明治維新は260年あまり続いた江戸幕府を倒し、新しい時代を切り拓いた革命であり、日本は政治や経済、社会的にも大きく変わり、近代化と西洋化への道を進んでいきました。今回は、日本を明治維新に導いた本当の立役者は誰だったのかを探っていきます。
1853年に黒い一団が突然に久里浜に現れました。いわゆる、ペリー率いる黒船来航の事件です。
これにより、外国を日本から追い出せという攘夷の思想が盛んになってきました。朝廷も攘夷の意思を示していたこともあり、幕府ではなく天皇に重きを置いた尊王の考えが強くなり、その結果、「尊王攘夷運動」が活発化していきます。
その後、朝廷も鎖国か開国かで意思がコロコロと変わったため、幕府や各藩も含め政治は激しく揺れ動きます。しかし、坂本龍馬の活躍もあり、因縁のあった薩摩藩と長州藩が手を組み薩長連合が誕生すると流れは一気に倒幕へと向かっていくのです。
この後、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、徳川慶喜が朝敵になる、江戸城明け渡しなどさまざまな出来事があり、幕府は滅び明治時代の幕開けとなります。
1868年1月3日、王政復古の大号令が出されますが、内容は第一に徳川慶喜の将軍職辞職について天皇が認めるということから始まり、幕府、京都守護職、京都所司代、摂政、関白を廃止して、新たに三職(総裁、議定、参与)を置くというものでした。すなわち、将軍家の政治介入はもちろん、朝廷の政治権力の復活もなく、公家も解体して、天皇と新政府で政治をやっていくという宣言をしたのです。
明治政府にとっては藩の管理下にあった各地の領地や領民についての管理をどうするか、また、300以上ある藩の存在をどう扱うかが難題でした。領地、領民については土地の版図と民の戸籍を各藩に提出させる「版籍奉還」をおこない、藩については天皇からの命令である詔書という奥の手を使い、藩をなくして県に置き換える「廃藩置県」という大改革を実行して、天皇を中心とした明治政府の世を築きあげたのでした。
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5分でわかる明治維新!いつ何が起きたのか、流れをわかりやすく解説!
江戸幕府への倒幕運動から、明治時代初期までにおこなわれた一連の改革を「明治維新」といいます。中央集権国家として生まれ変わった日本政府はさまざまな西洋文化を取り入れましたが、いつ何が起きて、どのような流れで改革はおこなわれたのでしょうか。この記事ではわかりやすく解説するとともに、おすすめの関連本もご紹介していきます。
「西郷どん(せごどん)」の愛称で親しまれる薩摩藩士、西郷隆盛。身長181cm、体重108kgといわれますので、なかなかの大男だったようです。
藩主の島津久光との不仲もあり、西郷の明治維新の活躍は1864年(36歳頃)からになります。この頃の薩摩は佐幕派、攘夷派のどちらからも嫌われており、西郷は朝廷に寄り添うことで薩摩の悪評を緩和しようとします。
そして、蛤御門の変で朝敵になった長州藩を幕府の申し出により攻撃。これが、第一次長州征伐であり、長州藩との大きな因縁をつくってしまったのです。
西郷は勝海舟との会話で長州藩の武力制圧には疑問を持っていたため、坂本龍馬の仲介のもと長州藩と和解して薩長同盟を結びます。一度、下関での会談の予定をドタキャンしたこともありましたが、それだけ決断には迷いもあったといわれているのです。
大政奉還を経て、2ヶ月後には王政復古の大号令を出しますが、この時も発令の準備に西郷は大きく関わっています。江戸城明け渡しでは、江戸総攻撃も想定されましたが、西郷、勝の会談による無血開城を見事に果たしたのでした。
明治政府になり、西郷も参議兼陸軍大将を任じられ、国の中枢として働きますが、対朝鮮に関する征韓論の論争で意見が対立し辞職をします。鹿児島に帰り私学校を設立し、明日の人材を育てようとしますが、政府にはこれが仇となり、とうとう反逆の意思ありとして西南戦争が勃発しました。
熊本の田原坂の戦いなど内戦としては歴史に残る激戦をくり広げ、ついに鹿児島の城山で西郷隆盛は49年の人生を終えます。
西郷の盟友である大久保利通は、武術はあまり得意としませんでしたが、学問や討論では西郷を凌ぐほどだったといわれています。
