5分で分かる桜田門外の変!井伊直弼暗殺の原因とは?

更新:2021.11.10

1860年3月24日に幕府の最高権力者である大老、井伊直弼が水戸藩の浪士らにより襲撃されます。この桜田門外の変は、その後の歴史にどのような影響を与えたのでしょうか。

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桜田門外の変とは

桜田門外の変とは、1860年3月24日に江戸城に登城するため、大老の井伊直弼の大名行列が桜田門まであと400mほどのところで、水戸浪士17人と、薩摩浪士1人により襲撃された事件です。

これにより井伊直弼は討ち取られ、首をはねられます。その間わずか十数分だったといいます。事件現場には、水戸浪士で唯一その場で討ち死にした稲田重蔵のほか、数名の井伊の供侍と、首のない井伊の死体が横たわっていました。

桜田門外の変はなぜ起こったのか

日米修好通商条約の締結と将軍継嗣問題

大老井伊直弼と、元水戸藩主の徳川斉昭はふたつのことで、対立していました。ひとつは天皇の許可なく日米修好通商条約を幕府が締結してしまったことです。御三家のなかでも水戸藩は尊王攘夷(天皇を尊び、外国を武力で追い払う)思想で、この条約締結は海外と通商するということと、天皇の勅許を得なかったということのふたつの意味で許せないことだったのです。

もうひとつは、次期将軍を誰にするかという問題です。現将軍家定には後継ぎがいなかったため、井伊は紀州藩主徳川慶福を推挙、一方斉昭は実子の一橋慶喜(後の徳川慶喜)を考えていました。 

不時登城

斉昭は息子で水戸藩主の慶篤、尾張藩主の慶勝らをともない江戸城に登城、井伊に条約締結について問いただし、難局を乗り切るには一橋慶喜を将軍継嗣にするよう求めました。

しかしここでひとつ問題が発生しました。御三家、御三卿の登城日は決まっているのですが、これを無視して登城(不時登城)をしたため、斉昭は謹慎、慶篤と別の日に登城した一橋慶喜が登城禁止、慶勝を隠居・謹慎するという厳しい処分が下されます。 

また同じころ、13代将軍家定が病のため死去し、14代将軍には井伊が推していた徳川慶福が就いて、家茂と名を改めました。 
 

ここにおいて井伊直弼は、将軍継嗣問題と水戸派の一掃に成功したのです。

戊午の密勅

この処分に憤りを覚えた水戸藩士たちは、朝廷工作に乗り出します。そして孝明天皇から勅書(天皇の書状)を得ることに成功するのです。内容は、「幕府が独断で条約を調印したのは軽率である。国家の大事は、御三家をはじめ諸大名とも評議して慎重に事に当たるように。」というものでした。

この勅書は関白の九条尚忠が不在の時に、正式な手続きを得ないで出されたために、その年の干支である戊午をとって「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれています。この勅書はまず水戸藩に渡され、その後に幕府に届きました。このことは天皇が、幕府よりも水戸藩に重きを置いている証拠ともいえました。 
 

安政の大獄

水戸藩に戊午の密勅が下されたことをきっかけにして、井伊直弼は幕府に対して反対する勢力の弾圧を命じます。これが世にいう「安政の大獄」です。

まず密勅に関係したものが逮捕され、その後次々と幕府に批判的な水戸藩士、一橋派の幕臣、諸藩士、公家、儒者、僧侶などが捕らえられていきます。1年あまりの間に、100人以上が処罰され、8人が死罪になります。死罪になったもののなかには、長州藩の吉田松陰や、越前藩の橋本佐内などもいました。

水戸藩内の対立

このころ水戸藩では幕府に従うべきだという保守派と、井伊直弼を襲撃し、諸藩とともに京都で兵をあげ朝廷を守るという急進派に分かれていました。そして急進派は薩摩藩に使者を送り、ともに計画を実行しようという盟約を成立させます。

その後水戸の急進派たちは、藩内で保守派の暗殺未遂を起こすなど、活発に行動するようになりました。この事態を重く見た斉昭は、急進派の藩士たちを厳しく処罰することを決定します。

