教養

豊臣秀長にまつわる5つの逸話!政権の安定に貢献した人物の生涯を知る

更新:2017.10.14 作成:2017.10.14

豊臣秀吉の弟であり、豊臣政権の安定のために多くの活躍をしてきたことで知られる豊臣秀長。彼の人生とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?今回はその数奇な人生に迫った本を紹介していきます。

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豊臣秀長の生涯【秀吉に仕える前】

豊臣秀長は1540年、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で、秀吉の弟として生まれました。父親は豊臣秀吉と同じ弥右衛門であるとも、その後に婿入りしてきた竹阿弥とも言われており、はっきりとしたことは分かっていません。

幼名は小竹(こちく)。性格は穏やかで、両親や妹、村人たちに愛されて育ったそうです。秀吉との兄弟仲が気になるところですが、彼が5、6歳のころに、竹阿弥と折り合いの悪かった秀吉が家を出て行ってしまったため、大人になるまで関わりはありませんでした。

しかし、転機は突然訪れます。なんと10年以上も昔に家出した兄が、織田家に仕える下士となって村に帰ってきたのです。秀吉は母親に自分の出世話や、両家の娘との縁談話があることを話してうまく言いくるめ、秀長を自分のもとにしばらく預けることを許可させます。

秀吉とともに城下へ向かう道中、小竹は秀吉から家来になってほしいと頼まれました。戸惑い、1度は断りましたが、兄の熱弁に引き込まれて家来になることを決めます。秀吉の家来になった彼は、小竹という名前から木下小一郎長秀と改名しました。

豊臣秀長の生涯【秀吉に仕えてから】

一見幸運なようにも見えますが、実際の彼に待ち受けていた仕事はとても大変なものでした。なぜなら組頭である秀吉は、毎日朝から晩まで信長のもとに仕えていたため、組頭の仕事が事実上秀長の仕事になったのです。

さらに、彼の仕事はそれだけではありませんでした。信長が美濃の国の斎藤龍興との合戦をおこなった際には、信長とともに戦地へ行った秀吉の代わりに、城の留守居役を務めます。1573年に、秀吉が浅井氏を滅ぼした功績が認められて長浜城主に任命されると、そちらの城代を任せられることもありました。

1574年には、秀吉が越前一向一揆のことで手一杯になってしまったため、彼の代わりに長島一向一揆を討伐するために出陣。そして翌1575年に、秀吉から羽柴の苗字を与えられます。

信長の命令で秀吉が中国攻めの総司令官になった際には、山陰道や但馬の国平定の指揮を任され、黒田孝髙宛の秀吉直筆の手紙にその名が記されるほど、秀吉陣営にとっての最重要人物へと成長しました。

1577年に秀吉に従って播磨の国に赴いた後、彼は但馬攻めの戦いに参戦し、竹田城の戦いで城が落城した時には、城代に任命されたのです。

豊臣秀長の生涯【本能寺の変以降】

兄とともに数々の戦に参加し、兄を支えながら勝利を収めてきた彼に、1582年6月21日に、2回目の転機が訪れます。 それが、あの本能寺の変です。信長の死亡の知らせを聞いた秀吉が、当時戦闘状態であった毛利家とすぐさま手を組むと、軍を引き連れ畿内へ撤退を開始。それに伴い秀長も、山崎の戦いに参戦します。彼は黒田孝髙とともに天王山の守備にあたりました。

1583年、秀吉の天下統一をかけた賤ヶ岳の戦いにも参戦し、兄の夢の実現に大きな貢献を果たします。さらに、美濃守に任官すると播磨の国と但馬の国を拝領し、姫路城を居城としました。翌年の1584年には、小牧・長久手の戦いに参戦。織田信雄と講和交渉をおこないます。その翌年の紀州征伐では、秀吉の副将に任命されるのでした。

紀州討伐と同じ年の6月には、病気で参戦することができない秀吉に代わって、四国遠征に参加し、総大将に任命されます。そこで、数々の功績を収めた彼は、豊臣の本姓を与えられ、大納言の官位も与えられました。

その後も一揆の討伐や戦に出陣し活躍をしましたが、1591年に大和郡山城内で病死。享年52歳でした。

豊臣秀長にまつわる5つの逸話!

