教養

5分で分かる倭寇!東アジアを脅かした海賊たちとは?

更新:2020.11.27 作成:2017.10.17

中国や朝鮮が常に恐れた日本の海賊、倭寇。しかし実際は単純な日本人による海賊行為ではありませんでした。彼らはいわば多国籍軍といってもいいほど、非常に多彩な人材によって構成されていました。今回は東アジアの貿易を変えた、倭寇について見ていきましょう。

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倭寇とは

倭寇(わこう)とは一般的に、日本の鎌倉時代から室町時代に存在した東シナ海を主な活動範囲とする集団です。海賊と言われることもありますが、海賊的な行為はあくまで彼らのほんの一部分に過ぎず、それ以上に海商としての性格が強かったからです。

主に海商によって生計を立てている貿易商人の集まりであり、九州や四国、周防の守護や大名といった武家勢力の監視・保護を後ろ盾に日々生活をしていました。彼らは中国から生糸や宋銭、仏典や四書五経などの古書、磁器といったものを喜んで買っています。

ちなみにご存知のとおり倭(わ)とは日本という意味ですが、実際には日本人の割合は後になるほど少なくなり、初期は朝鮮人の奴隷、のちにはほとんど中国人の商人らが中核となっていました。

いつ頃現れたのかについては諸説ありますが、当時の朝鮮にあった高麗(こうらい)王朝の記述では室町幕府初期の頃から活動が盛んになるとされています。活動期は主にふたつ存在し、その違いから前期倭寇と後期倭寇といわれているのです。

前期は室町幕府初期から中期、後期は戦国時代中期から織田信長の登場辺りまでを主に指し、前期と後期では活動の目的も範囲も大きく異なります。

前期は早くは鎌倉時代の元寇以前からそれらしき活動があったとされており、一般的には元寇を過ぎて経済負担と政権内部の争いで著しく不安定になった高麗(朝鮮)の隙を狙って食糧目当てに略奪が行われたのが始まりとされています。

中国大陸でも同じような侵略行為が行われており、彼らは主に貿易港のある浙江省や沿海部の山東省、遼寧省にて略奪をおこないました。しかし1419年に遼東の望海堝(ぼうかいか)にて明軍に破られるとしだいに略奪行動は沈静化します。

その後30年ほど経つと中国・朝鮮ともにしばし平穏を迎えますが、中国では明朝後期にある事件をきっかけに再発しました。それ以降、主に浙江・福建・広東、それに江南北を含めた地域で前期以上の激しい略奪がおこなわれます。これを後期倭寇と呼びます。

後期のうち1550年代の数年間は当時の明朝の年号を取って嘉靖大倭寇(かせいのだいわこう)と呼ばれていましたが、やがて鎮圧されていきました。これ以降、大きなものは中国では見られなくなり、日本の天下統一に合わせて貿易が安定してくると、彼らも終焉を迎えるのです。

倭寇が起こした事件

倭寇という言葉自体は太古の昔からありましたが、上記の意味で使われるようになるのは1350年、高麗の各地で日本人商人とみられる者らが侵略行為を起こすようになってからです。それから高麗ではしばしば彼らによる侵略を受けるようになり、高麗はその対策に追われます。

同じ頃中国大陸でも倭寇が見られるようになり、主に浙江(せっこう)、山東(さんとん)、遼東(りょうとう)といった地域にて侵略がおこなわれました。当時中国では元朝が滅び明朝が建国されていましたが、明朝は討伐のために沿海部の防御を強化しています。

前期倭寇にて具体的な記述が残っている有名な事件としては、1419年の望海堝(ぼうかいか)の役が有名です。遼東都の活躍によって彼らの大船団はほぼ壊滅し、これによって彼らの活動は一気に鳴りを潜めてしまいました。

しかし1523年のある事件がきっかけで、倭寇は再び中国大陸を脅かすこととなります。この時の主力メンバーはほぼ中国人で、その発生源も浙江、江東、江南、そして福建、広東としだいに日本列島から離れていきます。

このなかで有名なのが、王直という安徽省(あんきしょう)出身の中国人商人らを中心とした商人海賊ともいうべき集団です。彼らは同時に熱心な仏教信者でもありました。後期はほぼ彼ら中国人によっておこなわれています。

明朝では建国以来海禁と呼ばれる貿易制限をしていましたが、後期の頃になると当初は許されていた中国国内での渡航も許されなくなっていたのです。しかし王直らはこれを破って密貿易をおこない、日本の豊後大友氏ら九州の有力者と結託して利益をあげていました。

嘉靖大倭寇(かせいのだいわこう)とよばれるこの大波乱の時代は、まさにこの王直らが活躍していた時代にあたるのです。

明朝では中央での政権争いに巻きこまれて、たびたび海防責任者が更迭されるというひどい状況でしたが、謀臣と知られる胡宗憲(こそうけん)がこれにあたり、王直をだまし討ちによって幽閉、処刑するとしだいに倭寇は勢力を失います。それでも残党は依然として広東あたりで活動をくり返していましたが、名将で知られる戚継光(せきけいこう)らによって討伐されると、ついに倭寇は姿を消してしまうのです。

