以外にも商人たちの朝市隊、猟師たちの遊撃隊、相撲取りの力士隊など、民衆の軍隊が次々と結成されました。
長州奇兵隊をつくった高杉晋作とは、どのような人物だったのでしょうか。
【生い立ち】
高杉晋作は1839年8月20日、山口県萩市で生まれます。高杉家は長州藩の家臣団の中核をなす家格で、晋作はその後継ぎとして家中から大切に育てられました。
彼は藩の上級武士の子弟が通っていた明倫館に入ります。しかしありきたりの学問に満足しきれず武術にばかり精を出す日々を送っていました。そんな時、親友の久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の開いていた松下村塾に通いだします。
塾では日本を取り巻く国際情勢について議論されました。松陰は徐々に過激になり、幕府を批判するようになって、1859年に刑死しました。
【上海視察】
師を失った晋作は、松陰が果たせなかった海外視察の夢を叶えます。1862年、藩の代表として上海に派遣されたのです。
イギリスとフランスに侵略された中国は半ば植民地のようになっており、西洋人に中国人たちがこき使われていました。このままでは日本も中国の二の舞になると危惧した晋作は、このまま幕府に外交政策を任せられないと、倒幕を考え行動に移そうとします。
ところが藩の家老は「10年たったらお前の言うような時期が来るからそれまで待て」と諭し、「それなら10年暇をもらいましょう。」と、晋作は山奥に引きこもってしまいました。
【下関戦争】
1863年5月に外国船を攻撃して以来、長州藩は報復に訪れた海外の国とたびたび交戦します。これを「下関戦争」といいます。
1863年6月、外国勢が長州に攻撃をした際に、晋作は藩から呼び出されて奇兵隊をつくりました。さらに翌年の8月、アメリカ、フランス、オランダ、イギリスの4ヶ国が17隻の艦隊で長州に襲来。下関沿岸が外国艦隊の兵に占領されてしまいました。晋作は藩主より、外国艦隊との停戦交渉を命じられます。
8月8日、イギリス総督は停戦の条件として、巨額の賠償金を長州藩に要求してきました。それに対して晋作は、「戦争責任は幕府にあるから請求は幕府にしろ。」と答えます。結局賠償金は幕府に請求されることになり、講和条約が結ばれました。
【長州征伐】
同じころ、急進的な攘夷運動で天皇からも幕府からもにらまれていた長州藩に、幕府から15万もの長州征伐軍が迫ります。藩内では幕府に許しを得ようとする保守派が実権を握り、急進的な一派は身の危険にさらされ、晋作は九州に身を隠しました。
1864年11月11日、長州藩は幕府に屈し、家老3人が切腹、参謀4人が処刑されました。その知らせを聞いた晋作は長州に舞い戻り、藩を牛耳る保守派を倒すため、奇兵隊や諸隊に決起を呼びかけます。
当初集まったのは、伊藤博文率いる力士隊や遊撃隊など80人でしたが、下関にある藩の役所を襲ってさらなる決起を促すと、軍は3000人もの兵力に膨らみました。
1865年1月7日、保守派との戦闘が始まります。近代的な装備を持つ奇兵隊の攻撃は、保守派を圧倒。藩内から保守派を追放し、長州藩は倒幕に立ちあがることになるのです。
一方急進派の決起が成功したことを知った幕府は、1865年4月、再び長州征伐発令を出します。すると晋作は留学を中止して、長州に舞い戻り、奇襲作戦で幕府軍を次々に打ち破って勝利をおさめました。
【晋作の最期】
結核に侵された晋作は、明治維新を目前にした1867年4月14日、息を引き取りました。享年29歳でした。
【奇兵隊解散】
奇兵隊は明治維新後、新政府軍の一員として戊辰戦争を戦います。戦中は兵隊が多数必要とされるので活躍することができましたが、戦争が終結すると奇兵隊などの諸隊は不必要な軍事力として持て余されるようになりました。
そこで山口藩は(明治以降、長州藩が山口藩になった)5000人ほどいた諸隊から2250人を精選して常備軍とし、残りを解散させるという兵制改革を断行しようとしました。
1869年11月27日、山口藩は奇兵隊など諸隊を廃し、常備軍として4つの大隊を編成します。しかし論功行賞も不十分、身分重視の人選など、不公平な面がありました。
