鎌倉幕府の第三代執権、北条泰時。彼が制定した武家社会の法律「御成敗式目」は、後の戦国大名たちの法律にも大きな影響を与えました。この記事では、日本で最初の武家法典となった御成敗式目の内容や制定して目的、そして北条泰時について分かりやすく解説していきます。
北条泰時(ほうじょうやすとき)の提案で、三善康連(みよしのやすつら)、斎藤浄円などを中心とした評定衆によって制定された武士のための法律です。
正式名称は「御成敗式目」ですが、貞永元年(1232年)に制定されたので「貞永式目(じょうえいしきおく)」とも呼ばれています。
内容は五十一条に分かれていて、源頼朝以降の武家社会の慣習と道徳が基本。この法律が有効なのは鎌倉幕府の御家人、その家人、老中、所領内の一般庶民です。
全内容のうち、十八条が領地関係の規定となっています。それだけ、武士にとって領地というのは大切なものだったのでしょう。具体的には、諸国の地頭は年貢を必ず荘園領主に納める、諸国に配置されている守護は皇室警護や犯罪人を取り締まる……などがあります。
御成敗式目が制定されるまでも、政治制度を記載した法律や律令は存在していました。しかしそれらを作ったのは公家や貴族たちだったので、武家社会となった当時の慣習や文化とは合っていなかったのです。
また、それまでの律令は漢文で記載されていました。漢文は十分な教養がないと読むのが非常に困難だったため、武士たちには実用的ではありませんでした。そこで北条泰時は、武士たちにもわかりやすい文体で記載した御成敗式目を制定したのです。
また1221年の「承久の乱」で上皇軍を倒し勢力を強めた幕府は、それ以降西国の方にも支配を広げていきます。その際、鎌倉幕府から派遣された役人と、地元の有力者や地元住民との間に土地をめぐる揉め事などが増加していきました。
さらに、その頃は天候不順が原因で「寛喜の飢饉」という鎌倉時代最大の大飢饉が発生。このように不安に満ちた社会情勢を変える目的もありました。
北条泰時は1183年、北条義時(よしとき)の息子として生まれます。叔母は鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝の妻、北条政子です。
北条家は鎌倉幕府の中で非常に勢いがありました。源頼朝が亡くなり、2代目将軍である頼家が跡を継ぎましたが、彼はあまり将軍としてふさわしい人物ではありませんでした。
そこで、権力を伸ばしていた北条家は1203年に執権として執権政治を始めます。初代執権は北条時政。その翌年、2代目将軍頼家は暗殺されてしまいます。
その後、3代目将軍実朝も親族によって殺害されてしまい、源氏の将軍は絶えてしまいました。これによって、鎌倉幕府は北条氏一族と御家人たちのものとなったのです。
その後、泰時の父である義時が執権の役職を継ぐと、幕府と上皇の間で争いが起こります。この1221年に起こった争いが「承久の乱」と呼ばれるもので、この時の幕府軍の総大将が北条泰時でした。
上皇の軍を見事に打ち破った泰時は、父である義時が亡くなった1224年に執権の職を継ぎ、政治の改革をおこなっていきました。
たとえば、政策を決めたり訴えを裁いたりする時は執権のみが判断するのではなく、評定衆や執権、連署という13人の役職の者たちで話し合う「合議制」を実施。これによって、鎌倉幕府の政治は非常に安定したものとなったのです。
さらに、武士のための法律「御成敗式目」を制定し、後世にも残る武家社会の新たな法律を作り上げました。
泰時は1242年、60歳で亡くなる時まで人々のため献身的に政治を執りおこないました。凶作で農民たちが飢えに苦しんだ時は自分の米を大量に分け与えるなど、その素晴らしい政治は後世に語り継がれ、政治家たちのお手本となっています。
御成敗式目と聞くと、「武家諸法度」を連想する方も多いのではないでしょうか。ここでは2つの法律の違いについて、簡単に説明していきましょう。
上述したように、鎌倉時代に北条泰時が定めたもので、武士たちを統率する法律です。
一方の武家諸法度は、1615年に江戸時代に第2第将軍である徳川秀忠が発布したもの。大名たちが幕府に反発しないように統制する目的で作られました。
江戸幕府は「大坂の陣」で豊臣家を倒してから、徳川の世がずっと続くように、そして豊臣家のような反発する家臣が出てこないように、あらかじめ配下の大名たちを厳しく取り締まろうとしたのです。
違反した人物は例外なく処罰し、見せしめにすることでより統制を強固なものにしました。3代将軍家光など、これ以降も代々内容は少しずつ修正され、250年以上続く江戸幕府をつくりあげていきます。
つまり御成敗式目は「武士のための」法律でしたが、武家諸法度は「徳川家のための」法律だったというわけです。
鎌倉時代をよく知ることができる『吾妻鏡』。この第10巻では、寛喜三年(1231年)から嘉禎三年(1237年)の出来事が時系列で記されており、北条泰時がおこなった「御成敗式目」の制定や、評定衆による合議制の確立など、鎌倉幕府の黄金時代について読むことができます。
- 著者
- 出版日
- 2011-04-01
日本史の授業で耳にしたことがある『吾妻鏡』。しかし、実際に読んでみたことがある人はあまりいないのではないでしょうか?
この本は、現代語訳されているので非常に読みやすい一冊となっています。日本史の授業で習った出来事が次々と出てくるので、夢中で読み進めてしまうでしょう。
『吾妻鏡』を読んで、あなたも鎌倉時代に思いを馳せてみませんか?
北条泰時という鎌倉幕府の名執権について書かれた人物伝。巻末には略系図と略年譜が載っているので、読みながら疑問に思ったことがあればすぐに確認することができます。
また、本文中に泰時の書状や鎌倉の地図なども挿入されているので、当時の様子を想像しやすくおすすめです。
- 著者
- 上横手 雅敬
- 出版日
- 1988-10-01
北条泰時は、人々のために素晴らしい政治をおこなった人物だと言われています。
「北条氏に強い非難を浴びせる史家も、泰時は例外だとする。」「彼が不正を嫌い、誠意ある政治を行ったことがやはり好評の原因であろう。」(『北条泰時』から引用)
この文章を見てもわかるように、泰時は素晴らしい政治家だったということが伺えます。
そんな彼が実際のところどのような経緯で執権という職に就き、どんな政策をおこなったのか……興味が湧いた方は、ぜひ、こちらの本で確かめてみてください。
日本中世史研究に画期的な業績をもたらした一冊。読者の強い要望から復刊したという、魅力的な資料集です。
- 著者
- 出版日
- 1955-10-08
北条泰時がおこなった政策のうち、最大の功績ともいえる「御成敗式目」が箇条書きに掲載されているので、どのような項目があるのか一目でわかるようになっています。
どれだけ優れた法律なのか、どんなことが定められているのか、この本を読めばきっと理解できるはずです。
源頼朝が作った鎌倉幕府は、波乱に満ちた代替わりで北条氏へと受け継がれていきました。その北条氏一族のなかでも、特に名執権だと後世に伝えられた泰時。日本史の授業でなんとなく学んだ記憶はありますが、あらためて見直してみると本当にすごい人だと感じるはずです。ドラマチックな鎌倉時代に生きた北条泰時、そして彼が制定した「御成敗式目」について、ぜひ知識を深めてみてください。彼の生きざまは、きっと私たちの生き方のヒントになるはずです。