島津家の後継争いであるお由羅騒動に巻き込まれて父とともに罷免され、借金だらけの生活を強いられた苦労人です。しかし、お由羅の息子である島津久光には気に入られて側近にまでなり、出世の道を切り拓いていきました。
幕府が倒れたばかりの難しい時代に明治政府の中央集権国家の基盤をつくるため、廃藩置県の重大な決断を下し、日本の近代化に貢献したのでした。
俗説として、大久保が西郷や坂本龍馬を死に追いやった黒幕説もありますが、家庭内ではすごく子煩悩な父親で、また国の借金を個人で負担したため、死後は所有財産がすべて抵当に入ってしまったという人間性を感じさせるエピソードもたくさんあります。
東京千代田区の紀尾井坂で暗殺されますが、原因は廃藩置県で恨みを受けたという説、西南戦争で死んだ西郷を崇拝する者によるものなど、さまざまな説があります。
西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」のもう1人が木戸孝允(きどたかよし)です。桂小五郎という名前の方がしっくりくる方も多いでしょう。
山口県萩市の長州藩士であり、剣術や柔術の達人でした。幕末の頃は命を狙われることが多く、10以上の姓名を名乗っていました。
薩長同盟では西郷と会談して同盟を結び、薩摩名義でイギリスから軍艦や武器を購入することで藩の軍事力強化をおこないます。
倒幕後は明治政府の総裁局顧問専任になり活躍していきます。薩摩出身の大久保とは何度か対立しており周囲を心配させますが、実際はお互いを認めあった仲だったようです。
坂本龍馬と因縁の仲であった土佐藩主の山内容堂とは維新後は気が合っていたらしく、飲み友達であり、よく深酒をしたといわれています。
昭和世代には千円札の印象が強い伊藤博文。長州藩士であり、松下村塾の塾生で尊王攘夷運動にも参加していますが、明治政府になってからの活躍のほうが知られています。
松下村塾では入門を許可されていましたが、身分の低さから塾の外から学んでいたといいます。吉田松陰が獄中で亡くなった時に遺体を引き取ったのは伊藤でした。
イギリス留学を希望して、留学中に英語を学び、国の文化に触れますが日本との国力の差に驚き、開国論に目覚めます。
高杉晋作とともに行動することも多く、下関戦争後の和平交渉に通訳として同行したり、力士隊、奇兵隊に参加し一緒に戦ったりもしました。
明治政府になってからは、木戸孝允の後押しもあり、井上馨、大隈重信とともに改革に力を入れ、1885年には初代内閣総理大臣に就任します。
松下村塾のなかでも吉田松陰の愛弟子といわれる高杉晋作。27歳でこの世を去った、激しくも儚い長州藩士でした。
長州藩はアメリカやフランスの外国船への砲撃をおこなう下関事件を起こしますが、すぐに手痛い反撃を受けるのでした。この時に高杉は身分に関係なく志願兵を受け入れて「奇兵隊」を結成します。
この頃、長州藩は薩摩藩と会津藩により京都追放に追い込まれたり、「禁門の変」を起こしたことで朝敵になったりするなど茨の道を進み、高杉も一時脱藩します。藩に戻るとその罪で投獄、謹慎処分など苦難が連続して起こりました。
下関事件はさらに下関戦争に発展してイギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国連合艦隊の前に長州藩は惨敗します。謹慎が解けた高杉は和平交渉をおこない、幕府の命令を受けての攻撃だったことを主張して、長州藩への賠償金の請求を幕府に押しつけます。
長州藩はもはや幕府の命令に逆らえなくなり、自らの保身だけを考えるような存在になっていました。この保守派の藩政府に高杉は奇兵隊ら諸隊を率いて「大田絵堂の戦い」と呼ばれる内戦を起こします。
最初はたったの80名ほどで始めた戦いでしたが、決起を聞きつけ同士が集まります。それでも、約1000人の相手に対して約200人の反乱でしたので勝ち目は薄かったのですが、高杉の勢いに兵たちも活気づき、この戦いに勝利するのでした。
これにより、長州藩の実権は高杉や桂小五郎(木戸孝允)が握り倒幕の道に突き進みますが、すでに病魔は体を蝕んでおり、1867年5月17日に高杉は結核により亡くなります。
明治維新を語るうえで坂本龍馬は一番の人気者ともいえますが、実は生きていた頃の龍馬も人気者で女性関係は華やかだったといわれています。
