呂后、則天武后とならび、中国三大美人の一人に数えられる西太后。その美しさは老いても衰えることなく、晩年でも髪は黒々として、肌も奇麗だったといいます。残酷なイメージの付きまとう女性ですが、はたしてその一生はどのようなものだったのでしょうか。
「西太后」とはもともと帝の婦人として与えられた名称で、彼女は幼名を「蘭児」といいます。出自に関しては謎に包まれた部分が多く、出身地などは現在も判明していません。生まれた家は裕福だったとも、貧しかったとも言われていますが、官僚の父を持ち、読み書き、裁縫など広い教養を得たそうです。
16〜18歳の頃に咸豊帝の側室となりますが、この時はまだたくさんいる側室のうちの1人にすぎませんでした。そんな少女の運命が一変したのは、彼女が次の世継ぎたる皇帝の長男をお腹に宿した瞬間からです。
1861年に咸豊帝が亡くなると、まだ幼い同治帝が即位します。蘭児は皇帝の母として「皇太后」の称号を得るようになります。ただ、逝去した咸豊帝には正妻がいました。つまり、皇太后が2人存在するようになったのです。紫禁城の東側に住んでいたのが正妻が「東太后」と呼ばれていたため、西側に住んでいたのが蘭児が「西太后」と呼ばれるようになったのです。この時、27歳でした。
しかし、幼い子供に政治ができるはずがありません。そのため、実の母西太后が「摂政」として実権を握ります。
彼女は政治的に非常に才のある人でした。咸豊帝死後、粛順という部下が簒奪を狙おうと怪しい動きを見せると、この粛順とその近辺を排除してクーデターを起こします。この功績により、彼女は政治的に大きな力を持つようになりました。
その後、わずか19歳で同治帝が崩御してしまいます。あまりに若すぎる死ゆえに、彼には後継者がいませんでした。西太后は自分により血縁のつながりのある「光緒帝」を世継ぎに指名します。
東太后も亡くなると彼女は完全に実権を掌握し、その後は74歳で崩御するまで政治の表舞台にたちつづけました。
1:暴虐残忍な悪女というのは後世のイメージだった
ライバルの女性の両手両足を切り落として壺に入れたという話など、「西太后」と聞くと残酷で激しいイメージがありますが、実はこれは後世に作られたフィクションです。また、彼女が嫉妬深かったというのも俗説であり、ライバルだった他の側室女性たちも、特に危害を加えられることなく生活したとの記録が残されています。
2:非常に健康的で、美しい容姿を維持した
西太后は74歳まで生きましたが、当時の中国の平均寿命は45歳前後でした。このことから相当な長生きをしたことがわかります。しかも高齢にもかかわらず肌もつやつやで、白髪もほとんどなく黒々としていたということですから、かなり健康的だったといえるでしょう。
現在は、後に紹介する『西太后のアンチエイジングレシピ』や『西太后の不老術』など、彼女の美と長寿の秘訣を紹介した本も出版されています。
3:洋務運動を推進し、近代化に貢献した
彼女の大きな政治的功績の一つに、中国の近代化に大きく貢献したことがあげられます。鉄道の敷設、電灯の導入、炭鉱の開発など、今までにない取り組みを導入し、国は大きく復興しました。この一連の改革は「洋務運動」と呼ばれています。
4:当時の女性にしては珍しく、公文書の読み書きができた
官僚の家に生まれた西太后は、勉学に励む兄弟の姿を見ながら過ごしたそうです。また側室となったのちも熱心に勉強を重ねたといいます。そのため当時の女性にしては珍しく、公文書の読み書きができたといいます。この勤勉さのおかげで、政治の表舞台に立ち続けることができたでしょう。
5:甥の光緒帝とほぼ同時に亡くなった
西太后がなくなった前日、実は光緒帝もなくなっています。あまりにタイミングが合いすぎたために、光緒帝の死は西太后による毒殺なのでは?と噂されてしまいました。しかし、病死とも他殺とも知られず、犯人も特定されていないため、真相は現在も歴史の闇のなかにあります。
6:晩年は西洋趣味にふけった
西太后即位当初は、アヘン戦争・アロー戦争で中国は大きな被害を受けたので、彼女は西洋諸国を目の敵にしていました。しかし晩年は一転して西洋の趣味を好んだと言います。バレエやワルツを鑑賞したり、パリの最新のファッションを楽しんだりと、意外と女性的な一面を持つことがうかがえます。
