伊藤野枝にまつわる逸話6つ!結婚制度の問題点を論じた破天荒な大杉栄の妻

更新:2021.11.10

婦人解放運動家として、また、無政府主義者・大杉栄の内縁の妻として、波乱に満ちた短い生涯を駆け抜けた伊藤野枝。大杉との情事と壮絶な死ばかりが注目されてしまう彼女の、「若き活動家」としての素顔は一体どのようなものだったのでしょうか。

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伊藤野枝とは

伊藤野枝は1895年、福岡県にある今宿村に生まれました。実家は江戸時代初期から海産物などの問屋を営んでいましたが、明治維新以降のインフラの激変により村自体が廃れ、彼女が生まれた頃には家も没落していました。貧しい少女時代を過ごしたようです。

そのため中学を卒業するまで野枝は、多くの期間を親戚の元で暮らすことになります。自身の境遇への反発か、学業に打ち込んだ彼女は女学校への進学を夢見ていましたが、実家を支えるために中学卒業後は地元の郵便局に就職し、その間詩や短歌を雑誌に投稿していました。

当時、帰省してきた叔母一家とふれあうことで東京の空気を感じ、憧れを抱いた野枝は、叔父の代準介を頼って上野の高等女学校に進学します。

女学校を卒業した1912年、親に決められた結婚のために帰郷しますが、すぐに東京に舞い戻ります。そして女学校時代に想いを寄せていた英語教師の辻潤との同棲生活を開始し、同年、平塚らいてう率いる女性誌「青鞜」の編集に参加し、女性解放運動家の道を歩みはじめました。

1916年以降、野枝は社会運動家の大杉栄と連絡を取りはじめます。この後不倫関係にまでなった大杉との情事が世間に批判されて孤立するとともに、ナショナリズムに傾く国からの弾圧によって、思想の「冬の時代」を迎えました。それでも独自の女性のあり方を訴え、実践し続けました。

彼女の思想は「青鞜」の他のメンバーのものとは一線を画し、若さゆえの矛盾と身勝手さはあるものの、飾らない人間の本質であったのかもしれません。

伊藤野枝の「人柄」にまつわる逸話3選

1:少女時代が野枝の反骨精神を強めた

野枝の父は、腕はよいけれどあまり働き者ではなく、家計は母の支えで成り立っていました。長女であった野枝は厳しい経済状況をまともに被り、中学を卒業するまでの間、親戚の家をたらい回しにされます。

実の親に甘えることも許されず、悩みを打ち明ける親友を持つこともできない環境のなかで、彼女は無邪気さを失い反骨の魂を育んでいきました。

また、さまざまな人の手に移され帰属することを許されない環境で育った背景が、後に彼女が大杉栄とともに「無政府主義」や「女性解放運動」に突き進むゆえんとなったのかもしれません。

2:家事は苦手で、活字は大好きだった

野枝の少女時代は成績優秀で、鬱屈した精神こそ内に秘めていたものの、学校の欠席も少なく熱心に勉強に取り組んでいました。幼いながらに新聞、雑誌、多くの本に触れ、文才には長けていた一方で、掃除や裁縫といった「良妻賢母」を育てる科目は苦手だったそうです。

3:「青鞜」を受け継いだ

野枝の野性味あふれる魅力は、女性解放運動に走るインテリジェンスの女性たちをも惹きつけました。そのひとりに、女性による日本初の女性誌「青鞜」を立ちあげた平塚らいてうがいます。

野枝は「青鞜」に参加するため、 平塚宛てに手紙を送りました。自身の境遇から性質まで、びっしりと力強く書かれたその手紙に平塚は魅了され、野枝を受け入れます。

そして平塚が「青鞜」を離れる際には、その出版権が野枝に譲られました。しかし、この時すでに与謝野晶子などの主力メンバーが去り崩壊しつつあった「青鞜」は、彼女の努力も虚しくわずか1年後に廃刊してしまいました。

伊藤野枝の「恋」にまつわる逸話3選

1:翻訳活動が大杉栄と出会わせた
 

野枝と大杉栄の交流のきっかけは、彼女が翻訳したアメリカの無政府主義者エマ・ゴールドマンの『婦人解放の悲劇』を、大杉が評価したことにあるといわれています。

2:とことん大杉栄に溺れた

野枝が大杉栄と出会ったのは、「女性解放」や「自由」を訴えながらも普通の女性と変わらない日常を送っていた自分や、自身の従姉妹と不倫関係に陥った辻への不満を感じていた頃でした。この時、野枝には辻との間に2人の子供がいましたが、すべてを放り出して大杉との生活に溺れていきます。

