日本と中国の国際交流は紀元前からすでに始まっていましたが、日本古代では遣唐使が非常に有名です。では古代日本の人々は何のために彼らを派遣したのでしょうか?今回は日本と中国の交流の歴史について見ていきましょう。
遣唐使とは?
古代日本の朝廷と唐王朝(中国)の間でおこなわれた国と国との正式な貿易の際に、日本から唐へ派遣された使節のことです。唐へ派遣する使節だから「遣唐使」といいます。
日本と中国の歴史関係
中国は唐王朝より700年ほど前の漢王朝の時代から、自分を格上の宗主国、周辺の国を格下の朝貢国(従属国)とみなして貿易をする「冊封体制」をとっていました。
『魏志倭人伝』に記されている、卑弥呼が中国の魏に使節を送った出来事も有名です。日本は中国から倭(わ)と呼ばれていましたが、これは矮小(背が低くて小さい)という、あまり意味ではありませんでした。
つまり、当時の中国からすれば日本など小さな島国で、対等な関係ではなく、あくまで「冊封国」として認識されていたにすぎなかったのです。
三国時代が終わると、中国大陸は主に南北2つの王朝に分かれることになります。倭は南朝といわれる南側の国と交易をするようになり、その後中国が隋に統一されると、日本は「遣隋使」を送ることになるのです。
隋が唐に変わった後も交易を続けたかった倭は、使節を派遣を継続しました。
主な目的
当時の日本が自分たちの力を示すには、周辺国のなかで力を持っていた中国・唐に認めてもらう必要がありました。そのために使節を派遣し、自国の技術・文化を唐の皇帝に献上していたのです。
その他にも、世界の動きの調査、交易、唐の政治や文化・仏教の教えなどの吸収が大きな目的であったといわれています。
遣唐使がもたらしたものとは
遣隋使の頃から中国の法律を参考にしていた日本ですが、朝廷は唐の法律である「唐律」や税制の「租庸調制」を学んで独自の法律を発展させていきました。これが「班田収授法」や「大宝律令」などの制度になっていくのです。
経済面では唐朝の「開元通宝」という円形方孔の銅銭を模倣して「皇朝十二銭」と呼ばれる通貨が生み出され、文化面では学者や仏僧が交換留学という形で、仏教の伝播と普及に努めました。
中国に朝貢するということは、冊封国としての立場を認めることになりますが、遣唐使の時代の日本に関しては、その他の朝貢国である朝鮮や渤海(ぼっかい)、吐蕃(とばん)と比べて上位国として扱われたようです。こうした立場を特に朝鮮に示しておくことも、遣唐使の目的のひとつでした。
最初に遣唐使が派遣されたのが630年、それから20回近く朝貢貿易を続けてきた日本ですが、894年に廃止されます。とはいっても実際に派遣されたのは838年が最後で、以後は派遣を停止していました。
その理由として、平均して20年という間隔を空けての航海は航海技術に後れを生じさせ、回を追うごとに遣唐使の事故が発生するようになっていたことが挙げられます。実際、775年の帰国の際には、中国側の使節が水死しています。
それに755年に唐で発生した「安史の乱」を契機に、唐王朝の体制が劇的に変化・衰退していきました。これと前後して大陸の情勢も次第に不安定になっていきます。さらには民間貿易が中国で認められ始めたことで、公的貿易の政治的意義が薄れていったのです。
また日本から来た僧の中には中国語が喋れない人もおり、20年以上という長い留学に耐えられずに送り返された人もいました。
こうした条件が重なり、日本はもはや唐との関係がかつてほど重要ではないと判断したため、遣唐使は徐々に自然消滅。そして菅原道真によって廃止されました。なお、唐王朝は遣唐使廃止から13年後の907年に滅亡します。
阿倍仲麻呂/あべのなかまろ(698年~770年)
若い頃から詩や文学の才能に優れ、717年に吉備真備・井真成らとともに遣唐使として派遣されます。唐では現地の学生と一緒に科挙(唐の完了試験)を受験して合格し、皇帝・玄宗に仕えました。李白ら当時一流の詩人とも師の交流を重ねています。