そこで急進派の藩士たちは脱藩して、水戸を抜け出しました。急進派の水戸藩士が集団行動に出ることを恐れた水戸藩は、脱藩した藩士の名前を幕府に伝え、それらを捕らえるように要請しました。

桜田門外の変
 

当初水戸藩の浪士たちは、井伊直弼だけではなく、水戸藩に圧力をかけている安藤信正らも同時に襲撃しようと考えていました。ところがあまりの警備の厳しさに、予定していた50人の半分にも到達せず、井伊襲撃のみおこなうことにします。

襲撃に参加するのは水戸藩の脱藩浪士たちでしたが、襲撃を強く望んだ薩摩藩の有村次左衛門だけは参加を認められました。 

そして1860年3月24日、登城する井伊直弼の大名行列を、17人の脱藩浪士たちが襲撃し、井伊を討ち果たすことに成功します。 

桜田門外の変の影響

幕府の対応

桜田門外で井伊が襲撃され、絶命をしたという知らせを受けた幕府は、対応を協議し井伊が負傷しただけだと発表します。これは幕府の権威の失墜を抑えるためと、水戸藩と彦根藩の不要な争いごとを防ぐためであったと考えられます。

彦根藩

当日大名行列に参加していた護衛たちは、藩主井伊直弼を守れなかった責任として、軽傷を負ったものは切腹、無傷だったものは全員斬首されました。

水戸藩 

事件の知らせを聞いた斉昭は、水戸藩存続のために幕府に従う姿勢をとります。また井伊襲撃後、水戸の脱藩浪士たちが京都で薩摩藩兵3000人と兵をあげる準備が進んでいることを聞くと、それを幕府に報告します。そして安政の大獄の引き金となった勅書を、息子の慶篤に幕府に返納するよう指示しました。

薩摩藩

薩摩藩では藩主茂久の父で実質的に藩政を取り仕切っていた久光や重臣たちが、藩の存続を危うくさせる出兵はしないと決めました。ここに水戸との盟約が敗れ、井伊襲撃だけに終わります。

幕府の崩壊へ

桜田門外の変をきっかけに幕府は公然と非難されるようになり、「異人斬り」という外国人襲撃や、「天誅」と称した安政の大獄に関わった官吏や公家を対象とした人斬りが横行します。

尊王攘夷思想はその後、薩英戦争や、下関戦争で外国との国力差を悟った諸藩により、幕府を倒すことが国難を打開する方法だとする倒幕思想に変貌していきます。 

桜田十八烈士について

桜田門外の変で襲撃した18人を、「桜田十八烈士」といいます。襲撃後、彼らはどうなったでしょうか。

関鉄之介

現場で指揮をとり、斬り合いには参加しませんでした。逃亡生活ののち、2年後捕らわれ斬首されます。

岡部三十郎 

井伊を討ち果たしたことを見届けます。逃亡生活ののち、斬首されます。

稲田重蔵

真っ先に井伊が乗る籠を襲い、その場で斬り殺されました。その後死罪相当とされ、遺体の首を斬られます。

山口辰之介、鯉渕要人

山口、鯉渕ともに傷を負い、八重洲口まで行きますが力尽き、山口は鯉渕の介錯で絶命し、鯉渕は自らの喉を突いて絶命します。その後2人は死罪相当とされ、遺体の首を斬られます。

広岡子之次郎

姫路藩邸前で進めなくなり、自ら喉を刺して自害しました。その後死罪相当とされ、首を斬られます。

斎藤監物

当初斬り合いには参加しないことになっていた斎藤ですが、それを破って乱闘に参加します。

襲撃後、脇坂安宅の屋敷に入り、斬奸趣意書を手渡しました。斬奸趣意書の内容は、「朝廷の意向を無視して条約を結んだ幕府と、幕政に批判的な者を処罰した井伊に抗議し、天誅を加えるが、その行動は幕政を正道に戻すためのものだ」というものでした。そして細川家に護送されましたが、負傷のため絶命しました。

