5分でわかる江戸幕府!なぜ260年も続いたの?滅亡した理由や将軍一覧も

更新:2021.11.10

さまざまな文化が花開き、現代にも色濃く影響を残した江戸時代。長いあいだ安定した統治がおこなわれた平和な時代として知られています。この記事では、なぜ江戸幕府の治めていた時代がこんなにも長く続き、そしてなぜ滅亡してしまったのか、その理由をわかりやすく解説するとともにおすすめの関連本をご紹介します。

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江戸幕府とは。幕藩体制で大名を統治した時代。

 

徳川家康によって発足され、1603年から1867年(もしくは1868年)までのおよそ260年間にわたり国を支配してきた江戸幕府。

上位の君主がその部下に対して領地支配を認めて、位を与えたうえで臣従を義務づける封建制度をベースとした「幕藩体制(ばくはんたいせい)」により、徹底した監視のもとで統治がなされました。

「徳川に害をなすものは、どんな小さなものでも処理してきた。」といわれるほど、その管理は細やかで、厳しいものでした。

 

江戸幕府が安定していた3つの理由!巧みな政策で大名も農民も統制した

260年以上、国が覆ることなく統治された江戸幕府。この期間は世界的に見ても驚くべき長さです。

徳川家康は自身が征夷大将軍に就任した2年後に息子の秀忠に将軍職を譲り、徳川家の世襲による専制政治を世に知らしめました。

ではなぜこれだけの長い間、江戸幕府は国を治めることができたのでしょうか? 

大きな理由として、以下の事柄があげられます。

  • 諸大名への厳しい監視体制の確立
     
  • 金銀銅の鉱脈や数少ない外国との貿易を掌握し、経済の中央集権を図った
     
  • 農民らの生活や貢納への積極的な介入
     

豊臣を打倒した後、元和偃武(げんなえんぶ)と称して武器を納めた平和な世の中を目指した徳川は、武力と経済をコントロールしはじめました。

諸大名への厳しい監視体制とは、例として「武家諸法度」の制定、「参勤交代」や「手伝普請(てつだいふしん)」などの軍役があげられます。手伝普請とは、大規模な土木工事を大名に命じるものです。

武家諸法度において全国の武士を厳しく取り締まり、参勤交代や手伝普請による土木建築工事を命じることで諸藩の予算を削らせます。そして、武力においても経済力、権力においても徳川に反旗を翻すことのないよう、入念な統治の体制が第3代将軍徳川家光の代に確立されました。

農民らに対しても、生かさず殺さずしっかりと年貢を徴収するためのさまざまな制限をおこない、年貢である米の生産以外に目を向けさせないよう、農民たちを貨幣経済から遠ざけようとしていました。このように、ある種の恐怖政治のような統治体制を維持することで、江戸幕府は長く続いたと考えられています。
 

江戸幕府の終わり。なぜ滅亡したのか理由を解説

 

徹底した管理のもと統治がおこなわれた江戸時代ですが、犬公方(いぬくぼう)とも呼ばれた第5代将軍・徳川綱吉の治世から、世相はゆっくりと変わりはじめます。

少しの綻びが徐々に広まるように、崩壊が進んでいきました。

年貢徴収を基本とする幕藩体制は整えられたものの、依然として貨幣経済は存在しており、幕府は農業中心の時代から商業中心の時代への転換にうまく対応しきれずにいました。

年貢は納めなければならないのに金銭的に余裕がなくなってしまう農民が増え、それに相まってたび重なる飢饉が起き、不満が高まった農民らによる打ち壊しや一揆が増えていきます。

幕府側も何代にもわたってさまざまな対策を講じましたが、成功したものはありませんでした。

こうして不信感が高まっていくなか、ペリー率いる黒船が浦賀に来航します。

大統領からの国書を携えてやってきたペリーを、幕府は1年後に返事をするとして一旦帰しますが、約束の期間となりペリーが再び来日するまで彼らは何の対策も立てていませんでした。

軍事的な圧力もあり、1854年に「日米和親条約」を締結。その後イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結んでいます。

さらに、1856年にアメリカ初代駐日領事として下田に着任したハリスは、将軍に通商条約の締結を強く要求。時の大老・井伊直弼は朝廷の許可なしに「日米修好通商条約」を結びました。

これにより江戸幕府はもちろん、経済も混乱します。

諸外国との貿易が盛んになるとその分国内の流通にも影響がおよび、安い海外製品の台頭や金の大量流出などによって、幕府の財政は悪化しました。

市民らにも多大な打撃を与え、国全体に他国を排斥せよという「攘夷(じょうい)」の兆しが強まります。

しかし相手は、多くの植民地を支配する列強の大国です。

諸藩は、日本の植民地化を防ぐべく開国し、朝廷との協調運動を進めようとする薩摩藩主・島津久光を筆頭にした「公武合体派」と、弱体化した幕府を打ち倒し、干渉してくる諸外国を排除しようとする長州藩をメインとした「尊皇攘夷派」の大きくふたつに分かれ、何度も衝突しました。