勘合貿易について

室町幕府と明朝の貿易として知られているのが勘合貿易(かんごうぼうえき)です。明朝は海禁政策によって貿易を大幅に制限しており、民間での交易を非常に厳しく取り締まっています。そこで国同士の公式の貿易の際には、明朝が用意した勘合符をアジア周辺の各国に配布し、使者が来た際にはこれを照合して本物か偽物かを判断するというシステムを取っていました。

この勘合貿易は冊封体制(さくほうたいせい)という、中国を宗主国、諸外国を朝貢国とする価値観に則っておこなわれ、日本だけでなくあらゆる国との貿易でおこなわれていました。統計では日本はむしろ他の国と比べると貿易回数は少ないくらいだそうです。

室町幕府が明と貿易をスタートしたのは、1401年で、日本は足利義満、明は2代建文帝が治めていた時代です。日本側では遣明船と呼ばれる船が用意され、そこに刀剣、硫黄、扇といった貿易品をのせていました。使者となるのは五山僧と呼ばれる学問と語学に長けた僧侶、それに有力な商人、通訳、水夫、といった面々です。

室町幕府は最初こそ幕府自身の力によって貿易をおこなっていました。これは義満が当時としてはかなりハイカラで明の品をこよなく愛した性格と、明の権威を借りることで自分の権威を高めるという意味もありましたが、もちろん国際関係と経済という現実的な理由もありました。

義満が亡くなり義持が将軍となると、彼によって勘合貿易は廃止されてしまいます。次の義教の時代に勘合貿易は復活しますが、この時からは幕府だけでなく有力守護も干渉するようになります。その代表が摂津の細川氏と周防の大内氏です。

応仁の乱以降幕府の権威が衰えると、しだいに勘合貿易は大内氏と細川氏によって争われることとなります。幕府が細川氏を支持しているうちは細川氏が主導権を握っていましたが、1523年に寧波(ニンポー)にて両氏の主導権争いがきっかけで襲撃事件が起こりました。

これによって大内氏が明朝に働きかけて貿易の独占権を認めてもらうと、ついに大内氏が勘合貿易を独占されます。以降数回は大内氏の独断で遣明船が派遣されますが、大内氏は間もなく安芸の毛利氏によって追い詰められついに滅亡します。これと前後して勘合貿易もついに自然消滅してしまうのです。

なぜ倭寇はいなくなったのか

そもそもなぜ彼らは現れたのでしょうか。それは朝鮮の記録で彼らの発生源とみなされた彼らの居住地に関係していました。その居住地とされる壱岐、対馬、松浦は土地が荒れており耕作には不向き、現在でも焼畑による不安定な生産体制が行われており、住民はその生活を漁や貿易に頼らなくてはなりませんでした。

当時の情勢として、朝鮮は蒙古の侵略以来不安定な状態が続き、一方の日本は元寇以来士気旺盛、そんななかで朝鮮を襲おうという発想が出てきます。朝鮮の倭寇の目的は食糧と捕虜の売買による収入です。彼らが襲ったのは主に穀倉であり、捕虜は殺さずに人質交換によって莫大な利益を得ることを狙っていました。

特に人質売買には武家勢力の後押しもあり、彼らが代わりに人質を返す見返りとして倭寇に褒美を与えていました。朝鮮はこれに対し力づくの鎮圧ではなく懐柔することとします。つまり、官位や職を与えて帰化・永住することを許可したり、日本との貿易の仲介人とさせたりしたのです。

こうして朝鮮では少しずつ倭寇がなくなっていきます。

一方中国では明朝が建国される前から開港、つまり貿易解禁を目的とする倭寇が現れていました。もちろん略奪目的のものも大勢いましたが、後期になってからは貿易解禁を求めるものが大多数を占めていきます。

明朝は取り締まりを強めて密貿易者を徹底処断しますが、これによって郷紳(きょうしん)と呼ばれる地方有力者が利益を摘まれることに不満を覚え、結局密貿易を取り締まることはできませんでした。王直らもこうした密貿易によって利益を上げた商人です。

後期の大半は中国人でしたが、彼らは密貿易の過程で日本の有力大名と結託し多国籍軍を組織していたのです。

しかし王直らが殺され戚継光らの活躍で残党がほぼ掃討されると、明朝もさすがに事態を重く見て貿易を部分的に解禁。倭寇の意味がしだいになくなります。一方日本でも織田信長、豊臣秀吉の時代になりしだいに天下が平穏を迎えます。そして秀吉の海賊取締令によって彼らは日本にも居場所をなくし、ついに終焉を迎えるのです。

