1575年に織田・徳川連合軍と武田軍が衝突した「長篠の戦い」。信長の「鉄砲三段撃ち」や、武田の「騎馬隊」などは聞いたことがあるのではないでしょうか。この記事では、戦いの概要と原因、三段打ちと騎馬隊の詳細、英雄として知られる鳥居という人物いついてわかりやすく解説し、あわせておすすめの関連本もご紹介します。
1575年5月、現在の愛知県にあたる長篠城に、武田勝頼率いる軍隊が襲いかかりました。その数なんと15000。長篠城は信州から三河の入口にあたり、ここを落とすことができれば、武田軍は自由に三河に侵入できるようになります。
この地を守っていた徳川家康は、なんとしても武田軍を阻止しなくてはなりませんでした。しかしこの時長篠城にいた兵は、わずか500。本拠地の浜松城にいた家康の手勢も5000ほどにすぎなかったのです。
そこで家康は、同盟関係にあった織田信長に援軍要請をします。5月14日、信長の30000にものぼる大軍団が三河に到着しました。
尾張を中心に勢力を広げていた信長にとって、武田の存在は脅威。そのため彼にとってもこの戦いは非常に重要なものだったのです。意気込む信長のこんな言葉が伝えられています。
「この説根切り、眼前に候」(武田の根絶は、目の前である。)
5月21日の朝、武田軍と織田・徳川連合軍との戦いが始まりました。両軍は三河の設楽原でぶつかったために「長篠設楽原の戦い」とも呼ばれています。
兵力では織田・徳川軍がはるかに上回っていましたが、武田軍は強力な騎馬隊が有名。家康もかつてこの騎馬隊を相手に敗れた経験があります。
しかし織田軍は、騎馬隊に対して3000丁とも言われる鉄砲を駆使し、およそ8時間にわたる激闘のすえ勝利を収めるのです。
武田軍は、勝頼の父である武田信玄が生きていた頃から、京都を目指して西へと進軍を続けていました。しかし1573年に信玄が急死し、進軍は頓挫します。
後を継いだ勝頼は、1574年に明知城や遠江の高天神城を落とし、1575年には足助城などを落城。そしてついに、京都へ向かうための大切な関門である長篠城に手をかけたのです。
しかし手薄だったはずの長篠城は、包囲はしたもののなかなか落とすことができません。徳川勢は人数こそ少なかったものの、200丁もの鉄砲を所有していたほか食料も豊富にあり、また周囲の地形も見方していました。
そのうち織田の援軍が到着し、戦いが大規模なものになっていったのです。
大河ドラマなどでもおなじみの武田の騎馬隊ですが、実際はどのようなものだったのでしょう。
その始まりは、武田信玄の家臣、飯富虎昌(おぶとらまさ)が騎兵のみからなる隊を編成したことにあります。「武田の赤備え」と呼ばれる朱色で統一した部隊で、相続で地位を得ることのできない各武将の次男たちで組織化された、戦における斬り込み隊でした。
虎昌が失脚後は山県昌景(やまがたまさかげ)が引き継ぎ、赤備えも継承していきます。昌景とともに、小幡信貞(おばたのぶさだ)と浅利信種(あさりのぶたね)も赤備えとして編成され、総勢1000騎にもなったといいます。この赤備えが非常に勇猛だったため、武田の騎馬隊に「最強」というイメージが定着していったようです。
長篠の戦いでも「三番に西上野小幡一党、朱武者にて入替り懸かり来る、関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行(てだて)にて、押太鼓を打って懸かり来る」(『信長記』から引用)とあるように、騎馬隊が攻め寄せたことが記録されています。
武田の騎馬隊に対して信長がとった作戦は、騎兵の突進を馬防柵でおさえ、動きが止まったところを鉄砲で撃つというものでした。その際、横3列に撃ち手を並べ、次々と入れ替わる「三段撃ち」を編み出したと言われています。
この長篠の戦いは、日本で初めて鉄砲が使われた合戦としても有名です。しかし、当時の鉄砲は一度撃ったら弾を込め直さなければならず、連発することができないとう欠点がありました。
その欠点を補うために、一発撃った兵は最後尾に下がって弾を込め、その間に次の列の者が撃つというように時間をかせいだことで、織田軍は絶え間なく射撃することができたのです。
徳川家の家臣だった鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という男がいました。詳しい経歴はわかっていませんが、長篠の戦いが起こった当時は30代後半だったといわれています。
彼こそが、武田軍の包囲をかいくぐって信長へ援軍を要請しに赴いた張本人なのです。