その後死罪相当とされ、遺体の首を斬られます。

佐野竹之介、黒沢忠三郎

斎藤とともに脇坂家に行きますが、負傷のため絶命します。その後死罪相当とされ、首を斬られます。

蓮田一五郎

斎藤とともに脇坂家に行き、その後細川家に護送されます。細川邸に身柄が預けられていた時に、家臣に求められて桜田門外の変の襲撃図を絵に描いています。その後斬首されました。

大関和七郎、森五六郎、杉山弥一郎、森山繁之介

細川越中守の屋敷に自訴します。その後斬首されました。

広木松之介 

襲撃後水戸に戻りましたが、その後は諸国を回り、鎌倉の上行寺で切腹します。

海後磋磯之介

水戸で潜伏していましたが、探索が厳しくなると会津や新潟に潜伏して生き延び、明治維新後は結城警察署、水戸の警察本部に勤務しました。

増子金八

水戸領内に潜伏し、晩年を石塚村(茨城県城里町)で過ごしました。

有村次左衛門

唯一の薩摩藩脱藩浪士で、井伊の首を斬りおとしたのが有村です。彼はこの首を剣先に刺し、遠藤但馬守の辻番所へ向かう途中、井伊の家臣から斬りつけられ動けなくなり、井伊の首を傍らに置いて切腹します。辞世の句は「岩が根も砕かざらめや武士(もののふ)の 国の為にと思ひ切る太刀」です。

襲撃犯の目線から見た桜田門外の変

著者
吉村 昭
出版日
1995-03-29

本書は襲撃現場の指導者、関鉄之介が主人公で、桜田門外の変に至る過程から、襲撃者のその後までを描ききった物語です。

桜田門外の変は17名の水戸の脱藩浪士が参加しています。水戸藩がどのような状態であったのか、襲撃はどのようになされたのか、史料に基づき詳しく記されています。

なかでも圧巻なのは、桜田門外の変の襲撃の描写でしょう。襲撃前の心臓の鼓動まで聞こえてきそうなほど緊迫した状態や、すさまじい乱戦の様子が描かれています。 

本作は小説ですが、かなり史実に忠実に描かれているので、桜田門外の変について知るのに最適の一冊です。 

徳富蘇峰による一大歴史書

著者
徳富 蘇峰
出版日

幕末生まれのジャーナリストであり、歴史家の徳富蘇峰による歴史書です。

徳富蘇峰は1863年、つまり桜田門外の変の3年後に生まれました。彼は1957年に94歳で亡くなるまで、ジャーナリストとして「国民新聞」を主宰し、そして本書も入っている「近世日本国民史」シリーズを100巻まで執筆しています。

彼は桜田門外の変について、「これは殺人罪といわんよりは、直接に井伊その人に向かって戦いを宣したるもの。」とし、水戸藩を追い詰めたものは、井伊直弼その人であるとして「井伊直弼を殺したるものは、井伊直弼なると断言するが、もっとも妥当であろう。」と述べています。

ジャーナリストならではの文案や書簡など史料についての記載が多く、興味深く事件を知ることができるでしょう。 

幕末にスポットを当てた歴史小説シリーズ。桜田門外の変を描く

著者
邦光 史郎
出版日

幕末創世記は、黒船来航から蛤御門の変まで全4巻にわたって書かれたもので、「桜田門外の変」が書かれているのは第3巻になります。

著者の邦光史郎は、推理小説から歴史小説まで幅広いジャンルの本を著しています。現在当たり前のように使われている「熟年」という言葉の発案者のひとりともいわれているのです。

桜田門外の変が起こってから、尊王攘夷運動が非常に活発になりました。大老井伊直弼に続き、老中の安藤重正も襲撃されます。長州、薩摩藩も藩内は急進派、保守派で混迷をきわめました。 

どのように桜田門外の変がその後の運動に影響を与えていったのか、そしてどのようなことが行われていったのか、物語から学ぶことができるでしょう。 

桜田門外の変では、水戸藩の浪士たちが多く襲撃しましたが、御三家である彼らが求めたのは倒幕ではなく、幕政改革でした。

その後、水戸派の一橋慶喜が15代将軍になりました。そのころには攘夷運動が倒幕運動に変化し、激動の時代を迎えます。桜田門外の変はその後の歴史の起爆剤であったといえるでしょう。

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