ですが薩長両藩は、それぞれがおこなった運動により諸外国の軍事力を痛感します。攘夷は不可能と察した両藩は、坂本龍馬の仲介のもと薩長同盟を結びました。

坂本龍馬は第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に政権を朝廷に返し、朝廷の下で慶喜も加えた諸藩による連立政権の樹立を進言します。これを受けて慶喜は「大政奉還」を宣言しました。

しかし長く徹底した監視のもと統治を続け、その末に弱体化した徳川が再び政治に介入することを良しとしない薩長は、坂本龍馬を暗殺します。(諸説あり)

その後、急進派公家の岩倉具視とともに主導権を掌握し、徳川抜きの新政府樹立のため「王政復古の大号令」が発せられました。

これにより長く続いた徳川による江戸幕府は幕を閉じ、明治の世が始まったのです。

 

年表で見る、江戸幕府の将軍一覧

 

 

  • 初代将軍  徳川家康(いえやす)1603年~1605年
     
  • 2代将軍 徳川秀忠(ひでただ)1605年~1623年
     
  • 3代将軍 徳川家光(いえみつ)1623年~1651年
     
  • 4代将軍 徳川家綱(いえつな)1651年~1680年
     
  • 5代将軍 徳川綱吉(つなよし)1680年~1709年
     
  • 6代将軍 徳川家宣(いえのぶ)1709年~1712年
     
  • 7代将軍 徳川家継(いえつぐ)1713年~1716年
     
  • 8代将軍 徳川吉宗(よしむね)1716年~1745年
     
  • 9代将軍 徳川家重(いえしげ)1745年~1760年
     
  • 10代将軍 徳川家治(いえはる)1760年~1786年
     
  • 11代将軍 徳川家斉(いえなり)1787年~1837年
     
  • 12代将軍 徳川家慶(いえよし)1837年~1853年
     
  • 13代将軍 徳川家定(いえさだ)1853年~1858年
     
  • 14代将軍 徳川家茂(いえもち)1858年~1866年
     
  • 15代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)1867年~1868年

 

 

鎖国のイメージを覆す!

一般的に江戸時代は鎖国政策をとり、一部を除いた諸外国との国交を断絶していたように思われていますが、その通説の真実をさまざまな史料をもとに解説していき、国防の観点から鎖国について知ることができる一冊です。

著者
松尾 晋一
出版日
2013-02-13

実は江戸時代を通して、常に対策が考えられていた異国船に関する問題。

鎖国していたとされる江戸時代にも、貿易はもちろん国防に関してもその時に応じてさまざまな対応がなされたことが分かる一冊です。

徳川幕府はもちろん、国防を担当した諸藩の対応など、あまり知られることのなかった鎖国の内情が垣間見れます。

敗者から見る明治維新

京都において大政奉還を宣言した一橋家出身の徳川慶喜、強い攘夷思想を持った孝明天皇、慶喜とともに朝廷を支配した会津藩の松平容保(まつだいら かたもり)、桑名藩の松平定敬(まつだいら さだあき)らにスポットをあて、王政復古の大号令がなぜ起き、倒幕という結末に至ったかを描き出します。

著者
家近 良樹
出版日
2014-02-11

倒幕は諸藩の総意でも薩長の藩論ですらなく、西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視らによってクーデターという形で進められたなど、これまでの幕府対多数の倒幕派という倒幕運動に関する思い込みを打ち消しつつも、激動の明治維新の流れを分かりやすく解説しています。

江戸幕府を創設した家康を社会派推理小説家、松本清張が描く

『砂の器』や『黒革の手帖』で知られる松本清張が、自身の敬愛する徳川家康の生涯を子供向けに描いた一冊です。確かな筆致で読者を惹きつけます。

著者
松本 清張
出版日
1982-09-30

多くの歴史好きを唸らせる確かな読みごたえと分かりやすさは子供向けだとは思えないほどです。

狸親父と呼ばれた家康のおおまかな生涯や不遇の時代から江戸幕府を開くに至るまで、またその人物像、政治感をさまざまなエピソードをまじえて描き出します。

いかがでしたでしょうか?華がありつつもどこか泥臭さを感じる、思惑にまみれた江戸時代。調べれば調べるほど興味が尽きません。一度はまれば抜け出せないことでしょう。ぜひ一度、はまってみませんか?

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