官職としてはベトナムに総督として派遣される大出世をしていましたが、壮年を過ぎてからは帰国を希望していました。しかし安史の乱でそれは果たせず、73歳で唐で亡くなります。
2017年現在も、江蘇省鎮江の甘露寺と陝西省(せんせいしょう)西安の興慶宮公園には、彼の詩が彫られています。
菅原道真/すがわらのみちざね(845~903)
奈良市菅原町で生まれたとされています。幼少期から詩の才能に優れ、宇多天皇の信認を受けて当時有力者のいなかった藤原氏を抑えて要職に就きます。894年に遣唐使に任命されますが、すでに唐に価値はないとして遣唐使の廃止を決定しました。
天皇主権の中央政治を目指して行動を起こしていましたが、貴族政治を主張する藤原時平に反対され、ついに901年に太宰府に左遷されて2年後同地で没します。
学問の神様として知られていますが、実際は武芸にも優れており、弓を射れば百発百中だといわれていました。
最澄/さいちょう(766~822)
天台宗の開祖。12歳で出家し17歳で正式の度牒をもらいます。804年に遣唐使として唐に渡りますが、言語の問題で2年で帰国します。帰国後に密教を学び、比叡山延暦寺を開基、密教や法華経、禅などの教義を統合して天台宗を開きました。
自分が学んだ密教が正統なものではなかったと知り、遣唐使仲間だった空海に師事したこともあります。その縁から経典の貸し借りをする仲となりましたが、最澄があまりにもしつこかったことや弟子の取り合いもあり、最後は絶縁しています。
空海/くうかい(774~835)
真言宗の開祖で、本名は佐伯真魚。論語や春秋といった中国古典を学び、19歳で大学を卒業した後も修行に満足せず、山林にて修行を継続します。
遣唐使として派遣される直前に出家し、804年に最澄らとともに唐へ派遣されます。なお、空海は当時無名でしたが、長安にて密教の権威である恵果(えか/けいか)に師事して修行を積んだことで一気に有名になりました。彼は密教の他に、航海技術や経典類を持ち帰っています。
遣唐使と聞くと、歴史に詳しい方なら「阿倍仲麻呂」「最澄」「空海」という名前が出てくるはずですが、ではいつ、どこで、何をした人なのかというと、その年ごとに異なるので具体的に説明するのは難しいと思います。
本書はそんな遣唐使を、史料に沿って客観的に突き詰めていった実直な一冊です。
- 著者
- 東野治之
- 出版日
- 2007-11-20
本書は2004年に陝西省の西安にて発見された遣唐使・井真成の墓碑の話からスタートします。
著者の東野治之は万葉集の研究などで知られていますが、遣唐使に対しても非常に研究が深く、信頼できる記録に基づいて論述しています。
中国からも比較的上位に見られていたとされる日本の外交のいきさつは、弱腰と揶揄されることが多い現代の人間にとっては学ぶものが非常に多いでしょう。
平群広成(へぐりのひろなり)という聞き慣れない名前の彼は、遣唐使のなかでもっとも過酷な航路を進んだといえる人物です。彼は本来なら無事に帰国して終わりのはずでしたが、帰路で遭難しチャンパ(ベトナム周辺に存在した国)まで流され、そこから6年もの歳月をかけてようやく日本に帰ってきました。
その旅程を史実を参考にしながらよりダイナミックに描いた本作は、さまざまな層の人から受け入れられる探究心に富んだ一冊です。
- 著者
- 上野誠
- 出版日
- 2012-09-12
本書の著者は作家ではなく本業の学者です。そのため史料に精通しており、遣唐使そのものだけでなく当時の社会の様子や、国家間の緊張したやり取りを立体的に描いています。
やや学術書的な硬い印象を受けるかもしれませんが、本書から得ることのできる知識は相当なものです。広成の旅程に沿って行くと、遣唐使が名誉と同時にいかに大きな責任と覚悟を持って渡航していたかがよくわかります。
