「摂政」と「関白」は歴史の本を読んでいるとたまに出てくる言葉ですが、わかっているつもりになって、つい流して読んでいませんか?この2つを正しく理解することが、難しく思える歴史の扉を開く鍵の役目をしてくれます。今回は似て異なる摂政と関白の違いを説明していきましょう。
摂政とは、天皇の継承の対象となる者が、幼少、女性、病弱などの場合、代わりの者に公務を任せることができる制度のこと、またはその役職のことをいいます。
61代の朱雀天皇の在位中、幼少であれば摂政がつき、成人であれば関白が置かれるのが慣例になってきました。日本で最初の摂政はあの聖徳太子であり、女帝である推古天皇を支えて中央集権国家の基礎をつくりました。
その後も皇族内で何度か摂政がおこなわれましたが、866年に初めて皇族ではない藤原良房が摂政になり、ここから藤原北家の摂関政治が始まります。
「外戚」という天皇の母方の親戚が一気に増えたのも藤原北家の時代の大きな特徴であり、政治の中心が武家に変わっていくきっかけになりました。
藤原道長は平安時代中期、966年に生まれました。父の兼家は一条天皇の摂政になりますが、道長自身は五男だったので、出世の道は遠くにありました。しかし、その後兄2人は酒や伝染病で病死。三男とは争いになりましたがこれに勝ち、左大臣になります。
天皇の母方の親戚関係である「外戚」には重きを置いており、自分の娘4人を次々と天皇に嫁がせて確たる地位を得ていきますが、摂政にはなるものの、関白は断りました。関白は天皇との人間関係が悪くなれば解任される可能性もあり、不安定な地位だったので避けていたとみられています。
三条天皇とは関係が悪く、原因は定かではありませんが失明寸前の病気にまで追い込み、最後には天皇の座から引きずり降ろしてしまいました。
晩年は道長自身も視力低下で目の前の人間の顔もよくわからないほどだったといわれますが、糖尿病を患っていたことが原因のようです。62歳でこの世を去っています。
関白とは、成人した天皇を補佐する役割のこと。摂政がそのまま関白になる場合が多いです。あくまでも政治の決定権は天皇であり、この点が摂政と関白で大きく異なります。
そのため、慣例として関白は太政官の会議には出席しませんでしたが、会議の内容を事前に知ることや関与できる内覧の権限を持っていたので、政治を左右させる大きな力を持っていたといえるでしょう。
関白は明治維新の際の王政復古の大号令で廃止となりましたが、長きにわたって天皇を支えた制度であり、さまざまな政治的策略にも使われてきました。
豊臣秀吉は朝廷の権威を利用するために、関白の制度を使ったという定説があります。
1582年に起きた「本能寺の変」で天下を取った明智光秀を討ち取ることで天下人となった秀吉ですが、農民出身の身分の低さから「征夷大将軍」になることはできませんでした。諸大名たちを従わせるには、それなりの肩書きが必要だったのです。
そしてそれこそが関白であり、制度的な意味の地位でいえば征夷大将軍よりも上になるので、大名たちを黙らせるにはちょうど良いものでした。しかしこちらも、簡単に手に入る地位ではありません。
朝廷は光秀を討ち取った秀吉に内大臣以上の昇進を考えましたが、それに絡んで二条昭実(にじょうあきざね)と近衛信尹(このえのぶただ)の2人が、どちらが関白になるかを巡って「関白相論」を起こします。
朝廷が秀吉にどうすればいいか相談すると、秀吉は自分を関白にすれば2人の争いは収まると提案し、漁夫の利を得るように関白の地位を手に入れたのです。1585年のことでした。
信尹の父の養子という形式をとり、藤原秀吉として関白になりますが、すぐに豊臣秀吉に名乗り直します。これにより、今まで藤原家の系譜で続いてきた関白の地位が豊臣に移ることになりました。
その後1605年に徳川家康の取り成しで、信尹も念願の関白に就くことができたので、先祖の藤原道長にやっと顔向けができたのでした。
「天皇の歴史」シリーズ3巻は摂政と関白をテーマにしており、文徳天皇から後冷泉天皇までを追いかけていきます。藤原北家が全盛期だった摂関政治の時代に焦点を当てた作品です。
天皇と摂関の関係は対立的であったともいわれてますが、本書では別の視点から、天皇にしかできなかったこととは何かを考えていきます。
- 著者
- 佐々木 恵介
- 出版日
- 2011-02-15
藤原良房から始まった摂関政治の時代ですが、藤原道長は天皇の外戚の地位を確たるものにしようとして、娘たちを次々に宮に送り込む作戦にでます。
ひとつ間違えば天皇の地位を揺るがすようなことになるかもしれないのに、なぜ宮中はそれを受け入れたのでしょうか。
歴史本ですが小説のような盛りあがりもあり、読みごたえのある一冊です。
藤原道長は自分の栄華を満月にたとえて詠んだといいますが、貴族たちを抑えて強大な権力を手に入れるまでの道程はどのようなものだったのでしょうか。
権力争いだけでなく、当時の庶民の暮らしや仏教の世界にも焦点を当てており、女房文学と呼ばれる『枕草子』『源氏物語』などが生まれた背景なども考察しています。
歴史を鋭い眼で見つめながら、ユニークな視点からも書かれた歴史本です。
- 著者
- 古瀬 奈津子
- 出版日
- 2011-12-21
摂政と関白の成り立ちがとても詳しく書かれており、これによって天皇中心の政権が終わりに向かっていく様子がわかります。時代の背景を丁寧に描くことで、制度の内容をより理解しやすくなっているでしょう。
歴史を鋭い眼で見つめながらも、簡潔な文章でわかりやすい一冊です。
平安時代の資料である『御堂関白記』は藤原道長によって書かれました。当時の貴族社会の様子を知ることができる貴重な資料です。
『御堂関白記』と、さらには藤原行成の『権記』、藤原実資の『小右記』を照らし合わせながら、人としての藤原道長を探っていきます。
- 著者
- 倉本 一宏
- 出版日
- 2013-05-20
たとえば妻が2人子供が15人がいたとか、感情の起伏が激しくよく泣いていたとか、糖尿の持病があったなど、藤原道長はこんなに人間臭い人物だったのかと驚くでしょう。
もちろん摂政になるまでの皇族との駆け引きも見せ場のひとつになっており、特に三条天皇との対立についてはなぜそこまで追い詰めたのかが、緊迫感のある文章で書かれています。
摂関政治というのは天皇以外の者が大きな権威を得ることになるので、武家の政略に利用されてきた歴史は否めません。藤原北家の政略結婚の全盛期でした。ご紹介した本で意外と知らない摂政と関白の違いについてより理解し、歴史に興味をもつきっかけになれば幸いです。