当時の長篠城は、武田軍に包囲されながらもなんとか防衛を続けていました。長期戦に持ち込もうとしていましたが、兵糧庫を焼失してしまい、あと数日以内に落城してしまう状況に陥ります。
岡崎城にいる家康に援軍の要請をしなければなりません。武田軍の目をかいくぐって城を抜け出すのは困難に思われましたが、この危険な役目を自ら買ってでたのが鳥居でした。
夜中に下水口から川を泳いで脱出し、翌日の午後には家康のもとへ辿りつきます。実はこの時、家康はすでに長篠城の現状を把握しており、信長に援軍を送ってもらう手はずを整えていました。
これを知った鳥居は、一刻も早く仲間に伝えようとすぐさま長篠城へ引き返します。しかし、行きと同じ経路で戻ろうとしたところ、武田軍に見つかり捕らえられてしまいました。
鳥居は城の前で磔にされ、「援軍は来ない、諦めて城を明け渡せ」と仲間に伝えるよう命令されます。彼はこれに従うふりをし、城前に立ちました。そして、「あと2、3日で援軍が来る。それまで持ちこたえよ」と叫んだのです。
その後鳥居は武田軍によってすぐさま殺されてしまいましたが、彼の報せを聞いた城内の者たちは奮起し、援軍が到着するまで長篠城を守りとおすことに成功したのです。
歴史上でも有名な武田の騎馬隊や、織田の鉄砲三段撃ち。しかし本書はそれらを否定します。
では、長篠の戦いとはいったいどのようなものだったのでしょうか?
- 著者
- 藤本 正行
- 出版日
- 2010-04-06
長篠の戦いで織田・徳川連合軍は大勝します。著者はこの勝因を『信長公記』に記された、戦いの陣形、地形、軍勢の規模などから探りました。
信長は戦術革命をしたわけではなく、緻密な作戦や周到な陣地の準備、豊富な資金源による大量兵器の投入など、従来の戦術の集大成をこの戦いにぶつけたのだと著者は語ります。
本書を通して戦いの全貌を見直してみてはいかがでしょうか。
本書の物語は、武田軍がなぜ長篠城を攻略しようとしたのかというところから、軍が設楽原に至るまでの過程、そして戦いの後の織田、徳川、武田がどうなったか、ということまで描かれています。
長篠の戦いの流れをわかりやすく読み取ることができる一冊です。
- 著者
- ["すぎた とおる", "中島 健志", "加来 耕三"]
- 出版日
- 2007-11-01
先に紹介した作品と同じく、この本でも武田軍の騎馬隊と、信長の鉄砲三段撃ちを否定しています。諸説を集めて描かれたコミックとなっていますので、歴史が苦手という方でも興味を持って読むことができるのではないでしょうか。
同じ著者の作品で『戦国人物伝 織田信長』、『戦国人物伝 徳川家康』というものもあります。合わせて読むことで、より理解が深まるでしょう。
過去の文献から歴史を考える書籍はたくさんありますが、本書のように科学的分析まで取り入れて歴史を考察している作品はそう多くありません。
数々の文献をもとに読み解かれた、興味深い歴史書です。
- 著者
- 平山 優
- 出版日
- 2014-07-22
著者は、古い文献では『信長記』や『三河物語』の他、『甲陽軍鑑』や『甫庵信長記』といった、長篠の戦いの資料としてはあまり取り上げられたことのないような文献も読み込み、再考しています。
ここで武田の騎馬隊についての考察もあるため、他の書籍の内容と比べてみるのも楽しいでしょう。
また古戦場から見つけられた鉄砲の弾の成分分析など、興味深い実証結果も満載なので、合戦を深く追求したい方にはおすすめの一冊です。
本書は武田勝頼について、長篠の戦いを中心にまとめたものです。
1575年に敗戦した勝頼は、後世の創作ではその後すぐに少ない家来や家族と放浪したすえ、自害する、というような描き方をされます。しかし実際に亡くなったのは1582年で、戦いの終了から7年もの歳月が流れています。
武田家にとって長篠の戦いはどのような意味があったのでしょうか。
- 著者
- 平山 優
- 出版日
- 2014-01-21
武田勝頼が信玄の後継者になるまでの事情から、織田・徳川領土に勢力を伸ばしていき、長篠の戦いに至るまで。そして戦の状況、戦後まで詳しく記載されているので、合戦の全体像をつかむのには最適な作品です。
勝頼についてもっと知りたいという方には、同じ著者が編集に参加した『武田勝頼のすべて』がおすすめです。さまざまな角度から研究されていますので、満足いく情報が得られるかと思います。
鉄砲を用いた信長の最新戦略の前に、血気はやる武田勝頼が負けたのか。諸説あふれる長篠の戦いについては、これからまだまだ新説が出てくるのかもしれません。