幕末に、公家や大名をはじめ100人以上が処罰された、安政の大獄とはいったいどのようなものだったのでしょう。関わりの深い、井伊直弼とともにご紹介いたします。
安政の大獄とは、幕府の大老井伊直弼が、幕府に批判的な勢力を一掃するためにおこなった大弾圧のことです。
その対象は、将軍の跡取り問題で井伊らと対立関係にあった一橋派や、水戸藩をはじめとする幕府に批判的な勢力です。この弾圧で100人以上が処罰を受けました。隠居などの処罰を受けた者のなかには、天皇の親族や大臣、前水戸藩主徳川斉昭、後に15代徳川将軍となる一橋慶喜もいました。
また、慶喜を推した橋本左内や、長州藩の倒幕運動への道筋をつけた吉田松陰はこの時に斬首となっています。その他6人の人物が死罪となりました。
【日米修好通商条約締結】
1858年、アメリカ総領事のハリスが幕府に対し「アヘン戦争で清国に勝ったイギリスやフランスが、日本にも武力をもって、屈辱的な条約を結ぼうとするだろう。しかしアメリカと通商条約を結べば、アメリカが英仏との仲介役になろう。」と、条約調印を促しました。
大老の井伊直弼は、天皇の許可も得ておきたいと考えましたが、幕府の重役の多くがハリスの話を鵜呑みにして、条約調印を直弼に迫りました。直弼はやむなく調印を決めます。こうして、日米修好通商条約が締結されました。
【押しかけ登城】
朝廷に無断で条約に調印した噂は、瞬く間に広がります。御三家のなかでも勤皇派の水戸藩が黙っていないと思った直弼は、調印の責任を堀田正睦と松平忠固に押しつけて罷免、代わりに腹心の太田資始、間部詮勝、松平乗全を老中に命じました。
そして後日、直弼が予想したとおり水戸藩前藩主の水戸斉昭、その子で水戸藩主の慶篤、尾張藩主徳川慶勝の3人が登城して、直弼を待ち構えていました。世にいう「押しかけ登城」です。
斉昭らは無許可での条約調印を非難します。また同時期に生じていた将軍継嗣問題については、斉昭の子の一橋慶喜を推挙しました。ところが翌日、次期将軍は紀州徳川家の慶福に決定されるのです。
直弼はこのまま幕政を邪魔だてさせまいと、処罰に踏み切ります。尾張、紀州、水戸の御三家は、所定の日以外江戸城に登城しないという決まりがあったため、これを理由に斉昭らは謹慎などの処分を下されました。こうして直弼は、江戸城での水戸派の一掃に成功します。
【戊午の密勅】
直弼の処分に腹を立てた水戸藩の家臣たちは、巻き返しを図ります。京都の公家の協力のもと、孝明天皇の書状を得ることに成功したのです。その内容は「幕府が独断で調印を行ったのは軽率である。幕府役人はどういうつもりか不審だ。これからは御三家や諸大名で評議して、慎重に事に当たるように。」というものでした。
この同じ内容の書状が幕府にくだされたのはその2日後で、天皇が直弼ら幕閣よりも、水戸藩を重んじる態度が明白になりました。
安政の大獄をおこなった井伊直弼とは、いかなる人物だったのでしょうか。
【生い立ち】
1815年10月29日、直弼は滋賀県彦根市で生まれました。井伊家は徳川家筆頭の家臣だった名門です。有力大名家に生まれたとはいえ、直弼は側室の子で14男。長男の跡継ぎ以外の兄弟は、ほかの大名家に養子に行ったり、家臣に雇われたりしましたが、直弼自身はどこにも行くあてがないまま過ごしていました。
ところが1846年、藩主である兄の直亮の跡継ぎが亡くなったのです。そこでひとり家に残っていた直弼が跡継ぎに決定し、彦根藩35万石の領主になります。この時32歳でした。
【黒船来航】
1853年ペリー率いるアメリカ艦隊が三浦半島の浦賀へ来航し、開国を迫りました。大名や幕臣、庶民にまで意見を求めたところ、大半が開国に反対しますが、強大なアメリカの軍事力の情報を得た直弼は開国を決定します。