あくまでも小説ですが、外交史に興味を持つ人には有用な作品となるでしょう。
遣唐使が実際に派遣された回数というのは、成功・失敗それぞれの回数を踏まえて考えると議論が分かれますが、本書はその回数を15回と仮定し、使節たちについて専門的に論述します。
日本側の使節にも深くメスを入れ、彼らがどのとうな意図をもって対応したかが記されており、日本史を専門的に研究してきた人にとっては非常に有意義な一冊です。
- 著者
- 上田雄
- 出版日
- 2006-11-25
本書はこれまでに存在した遣唐使の研究を総合的に俯瞰し、そのうえで定説に疑問を投げかけ、遣唐使という視点から当時の日中外交の正体について論述します。「万葉集」や「続日本紀」の記述がそのまま現れるかなり高度な内容は、熟練者をも唸らせるでしょう。
本書では特に、使節たちが実際に乗った船と、その航海について深く述べています。同じカテゴリーの文献資料に閉じ困らず、建築学、天文学的にも考察する方法は、本書のテーマの幅を広げ、さらなる読みごたえを感じさせてくれるでしょう。
日本史だけでなく中国史を研究する人にとっても読む価値が十分にある作品です。
天台宗の最澄と、真言宗の空海。まさに純粋な日本人によって確立された仏教の開祖ともいうべき2人ですが、後に意見が対立して絶交してしまいます。
2人の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。また道を分かつ時はどのような心境だったのでしょう。本書は彼らの生涯と仏教哲学について平易な文章で記していきます。
- 著者
- 立川武蔵
- 出版日
- 2016-05-25
仏教哲学というと非常に難解だというイメージが先行しますが、本書はそのなかでは比較的一般向けに構成された内容となっています。
天台宗・真言宗の哲学はそれぞれ重要としたことが異なりますが、修行方法には類似する部分があり、また大基の思想にも共通する部分があります。それなのに、なぜ両者は違う道を歩んでいったのでしょうか。彼らの出会いと別れについて深く掘り下げているところが、本書ならではの特徴です。
常に比較される最澄と空海ですが、本書は単なる比較に留まらず、日本仏教の創生と発展に触れているという点で、非常に重要な本となっています。仏教哲学を研究する人にとってはぜひ手元に置きたい一冊です。
朝貢・留学のために唐へ渡った遣唐使たちですが、彼らにも唐での普段の生活があり、そのなかで唐の女性と子供まをつくるものもいました。
本書はそうした私生活から、王朝・朝廷にもたらした影響までを、「混血児」という視点から論述しています。今まであまりなかった視点から研究した、非常に興味深い本です。
- 著者
- 王勇
- 出版日
- 1998-03-01
本書を執筆するうえで最大の難点は、何といっても史料が少ないことでしょう。著者はその数少ない記述から遣唐使たちの生活を紐解き、その混血児たちが唐と日本でどのように生活していったのかを追求しています。
史料の少なさから推測である部分はどうしてもありますが、著者が開拓した混血児という視点は今後の研究でも必ず活かされていくことでしょう。研究とは人々の失敗と試行錯誤によって積み重ねられていくもので、本書はその先駆けとなる可能性を秘めた期待の星です。
日本が出会ってきた未知の文化は吸収・発展され、そしてついには日本独自の文化を形成していきました。遣唐使は日中交流の懸け橋としてこれからも研究の余地がある、非常に大きな問題です。
海の先に何があるのか?このワクワクする気持ちは四方海に囲まれた日本に生まれたからこそ感じられる感覚ですね。そんな日本独特の外交手段に心躍らせることのできる書籍の数々は、21世紀の国際社会を生きる人々にとっても必読といえるでしょう。