先述のとおり、西太后の「悪女」というイメージは後世の後付けです。
そのうえで本書は、彼女の真実な姿を浮き彫りにするとともに、当時の清朝や中国社会についても言及・考察したものとなっています。
- 著者
- 加藤 徹
- 出版日
- 2005-09-01
筆者・加藤徹は中国文学の研究者であり、ご夫人も中国の方です。2017年現在明治大学の教授を務めながら「嘉藤徹」名義で小説の執筆活動も行なっています。
西太后が「悪女」ではなく、政治的才能に恵まれ内政外交に手腕を発揮し、末期の清朝を導いてきた様子がよくわかります。偏ったイメージを捨て、彼女の実像に迫るには最適の一冊です。
この本の筆者である徳齢は数年ではあるものの、実際に宮中で西太后に仕え、非常に気に入られていたという経歴のある方です。本書は、そんな「宮中のリアル」を知る人物の手で、当時の生活記録が物語風に記されたものです。
西太后という人物を知る上で、これ以上ない貴重な作品となっています。
- 著者
- 徳 齢
- 出版日
西太后が化粧や服を選ぶシーンなど、一緒に生活をしていなければわからない一挙手一投足まで事細かに描かれています。アメリカの女性画家に自分の肖像画を描かせるところなど、西洋趣味にはまっていた彼女の詳しい様子もよくわかります。
2017年現在は西太后が亡くなって100年以上経ちますが、歴史の中の人として考えるにはあまりに近く、1人の「人」として西太后を感じられる非常に貴重な記録です。
中国三大美女として名を連ね、死の直前までも若々しさを保ち、意識もはっきりしていた西太后。その美しさの秘密の一つに「食」にありました。
その食生活とレシピについて研究しまとめたのがこの本です。
- 著者
- 阪口 珠未
- 出版日
- 2012-11-16
当時の宮廷でなされていた食事を研究し、西太后がいかにして美や健康を保ったのかが書かれています。
現代の生活で実際に使える豊富なレシピや、「冷たいものは食べない」「お茶の時間を大事にする」などの食べ方の部分についても紹介され、丁寧な生活の送り方についても学ぶことができます。全ページにカラー写真も載せられているので、目にも楽しく読むことができるでしょう。
食習慣を変えたい、健康に気を使いたい、という方はぜひ手に取ってみてください。
クーデター、日清戦争、義和団……。当時の清朝は内憂外患で、そのストレスは大きかったことでしょう。また仕事はすべて部下たちがやってくれ、美食家として知られていた西太后は、片寄った食生活と運動不足という問題も抱えていました。
それなのに、なぜ晩年まで若々しさを保つことができたのでしょうか?その一つに「漢方がある」と筆者はいいます。
- 著者
- 宮原 桂
- 出版日
- 2009-03-01
東洋医学は漢方を用いて病気を治そうとするのはもちろん、「体の根本から変化させる」ということも目的としています。また、常に体調をコントロールすることをめざしていることから、ダイエットにも大きな効果があります。
健康やダイエットなど、体に嬉しい「漢方」の秘密に迫ることができる一冊です。
勤勉な才女で、中国の近代化に貢献した人物であるにもかかわらず、どうしても「悪女」というイメージが払拭しきれない西太后。本書では、丹念に集めた膨大な資料をもとに、彼女のイメージの裏に隠された真実が導き出されています。
『ワイルド・スワン』や『マオ』などの作品を手がけたユン・チアンが、西太后の真の姿を描き上げたノンフィクション作品です。
- 著者
- ユン・チアン
- 出版日
- 2015-02-11
彼女が咸豊帝の即側室となってから晩年までを、史実を追って丁寧に描き上げた作品になっています。そこからうかがえることは、「政治家」としての彼女の腕がどれだけ優れていたかということです。
上下巻構成で一冊300ページ近くあることから、なかなかに読みごたえのある本ですが、西太后、そして当時の中国社会に興味のある方は、ぜひ読んで見てください。
いかがでしたでしょうか。近年の多くの研究から、西太后の悪のイメージは少しづつ払拭されつつあります。激動の時代にあって、内憂外患の中国の中心に立ち、女性ながら最後まで指導した西太后、その素顔について少しでもわかっていただけたら幸いです。