過去に自分が親戚に養子に出されたことに関しては、後に実母に「私は自分の子供を手放したりなどしない」という言葉をぶつけいましたが、大杉との恋愛に溺れ、彼とともに命を落とした野枝も、結果としては母と同じことをしてしまったといえます。

3:飾らない姿が男性たちを魅了した

彼女の恋多き人生から考えると、男性を魅了する美貌の人かのように考えてしまうかもしれませんが、実際の彼女は色も浅黒く服装も薄汚い、どこから見ても恋愛に不向きな風貌だったそうです。

では彼女の魅力とは一体何だったのでしょうか。それは、努力のすえに勝ち得た知性と、大杉や辻などの文人としての高等教育を受けた人物をも圧倒させる文才、そして、当時の女性には考えられない、むき出しの野心と行動力でした。

やりたいことをやった伊藤野枝の一生

本書には、伊藤野枝や大杉栄が実践した無政府主義が一体どういったものであったかを、わかりやすくまとめてあります。

2人の生きざまは彼女が残した言葉のとおり、「吹けよ あれよ 風よ 嵐よ」といった破天荒なものでしたが、ここではその人生を過激な見出しとともに紹介しています。

著者
栗原 康
出版日
2016-03-24

女性の貞操や堕胎についての論争、廃娼論争など、当時の女性活動家のなかでもタブーの話題に挑んでいった野枝は、その知性を隠れみのにして、実は大杉とともに「やりたいことをやっただけ」なのかもしれません。

社会倫理をはるかに逸脱した彼らの生活には、理解しがたいものがあるかもしれませんが、「やりたいこと」をやった野枝たちを悪と決めつける、一種の常識に隠れた危険性について考えてしまうことでしょう。

自由を唱えた2人の「新しい女性」たち

伊藤野枝と、「大逆事件」で唯一処刑された女性の菅野須賀子に焦点を当てた作品です。

菅野は日本で初めて無政府主義者を名乗った女性で、この2人はしばしば「淫売」や「妖婦」といった表現でカテゴライズされてしまいがちですが、本当の姿はどのようなものだったのでしょうか。

著者
田中 伸尚
出版日
2016-10-22

ここでは、彼女たちが思想家を志すまでの過程や、権力に真っ向からぶつかっていった情熱的な人生が描かれており、彼女たちの男性さながらの活動の様子を知ることができるでしょう。

生い立ちは違えど、習俗からの解放を訴え、ともに自由を夢見た破天荒な2人の人生は必見です。

思想家「伊藤野枝」ができるまで

貧しい田舎娘の伊藤野枝が、どうして思想家として生きるに至ったか、そのきっかけを知ることができる一冊です。

後に活動家として社会に立ち向かう彼女を育てた叔父の代準介。実は彼も、右翼団体「玄洋社」に参加する活動家だったのです。

著者
矢野 寛治
出版日
2012-10-19

野枝の才能と知性を見抜き、彼女の人生において幾度も手を差し伸べた代準介とは、どんな叔父だったのでしょうか。

本書では、たくさんの思想家たちの姿をとおし、右派や左派との激突が全国的に起こっていた時代の様子を垣間見ることができます。
 

伊藤野枝の子供たちのその後

野枝と大杉の2人が殺害された当時、まだ幼かった四女のルイズ(野枝たちの死後、ルイに改名)が後に綴った手記です。

故郷の母のように、どんなに貧しくても子供を手放すようなことはしないと成人してから語った野枝ですが、皮肉にも自身の死により、子供たちはバラバラの生活を送ることになってしまいました。

著者
伊藤 ルイ
出版日

ルイズを含む子供たちは、自身も知らないような出自や両親のことで、周囲から差別的な扱いを受けてきました。

ここでは、それらを乗り越え、自分のルーツをたどることを決めた子供たちの思いや、故郷今宿の自然のなかで祖母ムメの愛情をたっぷり受けて育った幼少期についても描かれています。

事件当初、世間の好奇の目にさらされた子供たちが、たくましく育っていった過程を知ることができるでしょう。

平和な人生を歩むことよりも、生命の情熱が消えてなくなることを嫌った伊藤野枝。大杉栄とともに過ごした波乱に満ちた人生は、28歳の若さで憲兵隊の甘粕正彦に暗殺されるという、悲劇的な終わりを迎えます。しかし、それは寂れた田舎の女として生涯を終えることよりも、彼女にとってはるかに「生」を感じられる生き方であったことでしょう。

波乱と矛盾と、そして多くの情熱をはらんだ彼女の人生に、ぜひ触れてみてください。

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