解雇される者の多くは農家の次男、三男などで、故郷に帰ったところで自分たちが耕作できる田畑もないのです。彼らはだからこそ奇兵隊に入り、武士や軍人になるのを夢見ていました。
【脱退騒動】
12月1日、奇兵隊や遊撃隊など諸隊の1200人ほどが集まり、山口藩を脱して防府を本陣とし、藩政府と対立を深めます。
これが脱退騒動と呼ばれる反乱事件の発端で、人数はしだいに増え2000人にまで膨れあがりました。彼らは多くの嘆願書を藩政府に出しますが、山口藩知事の毛利元徳は「功績は認めるが、しばらく指示を待て」と鎮静化を促します。
しかし脱退兵は収まりがつかず、藩知事の居館を囲みます。藩政府と脱退兵士との関係は悪化し、対立が決定的なものになったのです。
そして1870年2月9日、山口藩の鎮圧隊と脱退兵士たちが衝突しました。2月11日には鎮圧隊が脱退兵を粉砕し、藩知事を開放。これ以降反乱を起こした首謀者や兵士たちを、藩は厳罰に処します。死罪になったものだけでも130人を超えたといいます。生まれ故郷で斬首されたり、遺族たちが姓を改めなくてはいけなかったりと、奇兵隊の末路は哀れなものでした。
- 著者
- 落合 莞爾
- 出版日
- 2014-01-22
日本史について独自の解釈を転回する、「落合秘史」シリーズのうちのひとつです。ほかにも『明治維新の極秘計画』『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』『南北朝こそ日本の機密』などがあります。
本作は明治維新前後の出来事を中心に著されていますが、話は過去にも遡ります。
著者は、南北朝以来、日本の国体を見守ってきた「ウラ天皇」が歴史的事件の陰で指令を送っているというのです。ウラ天皇って、何でしょうか。そして明治天皇と入れ替わった奇兵隊の人物とはいかに……。
- 著者
- 一坂 太郎
- 出版日
- 2002-10-01
本書では奇兵隊の実像や、それにまつわる人々をわかりやすく説明しています。
いまでは地元のヒーローの高杉晋作の姪の縁談がなかなかまとまらなかった、奇兵隊の評判がよくなかった、など地元ならではの話も盛りだくさんで、目の前で歴史談義を聞いているように楽しく読むことができるでしょう。
奇兵隊の成り立ちから最後までが詳しく書かれているので、これを読めば長州藩の維新前後の様子が非常によくわかります。新書ですが写真も多く掲載されているので、より興味がわくことでしょう。
- 著者
- 小野 剛史
- 出版日
- 2017-08-02
長州奇兵隊の戦いを、幕府軍・小倉藩側から描いた物語です。
まるで戦国時代のような甲冑と武器で戦う小倉軍が、新式装備の銃を携えた奇兵隊にかなうはずもなく城を燃やして逃走します。しかし、普通ならばそれで終わるところが、小倉藩士は意地を見せるのです。
小倉藩士たちの、あの手この手のゲリラ戦。彼らはどのようにして戦ったのでしょうか。将軍家茂の死去後、孤立無援で必死に戦った小倉藩士たちの奮戦ぶりを、ぜひご一読ください。
- 著者
- 一坂 太郎
- 出版日
- 2014-07-25
本作は、高杉晋作の評伝です。彼の家系や功績が淡々と記述されます。とはいえ教科書のような無味乾燥なものではないので、晋作の人となりがよくわかり興味深く読むことができます。
晋作の29年の生涯は、年月でいえば短いのかもしれませんが、彼がしてきた業績を見れば普通の人の何倍ものことを成しえたということがわかるでしょう。
伊藤博文が晋作のことを「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」と言いましたが、まさに駆け抜ける生涯を過ごした人物でした。
長州奇兵隊員たちは、自分たちが倒幕をし明治維新を成功させたという自負があったことでしょう。しかしながら戦争が終わると不要の者扱いされ、挙句の果てに一緒に戦った仲間から鎮圧されるという悲しい結末を迎えます。
身分に関係なくつくられた軍隊が、最後は身分差別で解体されてしまうのです。維新というと何か新しい世界が開けたような感じを受けますが、旧態依然とした一面も残っていました。