室町幕府は、南北朝時代や戦国時代と重なり、あまり印象に残らないものではないでしょうか。その室町幕府について、成立から滅亡までご紹介いたします。
室町幕府は1336年11月、足利尊氏が幕府の基本的法令となる「建武式目」を作成した時から始まりました。
3代将軍義満が、京都の室町に「花の御所」と呼ばれる大邸宅を造り、そこを中心に活動するようになったので、室町幕府と呼ばれるようになります。
1573年、15代将軍義昭の時に滅亡します。
1274年と1281年の2度にわたるモンゴル軍の襲来で、鎌倉幕府は経済的危機に陥りました。
さらに、この戦いで恩賞をもらえなかった武士や、惣領相続時に相続を受けることができなかった不満分子が「悪党」と称され、各地で蜂起します。
強権化を図る幕府中枢の北条氏に対する不満も蔓延し、鎌倉幕府は政治的にも不安な状況になりました。
一方朝廷では大覚寺統(だいかくじとう・後の南朝)と、持明院統(じみょういんとう・後の北朝)の2つの皇統が争っていました。次の天皇を決めるには、幕府の意向を聞かなければいけないという状況を打破するため、大覚寺統の後醍醐天皇は討幕を決意します。
しかしその計画が発覚し、1332年3月に後醍醐天皇は隠岐に配流されてしまいました。
幕府は持明院統の光厳天皇(こうごうてんのう)を立てますが、6月になると後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりよししんのう)が兵を募りはじめ、11月にはこれに呼応した楠木正成が挙兵、幕府軍と戦います。
1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の船上山で新政府の樹立を宣言しました。それに呼応して、足利尊氏が丹波で挙兵、新田義貞が上野で挙兵し、鎌倉幕府を滅亡させます。ここに後醍醐政権が誕生したのです。
後醍醐天皇は京へ戻り、光厳天皇を廃して、天皇親政を始めます。これを「建武の新政」といいます。すべての決定は後醍醐が出す綸旨(天皇の命令書)によるものとし、その政策は武家や公家、さらには農民にも不満が出るようなものでした。
「この頃都にはやるもの、夜討ち強盗偽綸旨、召人(めしうど)早馬偽(から)騒動」という二条河原落書は、天皇が次々に朝令暮改の命令を出すため、それに乗じて偽の命令がたくさん出されることを皮肉ったものです。
建武の新政により、所領が定まらず困窮していた武士に対して、足利尊氏は所領の権利を鎌倉時代に戻す命令書を独自に出します。これにより鎌倉武士は大半が足利派になりました。
これに対し後醍醐天皇は、楠木正成、新田義貞らに尊氏討伐を命じます。尊氏は新田、楠木軍を破って京に攻め入り、持明院統(北朝)の光明天皇を擁立します。
後醍醐天皇は尊氏の和議を受けて、三種の神器を光明天皇に授与。その2ヶ月後、後醍醐天皇は京を脱して吉野に逃れ、新しい政権(南朝)を立てたのです。ここから南北朝時代が始まります。
1336年、足利尊氏は京に幕府を開き、1338年に征夷大将軍に任ぜられました。
1467年、将軍継嗣問題、畠山・斯波(しば)の家督争い、有力守護による争いなど、多くの要因がからみ合い、応仁の乱が始まりました。10年以上にわたる戦乱のため、京は焼け野原になり、花の御所も焼けてしまいます。幕府の権威も失墜し、支配力は山城国一国にしかおよばなくなりました。
応仁の乱後、日本の各地で守護代や国人が守護の言うことを聞かなくなり、守護が領国を奪われるようになります。下の者が上の者を圧倒する下克上の始まりです。応仁の乱以降100年もの間、戦国時代が続きます。
1568年、尾張を支配していた織田信長が足利義昭を奉じて入京し、義昭を15代将軍につけます。ところが将軍にはなったものの、何も権力を持てなかった義昭は信長と不和になり、各地の大名に信長を討つように働きかけました。
しかし各地で勝利をおさめた信長は、1573年に義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡したのです。
足利尊氏は、足利貞氏の長男として、1305年に鎌倉で生まれ、1358年4月に京都で亡くなりました。彼はどのような生涯を送ったのでしょうか。