この時直弼は、「今のままでは勝ち目はないから、アメリカと交易して国力を養い、その後打ち払えばよい」という主張を持っていたという説もありますが、「開国した」という事実のみが広がり、攘夷派との対立関係をつくることとなりました。
【大老就任】
1858年4月、直弼は老中の上に立つ大老に就任しました。幕府の実質的な最高責任者です。そして6月には日米修好通商条約を締結し、その後翌年まで安政の大獄と呼ばれる弾圧をおこないます。
【桜田門外の変】
1860年、江戸城桜田門にむけて直弼の大名行列が進んでいく最中、水戸藩の過激浪士たち(一人薩摩藩士もいます)が行列を襲撃します。直弼はここで討ちとられました。
直弼は安政の大獄で幕府の強化を図ろうとしましたが、過激な弾圧が裏目に出ました。幕府と朝廷との関係は悪化、幕府自体も多数の有力な人材が排除されたために弱体化します。
また「桜田門外の変」で一国の最高責任者暗殺がなされたために、ますます尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を武力で打ち払う思想)志士が勢いづいてしまいます。幕府を守ろうとした政策が、幕府の衰退を早めてしまったのは皮肉なことです。
「近世日本国民史」シリーズは、幕末生まれのジャーナリスト徳富蘇峰が著した全100巻の大歴史書です。この『安政の大獄』は1933年に書かれました。
蘇峰自身もこの複雑な事件を書くのは難儀で、書き終わった時は重荷を下ろしたようだったと語っています。
- 著者
- 徳富 蘇峰
- 出版日
「いかなる井伊直弼の弁護者といえども、おそらくは安政の大獄をもって、井伊の善政と頌徳表を上るものはあらじ。」というように、かなり古めかしい表現ではありますが、ほかの一般的な歴史書では知ることができないような喚問の状況や資料もあり、安政の大獄をディープに探ることのできる一冊です。
本書には、井伊直弼や安政の大獄についてはもちろん、他の幕末のさまざまな場面のエピソードも数多く記載した逸話集です。
- 著者
- 野口 武彦
- 出版日
本書のタイトルの「首」から連想できる方もいるかもしれませんが、本書は「桜田門外の変」の様子と、事件の後のことについても触れています。彼が打たれる瞬間を綴った部分からは、見事な臨場感を感じられることでしょう。
本書は大老井伊直弼と、その腹心長野主膳を中心に、安政の大獄を描いた作品です。
安政の大獄に至る過程から、彼ら2人が亡くなるまでを丹念に説明しています。
- 著者
- 松岡 英夫
- 出版日
安政の大獄はなぜおこなわれたのか、そしてその処罰はなぜ、人々の予想よりもはるかに重いものになったのか……江戸と京都を舞台に、直弼と主膳の2人はどのように行動したのでしょうか。井伊直弼を弁護する人はいますが、主膳は……。
非常にわかりやすく記述されているので、この本を読めば、安政の大獄についてよく理解できるでしょう。入門書としてもおすすめの一冊です。
この時代の江戸は、地震やコレラの蔓延など、未曽有の災害にも見舞われます。外国船は来るわ、攘夷浪士は暴れるわで、江戸の町には不穏な空気が流れていたことでしょう。何やらその後の幕府の運命を思わせるような、暗い影が漂います。
3月3日に直弼が殺害されて以来、彦根藩家中では桃の節句を忌んで祝わないそうです。また同じ年、仇敵であった水戸の斉昭は、中秋の名月の宴の直後に急死しました。それ以来、水戸藩家中では中秋の名月を愛でないといいます。古来から日本人が愛でてきた、雪月花にまつわるこの話は、2人の因縁めいたものを感じさせます。