数々の先行研究をもっともコンパクトにまとめた入門書

室町時代の外交史の特徴である倭寇と勘合貿易、その研究は史料の膨大さや国際交流の重要性から非常に長い歴史を持ちます。本書はそんな複雑多様や研究をもっとも簡潔にまとめた一冊といえるでしょう。

倭寇とは何か?勘合貿易はどのようにおこなわれたのか?そしてこの2つの関連性は?……など、こうした疑問にもっともスタンダードな回答をくれる本書は、この時代を研究する必携の書です。

著者
田中健夫
出版日
2012-12-01
本書は1961年に刊行されたものを、著者の没後に明らかな誤りを訂正し再刊行したものです。しかしその研究価値は非常に高く、現在でも倭寇研究では必ず読まなければならない一冊です。

著者の語り口はいたって平易ですが、非常に詳細に述べられています。倭寇と勘合貿易というテーマはどうしても狭い時代の話になってしまいますが、中日鮮の3ヶ国の国際事情をはっきりと知ったうえで読むと、よりワイドにこの時代の研究を深めることができます。

一項目ずつの記述が決して長くないので、用語集としても使えるかもしれません。

国際的な視野に立って記した倭寇概説の続編

倭寇は当時の東アジアの貿易でも非常に目立った活躍をしていましたが、彼らは単にその日暮らしの略奪のためだけにおこなっただけでなく大名や王朝、そして国をも動かしました。

それまで世界中では曖昧な認識しかされていなかった日本人というものに興味を持たせた倭寇、本書はその実態と倭寇を中心とした、各国の交渉について迫ります。

倭寇―海の歴史 (講談社学術文庫)

2012年01月12日
田中健夫
講談社
こちらも田中健夫によって記された一冊です。内容は事実上の前作である『倭寇と勘合貿易』と重複するところもありますが、今回のテーマは勘合貿易に留まらない国際的な視野に立った考察で、中日朝だけでなくインドやフィリピン、琉球についても考察がされています。

倭寇や日本人に関する史料の紹介も前作より格段に増しており、概説書としてはこれ以上ない完成度となっています。その完成度の高さから中国でも翻訳出版されているほどで、こちらも国際関係を学ぶ人には必携です。

前作以上に図説が豊富なのが本書の強みです。

図説による学術書。今も続けられている倭寇研究

東京大学史料編纂所所蔵の『倭寇図巻』と、中国国家博物館所蔵の『抗倭図巻』を掲載した大型本です。この2巻、名前のとおり非常によく似たものですが、細部で異なります。

本作はストーリー仕立ての図巻の最新の研究成果を紹介しており、教科書で見るあの有名な絵が今や簡単に家でも見れるようになりました。

同時掲載のコラムも必見です。

著者
東京大学史料編纂所
出版日
2014-11-25
図や絵画史料といっても必ずしも当時の実情を100%反映しているわけではありません。しかし歴史学の研究では実際に発見された考古物や図を史書の記載と照らし合わせておこなわれるため、活きた研究をするためには非常に重要です。

当時の人々がどんな目的で倭寇を描いたのかは非常に気になるところで、赤外線などを駆使した最先端の研究によってそれまでは史書の記載から推測するしかなかったことが明らかになっています。

さすがに一般向けとしては専門性が高すぎますが、手を出す価値は十分にあるでしょう。

およそ1千もの史料を丹念に研究した集大成

倭寇の研究は戦前からそれこそ多くの研究がされてきましたが、明代に焦点をあてた専門書としては本作が最適でしょう。

台湾生まれの著者が長年に渡って中国と日本の関係史について研究してきた集大成ともいうべきできで、明代の地方史や経済史、軍事制度も含めた詳細な解説をしながら、明代に倭寇が激しくなった原因は一体何だったのかを追求します。

著者
鄭樑生
出版日
2013-12-24
先述の日本人学者の著書が日本史中心の視点に立っているなら、こちらは紛れもなく中国史専門の視点に立った書き方をしており、研究視点の比較のみならず当時の明代地方史ではどのようなことが民や商人に強いられていたのかを知ることができます。

著者は明代に焦点を充てることで、倭寇を経済、政治といった往々にして外交とは分けられがちな分野を取り込んで、より具体的に倭寇と明朝の対策に関して立体的に描いています。

先述の本が概説書なら、こちらは断代史というべき位置づけにあるといっていいでしょう。数ある明代の研究のなかでは、最新研究のひとつとして手元に置くべき一冊です。

いかがでしたでしょうか?21世紀を生きる私たちにとって海外貿易は非常に重要な問題ですが、倭寇は日本史のなかでそれを非常に強く意識させるきっかけとなった存在です。ちょうど世界史では大航海時代に入っていましたが、日本もここから世界の波に乗っていくのです。

これから私たちが日本だけに閉じこまらず広い世界を見るためには、倭寇に関する本は非常にいい学びを与えてくれることでしょう。