1:秀吉の家来になるまで武士になる気はなかった

秀長は、秀吉に家来になる話を持ちかけられるその日まで、母親や近所の人と一緒に農業に勤しむ日々を送っていました。彼はその生活に満足していたようですし、村年寄りになることが唯一の夢であったようです。

2:自分よりも強い足軽が暴れた時、気迫で黙らせた

彼が兄の代わりに組頭を務めるようになってから、何日か後の話です。組内で、足軽同士の喧嘩が起こりました。その仲裁に秀長が入ると、不満に思った喧嘩の勝者が大きな声で喚きます。しかし秀長は、自分の腰の刀を抜いて、斬れるものならこの刀で自分を斬ってみろと相手に詰め寄ったそうです。

農家から出てきたばかりで戦など経験もしたことのなかった秀長にとって、大声で喚く体格のいい足軽はさぞかし怖かったことでしょう。 それでも強い姿勢で相手に詰め寄ったところに、彼の勇敢さが伺えます。

3:豊臣秀次とも仲が良かった

豊臣秀次といえば「殺生関白」などと呼ばれるほど謀反を企てたり、残虐なおこないをしたりしたことで有名です。しかしそんな秀次も、秀長とは仲が良かったのだとか。

秀次が戦で失態を演じて秀吉の信頼を失ってしまった時には、彼が汚名返上できるように秀長が手助けし、秀長が病にかかった時には、病気回復祈願のために秀次が神社にお参りするほどだったそうです。

4:内政面でも凄腕だった

1585年頃、秀長の領国であった紀州・大和・河内地方はもともと寺社勢力が強い場所であったため、なかなか統治することが難しい場所でした。

しかし、大和に入国した彼は、当時問題となっていた盗賊の問題を解決するために、盗賊の追補を通達。 それから太閤検地を実施したり、条例を制定をしたりして、大きな問題を起こすことなく上手に領国を治めていたようです。

5:とにかく頭がよく、秀吉に頼られた

戦では作戦を練らなくてはならない現場にいて、秀吉にアドバイスをしたり、指揮をとったりしていた秀長。そのアドバイスは常に的確だったと定評が残るほど、彼は頭がよかったようです。また、そんな彼の死が豊臣政権没落の理由だったともいわれています。

豊臣秀長の生涯に迫った一冊

豊臣秀長の生涯を追いながら、当時の歴史や人間関係、羽柴軍の内情などについても記した作品です。

ナンバー2として秀吉を支えた秀長の秀才さの他に、戦国時代を生きていた武将たちが、それぞれどんな人物であったのかも知ることができます。

著者
堺屋 太一
出版日

著者の堺屋太一は作家、評論家活動をおこななっており、ビジネスや社会事情にも精通しています。そんな堺屋による本書は、秀長の歩んだ道を辿る歴史小説であると同時に、組織の中での彼の行動と気持ちの持ち方に注目することで、現代の人々が働くうえで大切にするべき姿を学ぶことができるのです。

自分を抑えて秀吉に仕えた秀長の生き方は、会社という組織でどのように振る舞えばよいのか迷ってしまった方の参考になることでしょう。

豊臣秀長の人物像がはっきりとわかる、数少ない伝記

秀吉の補佐役で温厚な調節係ということが、今となっては定評の秀長。

そんな彼の生涯を幼いころから振り返り、その当時どんなことを思い、何を感じていたのかということまで詳しく盛り込んである作品です。 

著者
福永 英樹
出版日
2013-02-20

豊臣秀長という人物は、兄の秀吉に比べると有名ではありません。それは記録や伝記があまり残されていないからです。本書はそんな数少ない伝記のなかでも特に詳しい内容が記されており、人としての秀長の心情にも深く迫っています。

また秀長に仕えて、彼と同じくあまり記録が残されていない藤堂高虎についても詳しく書かれていますので、ぜひチェックしてみてください。

秀吉と秀長、2人の兄弟愛を窺い知ることのできる一冊

本書は秀長の伝記でありながら、兄・秀吉の人柄も知ることができる作品になっています。

秀吉の弟を想う気持ちや、心からの信頼、そして秀長が兄に抱いていた思いにも触れてみてください。


著者
志木沢 郁
出版日
2008-04-08

幼少期には繋がりの薄かった秀吉と秀長。しかし主従関係を結び、支え合っていく中で、お互いがお互いにとってかけがえなのない存在になっていきます。秀長は、どんな気持ちで天下人となる兄の背中を押していたのでしょうか?

最近、家族や兄弟に会えていないという方がこの本を読んだら、恋しい気持ちになってしまうかもしれません。

豊臣秀長に忠誠を尽くした「風見鶏」の真の姿とは

多くの歴史書で「風見鶏」や「世渡り上手」というような悪いあだ名をつけられてしまう藤堂高虎。

本作は上下巻に渡って、その高虎に焦点を当てた物語です。

著者
火坂 雅志
出版日
2007-09-01

どんなに悪い主君にも忠誠を尽くすことが美徳とされたこの時代に、ころころと主君を変えた高虎。 しかし豊臣秀長のもとでは、長年にわたって忠誠を尽くします。彼の目に、秀長はどんな風に映っていたのでしょうか?

今まで誰も知ることのなかった、藤堂高虎という人物の一面を知ることができます。 

いかがでしたか?自ら好んで武士になったわけではなかった豊臣秀長。その生涯は、兄を支え、豊臣家の繁栄のために命をかけたものでした。あまり有名ではない彼ですが、大河ドラマなどで登場することも増えたようです。彼のことを知ることで、歴史への理解がさらに深まることでしょう。