龍馬の一番の活躍といえば、薩長同盟を成立させたことが挙げられます。
薩摩藩をスポンサーに「亀山社中」(海援隊の前身)という貿易会社を経営する龍馬や仲間たちは、薩摩にも長州にもキーマンとなる人物をたくさん知っていました。そのため、薩長同盟の仲介役としては彼以上の適役は他にいなかったのです。
しかし、薩摩藩と長州藩の因縁は深いものがあり、特に長州藩では下駄に討薩賊会奸(とうさつぞくあいかん)と書いた紙を敷いて踏みつけて歩いていたくらい、薩摩と会津を恨んでいたそうです。
両藩を何とか説得して小松帯刀邸にて薩長同盟の会談の席に西郷や桂を集めましたが、10日以上経っても話は進んでおらず、後から小松邸についた龍馬は驚きます。西郷を説得して長州藩に和解の姿勢を取るようにしたことで、やっと交渉は成立しました。
薩摩は資金がなくて困っており、長州は資金はあっても朝敵の立場から武器などが買えないなど、それぞれに悩みがあったので、龍馬はそれを利用して薩長同盟にまで結びつけることに成功したのです。
長州藩の思想家であり松下村塾の塾長。しかし、変わり者や狂人といった表現をよくされる人物でもあります。
尊王や倒幕に対する考え方が強く、幕府からすれば危険な思想家として目をつけられていました。
外国船への密航を2回ほど試みて、いずれも失敗していますが、1854年の時には漁民の小舟を盗んでまで実行しようとしており、牢屋敷に投獄されています。
松下村塾は叔父が主宰していたものを引き継ぎましたが高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文など明治維新で活躍した多くの人材を育てています。生きた学問を目指し、意見交換を主とした学びの場でした。
井伊直弼の「安政の大獄」は日米修好条約や徳川家茂の後継について反対する者たちを弾圧したものでしたが、吉田松陰も以前より何度か捕まっている経緯もあり、対象者として投獄されます。老中の暗殺を目論んでいたことを自ら告白したので処刑されてしまいます。
勝海舟は幕府の役人でありながら倒幕に対しても理解があり、時代の流れを見ていた人でした。
幕府はペリー来航に関する意見書の提出を幕臣から町民に至るまで幅広く求め、この時に勝の書いたものが認められたために蘭学書の翻訳を任されることとなります。
語学堪能が認められて長崎の海軍伝習所に入門しますが、はじめは海軍のことはよく知らないために専門外だとして嫌がっていたといいます。やがては軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行になるほどに海軍にはまっていきました。
坂本龍馬は開国論者である勝を斬るつもりでが訪ねますが、世界情勢や海軍の必要性を熱く語る勝に心を打たれて、その場で弟子入りしたというエピソードは有名です。
勝の幕府での役割は簡単にいえばトラブル回避の交渉役が多く、損な役回りをすることがたくさんありました。そのなかでも極め付けが江戸城無血開城であり、西郷隆盛との会談で江戸総攻撃を避ける偉業を成しとげます。
勝海舟が亡くなる時の最後の言葉は「コレデオシマイ」ですが、激動の時代を縁の下で支えた75年の波瀾に満ちた人生でした。
小松帯刀(こまつ たてわき)は幕末に大きな活躍をしていますが、西郷隆盛、坂本龍馬といった人たちと比べてしまうと知名度は低いでしょう。
薩長同盟の時に小松は西郷と一緒に交渉の席に座り、長州藩側と話をしていますが、長州藩に対しての理解は非常に高かったといわれており、長崎の薩摩藩邸に長州藩の伊藤博文や井上馨をかくまい武器商人のグラバーと会わせ、その後に井上と薩長同盟のために鹿児島に戻ってきました。
薩長同盟の会談も小松邸で開かれているなど、裏方としての役割もしっかりと果たしていました。
龍馬の「亀山社中」設立に力を貸したのも小松であり、2人はとても仲が良かったようです。龍馬の新政府に関する人事構想の書面には一番最初に小松の名前を書いています。西郷、大久保、木戸の名前はその後に書かれており、龍馬からの信頼度の高さを象徴していました。
大村益次郎は長州藩の医師、作戦参謀、蘭学者の役割をしていました。別名は村田蔵六といいます。医者の息子ということもあり、もともとは医者を目指していました。