1331年、父の貞氏の服喪中の尊氏は、執権の北条高時から笠置討伐の命を受け、上方に向かいます。笠置は簡単に落ち、後醍醐天皇は隠岐に配流されました。
それから2年後の1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆で兵をあげます。その時尊氏は病気にかかっていましたが、またも出征の命を受け、北条高家とともに伯耆に向かうことになりました。
2度の事情を顧みない出征命令に、尊氏は北条氏に異心を抱いたといいます。1333年4月、尊氏は北条に対し公然と反旗を翻し、人質の妻子を鎌倉から脱出させます。翌5月、尊氏は六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を陥れ、北条氏が政権を担っていた鎌倉幕府が滅びました。
政権を獲得した後醍醐天皇は、まず内裏の造成に取り掛かります。税を課したため民心を失い、恩賞は公家に重く武家に軽くしたため、武士たちを失望させました。この時尊氏は、諸国から到着する武士の名を帳簿にとどめ、その労をねぎらい彼らの心をつかみます。
1336年、建武の新政に不満を持つ武士の集団を率いて、尊氏は入京します。そして後醍醐天皇を追い落とし、政権を奪取しました。
尊氏は、持明院統の光明天皇を擁した後、施政方針として17条からなる建武式目を制定し、武家政権の基本姿勢を示しました。そして1338年、征夷大将軍に任命されると、弟の直義とともに政権を主導します。
尊氏は恩賞の給与や軍事指揮といった武士の統率者としての権限、直義は裁判、本領安堵といった統治者としての権限を持っていました。
尊氏、直義兄弟によって運営された二頭政治は争いの時代を迎えます。その争いが激しかった時期が観応年間(1349年~1352年)であったことから「観応の擾乱」と呼ばれています。ちなみに擾乱とは内紛のことです。
1349年、足利家の家宰である高師直(こうのもろなお)が、直義の排除を尊氏に求めます。尊氏はこの要求を入れ、直義は政務を返上、直義派の上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまただむね)は殺害されました。
すると直義の養子、直冬が九州で一大勢力圏を打ち立てます。これを討つために尊氏、師直が進発しますが、その留守中に直義は京都を脱して大和に入り、南朝に接近して尊氏追討の宣旨を得るのです。ここで兄弟の対立は決定的になります。
数度の決戦で尊氏、師直は敗れ、師直、師泰兄弟は上杉重能の養子、上杉能憲(うえすぎよしのり)に殺害されました。
高一門の滅亡で直義の執政が再開されますが、その半年後、身の危険を感じた直義は京を出奔して鎌倉に入ります。尊氏は南朝と講和を結び、自ら駿河まで出陣し、勝利しました。捕縛された直義はその後死亡しますが、毒殺されたともいわれています。
一方、九州にいた直冬の勢力は、西中国に活動の場を移しました。1353年に南朝から尊氏の息子、義詮(よしあきら)追討の綸旨を得ます。直冬は京都に入り、尊氏、義詮軍と戦いますが敗れて敗走。これにて観応の擾乱が終わりました。
1358年4月、尊氏は京の二条万里小路の館で亡くなりました。死因は悪性の腫瘍だったといわれています。
室町幕府の全盛期であり、文化の栄えた3代将軍義満から、その子義持の代にかけての約半世紀を、義満の弟にちなんで北山時代といい、その文化を北山文化といいます。
北山文化の代表的なものとして、北山第にある金閣が挙げられます。公家社会の阿弥陀浄土信仰、鎌倉時代から交流した禅宗信仰をひとつに融合した構造は、将軍と公家、禅宗との融合を表していて、まさに北山文化を象徴する建造物でした。
義満は能の大成者となる、観阿弥、世阿弥親子を支援します。世阿弥は貴人の好みに合うように、能を大成させました。彼の理念とした「幽玄」は、情緒的、ロマン的な余剰を漂わせることでした。
東山時代は、8代将軍足利義政が1443年に将軍についてから、1490年に亡くなるまでの約半世紀のことで、この期間の文化を東山文化といいます。この時代は一揆が頻発し、京都では「悪党」と呼ばれる不満分子の跳梁、また全国では守護大名に分裂が起こり、やがてそれは応仁の乱を引き起こすことになるのです。
