鼻の手術をしてきたのです。手術といっても大層なものではなく、アレルギー症状を抑えるために鼻の粘膜を焼いてしまうというアレです。部分麻酔のち、先端からラジオ波が出る金属棒を鼻腔に押し当てて焼くのですが、これがとにかく痛かった。これ鼻溶けてますよね?と言いたくなるくらいの痛みに朦朧としながら思ったことは「ハンダ付けされる電子回路にだけは生まれ変わるまい」でした。
術後も鼻血と瘡蓋で1カ月ほど地獄を見ましたが、それも収束し、鼻詰まりも花粉症も随分マシになりました。慢性鼻炎がコンプレックスであった僕には感動モノでした。普通の人にとっては何気無いことでもそれが生まれつき困難な人にとっては感動を伴うものです。ならばコンプレックスを持つ人は感動のツボが一つ多いということであり、そう考えれば悪くないのかも、と思った次第であります。
という経緯を踏まえつつ「コンプレックス」をテーマに3冊ご紹介。
身長のコンプレックスを乗り越える
- 著者
- 古舘 春一
- 出版日
- 2012-06-04
「……確かにおれはデカくないけど
……でも! おれはとべる!!」
高校バレーボールを扱った青春群像劇。「小さな巨人」に憧れ、身長162㎝と小柄ながら圧倒的なバネを武器に飛ぶアタッカー・日向翔陽。天才的な技術を持ちながら独裁的性格故に「コート上の王様」と皮肉を込めて呼ばれる天才セッター・影山飛雄。「落ちた強豪」と揶揄されていた元・強豪校の烏野高校が、両名の入学を機に再び頂点を目指し始める。
バレーボールにおいて「身長」は持っていて当たり前の武器だと思われがちです。では持ってない人間はプレイヤーにはなれないのか? その問いに答えるのがこの作品の主人公・翔陽です。「身長」という「普通」を持たぬ彼だからこそ「飛ぶ」という行為の尊さを誰よりも理解していおり、如何なる逆境でも全身全霊で宙を舞う。それが彼をより高みへと引き上げる。
何事も最初は楽しいという感情から始めたはずであり、勝ち負けへの執着より「楽しい」という初期衝動こそが強さに繋がる……スポーツの根本的な在り方を問う作品にもなっていると思います。
あと漫画としても斬新な表現がてんこ盛りです。「キュ」という足音の効果音がキャラクターの移動方向を示す矢印だったり、眼球の虹彩がボールになっていたり、先を行く宿敵の背を遂に掴むその心象風景からダイレクトにアタックのシーンに繋がっていたり……うーん、やはり文字じゃ伝わらない。実際に読んで確かめてみてくださいね。
誰しもが、金閣を焼かんとする黒い炎を心の中に宿している
- 著者
- 三島 由紀夫
- 出版日
「幼時から父は、私によく、金閣のことを語つた」
金閣の美に取り憑かれた学僧が、寺に放火するまでの経緯を一人称告白体の形で綴っていく物語。昭和25年7月2日に実際に起きた「金閣寺放火事件」が基になっている。この主人公の学僧は重度の吃音症であり、コンプレックスから自分を醜いもの、金閣は美しいもの、という固定観念に囚われている。
僕がこの作品で最も印象的だったのは「爽やかさ」です。
陰惨なテーマを扱いながらも、「そうだ 金閣、焼こう。」とでも言いたげな軽やかさがあるのです。ストーリーに関わらず読者はある種の爽快さを持ってページをめくるこの感覚は、梶井基次郎『檸檬』や太宰治『人間失格』のそれにも近いものがあります。
これらの作品に共通するのは恐らく主人公の心の動きへの「共感」だと僕は考えます。暗い方へと転がり落ちていく主人公たち。その経緯や心理描写が余りに精緻なため、まるで自分のことのように痛みを共有することができ、理解者、あるいは共犯者に出会ったような優しさに包まれる。これが「金閣寺」の内包する爽快感の正体なのではないでしょうか。
特にラストシーンが素晴らしく、「金閣を焼き、自分も死ぬ」と決意した人間の最後としてはとてもリアリティのあるものになっています。世代を超えた共感を持って、誰しも金閣を焼かんとする黒い炎を心の中に宿しているということを三島由紀夫は証明したのだと思います。