奇兵隊に西洋式の編成や訓練を取り入れて隊の強化を図り、作戦参謀としての実力は高杉晋作に認められていて、重要な作戦をいくつも任されていました。また、医師としても有能で、名医で名高い緒方洪庵の適塾で塾頭になっていたほどです。
蘭学の勉強のため、宇和島藩に迎えられますが江戸で桂小五郎に出会い、後に正式に長州藩士になります。その風貌は独特なものがあり、高杉からは「火吹き達磨」のあだ名を付けられていました。
第二次長州征伐、戊辰戦争などにもその才能を発揮して明治政府でも軍務官副知事などを任せられますが、1869年に京都で会食中に暗殺されてしまいます。
松下村塾で高杉晋作や久坂玄瑞と一緒に学び、倒幕を目指して戦いました。下関や長州征伐、戊辰戦争でも活躍しています。
前原の運命を決めたのは、1876年に士族たちが起こした反政府活動のひとつである「萩の乱」でした。県庁襲撃を企てますが、うまくいかず、天皇へ直訴するための活動に切り替えるものの、政府軍に鎮圧されます。
明治政府で参議まで勤めた前原でしたが、「国民皆兵」などで木戸孝允と意見が合わず対立。奇兵隊の監督を経て、日本陸軍では「国軍の父」と呼ばれた山縣有朋とも対立して、明治政府を去ります。
「国民皆兵」とは簡単にいうと徴兵令のことで、国民全員が国のために兵として戦うという意味ですが、これに対して旧武士階級の人たちである士族は不安と不満を募らせます。自分たちの存在意義や生活のための収入が脅やかされると感じたからです。
そのため、不平士族の反乱というのは何度も起きており「萩の乱」もそのひとつでした。前原はその首謀者として捕らえられ、弁明の機会なく斬首されます。
広沢真臣(ひろさわ さねおみ)は長州藩士です。京都で桂小五郎のもとで事務方として勤めていましたが、藩内の内乱である「大田絵堂の戦い」が起こり、高杉、桂が藩の実権を握った後は政務に参加するようになります。
第二次長州征伐の時には藩を代表して幕府の勝海舟と休戦協定を結びます。薩長同盟の時も桂とともに会談に参加しました。
明治政府になってからは、いくつかの役を歴任し参議にまでなりますが、東京麹町の私邸で暗殺されてしまいます。この事件は未解決事件になりましたが、80数名の容疑者に加えて木戸孝允や大久保利通にも黒幕説がありました。
佐賀藩士である江藤新平は、尊王攘夷運動に参加して自分の思想を持ち、藩にいることに疑問を感じて脱藩します。しかし、京都で桂小五郎らに会ってから脱藩の約2ヶ月後ほどで藩に戻りました。
脱藩は通常死罪となりますが、藩主の鍋島直正の裁量により無期限の謹慎処分になり、謹慎が解かれたのは明治政府ができた後になります。
戊辰戦争や江戸城明け渡しの時には、新政府側の役人として働き、徳川慶喜の警備を目的とした彰義隊との戦い(上野戦争)では政府軍として戦いました。
功績が認められて、政府から会計局判事に任命され出世を続けて、ついに参議にまでなりますが、西郷隆盛と同じく征韓論の論争で政府を去ります。
佐賀に戻った江藤は不平士族の反乱である「佐賀の乱」を起こして政府軍と戦うも敗戦。逃亡するも捕まり斬首刑になりました。
横井小楠(よこい しょうなん)は熊本藩士であり儒学者です。福井藩の松平春嶽は横井を政治顧問に招き、藩政改革を行い、福井藩の財政を豊かにしました。
横井は勝海舟、坂本龍馬とも何度も会っており意見を交わしていましたが、横井と龍馬は薩長連合の件で口論になり、その後は会っていないといわれています。
しかし、龍馬の作った「船中八策」は横井の「国是七条」を原案としたものであり、一部の意見の違いはあっても龍馬は横井を尊敬していたと見られています。
明治政府では岩倉具視の熱烈な推薦で参与になりますが、その後、すぐに暗殺されてしまい、61歳で世を去りました。
岩倉具視(いわくら ともみ)は武士ではなく、公家出身です。ですが、公家らしくない振る舞いや言動があったと知られています。
幕府が公武合体として徳川家茂と和宮との婚姻を求めてきますが、その調整役だったのが岩倉でした。薩摩藩と長州藩との対立と皇室内での確執も入り混じり、結果として岩倉は政治から離れることになります。
朝廷の許しが出て政治の世界に復帰するのは大政奉還の後になり、徳川慶喜の征伐に賛成の立場を取って将軍家を政治の世界から排除しようとするのでした。