義政はこの社会情勢に目を向けることなく、東山山荘の造営に力を入れます。山荘の中心は銀閣と東求堂です。銀閣の完成は義政没年の前の年で、銀を塗る計画は間に合いませんでした。
東求堂は寝殿造りと書院造を含む構造で、義政はここにこもり、美術品のコレクションに励みました。この蒐集品を東山御物といいます。
東山時代には、禅の精神を融合させた侘茶や、生け花が創出されます。また造園法では「枯山水」という岩と白砂で自然を表現する作庭がおこなわれました。竜安寺の石庭や、大徳寺大仙院庭園が有名です。
観応の擾乱とは、室町幕府創世記に起こった、足利尊氏とその弟直義の争いのことをいいます。
後醍醐天皇を追い落としてから始まった室町幕府ですが、当初は尊氏、直義の職務を分けた統治がうまくいっていました。なんといっても彼らは同腹の兄弟です。助け合う気持ちも強かったのでしょう。それが一転、家臣や息子を巻き込んだ戦いは、互いに復讐合戦の様相を見せ、泥沼化していきます。
- 著者
- 亀田 俊和
- 出版日
- 2017-07-19
この戦いにおいて、尊氏は何を得たのか。そしてどのように室町幕府の制度は整っていったのか。本書では観応の擾乱のすべてを余すところなく書き記しているので、背景、人物相関図など、非常によくわかります。
同じく中公新書から『応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱』という大ベストセラーがあります。本書とあわせて読むと、室町幕府についての理解はよりよく進むでしょう。
室町幕府の成立から、4代将軍義持の時代までが詳述してあります。室町時代の寺院や大規模建築の造営をとおして、時の政治や朝廷との関係がわかりますよ。
- 著者
- 早島 大祐
- 出版日
- 2010-12-10
その一例として、報国寺の大塔があります。3代将軍足利義満は報国寺に大塔を建立しましたが、その高さはなんと100mもありました。父義詮の法要のために建立したといいますが、それ以上に義満の権勢を誇るのに役立ったことでしょう。
応仁の乱や戦国時代の始まりなど、室町幕府というのは力を持っていなかったイメージがありますが、華やかな時代もあったのだということがよくわかる一冊です。
本書は室町幕府成立から、戦国時代の幕開けまでを著した室町幕府の通史です。
- 著者
- 榎原 雅治
- 出版日
- 2016-05-21
室町幕府は鎌倉幕府と同様の武家政権から脱却し、公家社会まで支配下におさめるようになります。そしてその支配は宗教界にもおよびました。歴代将軍の大規模な法要は、幕府の権威を世に知らしめる場になるのです。
室町幕府の拠点は京都です。この京都中心の政治が、後に地方の支配がおざなりになり、下克上の要因になっていきます。
本書は、政治の世界から、文化、交易、地方社会まで、室町幕府全体のことを知るのに適した一冊です。
本書に描かれているのは、4代将軍義持の時代から、6代将軍義教(よしのり)暗殺までの歴史です。
- 著者
- 森 茂暁
- 出版日
- 2011-10-25
将軍義教は、くじ引きで決まった将軍でした。彼はいかなる政治をおこなったのでしょうか。そしてなぜ暗殺されてしまったのでしょう。義教暗殺の「嘉吉の乱」までの史実を描きます。
僧から還俗して6代将軍になった義教の政権移行は、たやすいものではありませんでした。当初は管領や重臣の意見をよく聞き、政策を進めていましたが、しだいに「恐怖の世」といわれるほどの強権政治になっていくのです。
本書では義教時代の勢力争いや、政治、文化、交易に至るまでが、詳しく書き記されています。応仁の乱へと続く不穏な社会情勢や人物関係など、室町時代中期の歴史がよくわかる一冊です。
室町幕府は意外にも長く、230年ほど続きます。しかし3代将軍足利義満時代が最盛期で、中期以降は一揆や応仁の乱、それに続く戦国時代など、ほとんど幕府の影響力がおよばない時代になっていきました。
京都に地盤を築いた室町幕府、その影響は、後に群雄割拠する下克上の時代を引き起こします。