一度は体調不良を理由に辞職しますが、廃藩置県後に今の外務大臣にあたる外務卿に就任。岩倉使節団をつくり、アメリカやヨーロッパ諸国を巡り西洋文化を学びます。
この後も西南戦争や不平士族の反乱、華族問題、立憲問題などに関わっていきますが、1883年7月20日に咽頭癌により亡くなります。
吉川英治文学賞を受賞した幕末の青春群像小説です。幕末の思想家・吉田松陰と奇兵隊を率いた風雲児・高杉晋作が描かれています。
1853年、ペリーの黒船来航以来、国内では攘夷か開国か、はたまた勤王か佐幕かなど政治闘争は絶えませんでした。長州の萩で生まれた吉田松陰は米軍の軍艦に密航しようとして捕まりますが、その情熱は冷めることがありません。
松陰の松下村塾の門弟、高杉晋作もその情熱を受け継ぎ、尊王攘夷の思想のもとに幕末の時代を駆け抜け、やがては身分制度を超えた軍隊である奇兵隊の結成へと繋がっていきます。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 2003-03-10
長州藩は幕末に煮え湯を飲まされることばかりで、かなり悔しい思いをしますが、それを耐え抜いて新しい時代を迎えます。
吉田松陰と高杉晋作は新時代を迎える前に散ってしまいますが、吉田の思想と高杉の行動力が藩を根底から支えていたのだと感じられるでしょう。
本作は小説の良さを活かして、登場人物がほどよく着色され、変わり者で真面目な吉田松陰や少し強引だけど人間的な魅力に溢れた高杉晋作の姿がきちんと描かれている作品です。
幕末から明治維新までの25年間を作者らしい切り口で解説しており、独自の歴史観を活かして、幕末と維新の有名人たちをつづります。
ペリーの黒船来航から、坂本龍馬の死、朝敵になってしまう徳川慶喜、大政奉還で江戸城明け渡し、非情な戊辰戦争、そして新政府の成立から西郷隆盛の西南戦争に至るまで、この一冊で幕末の出来事を網羅できるでしょう。
明治維新とは、いったい何だったのかを考えさせられる内容なのですが、作者の文章力で固くならずに明るく読むことができる歴史本です。
- 著者
- 半藤 一利
- 出版日
作者は「民草(たみぐさ)」という言葉を作中で用いていますが、「民草」というのは民が増えることを草に例えた語のこと。このように、著者の文章や言葉のセンスの良さは作中の随所で光ります。
見出しを少しだけ紹介しますと、「江戸っ子たちの珍案妙策」、「勝は船酔いで役立たず?」、「ハッスルする島津久光」、「慶喜と春嶽コンビのやったこと」などなど、これだけでも読み手の興味をそそるものです。
幕末や明治維新の話は難しい内容になりがちですが、とてもわかりやすく、文章力でページを進めさせてくれる作品です。
イギリスから来た外交官のアーネスト・サトウ。イギリスにおいて日本学の基礎を築いたといわれ、1990年の任期までの25年間を勤めました。
本書は外国人からみた明治維新の回想録として書かれているので、非常に客観的な視点で激動の時代を見つめています。日本人は明治維新を美化してしまう傾向もあるので、見失いがちな事実の一面を捉えられているといえるでしょう。
また、生麦事件や薩英戦争、下関戦争、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦いなど歴史的な瞬間も数多く登場しています。
- 著者
- ["アーネスト サトウ", "Satow,Ernest Mason", "精一, 坂田"]
- 出版日
著者が日本に来た頃は、尊王攘夷運動が盛んだったので外国人を襲う事件も多くありました。作中では、当時のリアルな日常を感じとれる場面もあり、革命時の日本がどんな様子なのかが伝わってきます。
また、切腹を生で見た数少ない外国人であり、その記述も収められていますが、著者は厳かな日本の儀式として受け止めています。
間違えられやすいのですが、アーネスト・サトウは日系人ではなく、ドイツ人の父とイギリス人の母との間に生まれました。サトウは父親方の希少姓であり、日本の「佐藤」とは関係ありません。
明治維新は政治改革の話ですが、そこには理想に燃えた人々の人間ドラマが溢れており、日本にとっては大きな分岐点になった歴史の一幕なのです。