誰でも名前は聞いたことがあるであろう北条政子。日本史の教科書でもおなじみですが、今回は教科書には載っていない部分も含めた彼女の生涯を紹介していきます。
1157年、北条政子は伊豆国の豪族の家に生まれました。父の時政が、平治の乱で敗れ伊豆に流されていた源頼朝の監視役になったことで、彼女は頼朝と出会い、婚姻します。
1180年、以仁王(もちひとおう)が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、全国の源氏が兵を挙げました。頼朝は石橋山の戦いで敗れますが、北条時政らとともに安房国で再度兵を挙げます。頼朝のもとには数万の東国の武士たちが集い、源氏ゆかりの地である鎌倉に居を定めました。
戦の間、伊豆に留まっていた政子も、鎌倉に移り住みます。頼朝は関東を制圧し、東国の主として鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになりました。
頼朝の弟である範頼と義経が平家を制圧している間、頼朝は東国の整備を進めます。政子も頼朝を助け、行事などに同席しました。また、長女大姫の後鳥羽天皇への入内の協議の際には、頼朝とともに京に上洛しています。
1199年に頼朝が急死すると、長男の頼家が家督を継ぎました。政子は出家して尼になり、尼御台と呼ばれるようになります。
若くして将軍となった頼家をサポートするため重臣たちによる13人の合議制がとられましたが、頼家は老臣との対立が絶えず、遊興にふけっていたそうです。政子はそれを諫めますが、聞き入れられなかったと言われています。
その後頼家が1204年に亡くなり、次男の実朝(さねとも)が将軍になりました。政子は病気がちだった実朝の回復を願って熊野詣をしています。その際、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母である藤原兼子と会談し、子がいない実朝の後継ぎ問題を相談していたようです。しかし、この実朝も1219年に暗殺され、政子は頼朝との間にもうけた2男2女の子どもすべてに先立たれてしまいました。
実朝の死後、政子は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願って京に使者を送りますが、上皇によって拒否されます。このため、頼朝と血縁関係のある摂関家の藤原頼経を第4代将軍として迎えました。頼経はまだ2歳であったため、後見である政子が将軍の代行をすることになり、政子は尼将軍と呼ばれるようになります。
1221年、後鳥羽上皇と幕府の対立が深まると、上皇が挙兵し承久の乱が勃発。上皇挙兵の知らせを聞いた鎌倉の御家人たちは動揺しますが、政子の「故右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い」の演説で動揺は収まったとされ、幕府はこの乱にも勝利しました。「故右大将」とは頼朝のことを指します。
1225年、病にかかった政子は69歳で死去しました。
1:頼朝との結婚は大反対された
政子の父の時政は平氏の家臣でした。このため彼は、当初政子と頼朝の結婚に反対しており、夜の山道を雨をしのぎながら頼朝に会いに行ったという記述が残っているそうです。長女大姫の出産を契機に、時政は2人の結婚を認めたということです。
2:夢買いをして頼朝と結ばれた
『曽我物語』には、政子の妹が奇妙な夢を見たことを政子に話し、政子はそれは不吉な夢だから自分に売るよう勧め、その勧めどおりに妹が政子に夢を売った、との逸話があります。
当時は、夢を売るとその夢の災いや吉兆が転嫁される、という考えがありました。政子は妹の夢が吉夢だと知って彼女の夢を買い、その夢のとおりに後に幕府の将軍となる頼朝と結ばれた、とされています。
3:頼朝の浮気相手の家を壊した
当時は一夫多妻が一般的で、頼朝は政子が妊娠するたびに愛人をつくっていました。亀の前を寵愛した際には、近くに呼び寄せて通うようになりましたが、これを知った政子は激怒し、彼女が住んでいた屋敷を打ち壊しました。さらに、その屋敷を提供した御家人も流刑にしています。
4:子どものために頼朝も非難した
政子と頼朝の長女大姫は、源義仲の嫡男である義高と婚約していました。しかし、義仲は平家を破って入京したものの京の統治に失敗し、頼朝の命によって討たれてしまいます。
頼朝は禍根が残らないよう義高を殺害しますが、これを知った大姫は、悲嘆のあまり病に伏せってしまいました。政子は、義高を殺害したせいで大姫が病になったと憤り、頼朝に詰め寄った結果、頼朝は義高を討った者をさらし首にしました。
5:静御前に同情的だった
平家滅亡後に頼朝と対立した義経。その愛妾、静御前が捕えられて鎌倉で白拍子の舞を披露した時、静御前は義経を慕う歌を詠いました。これに頼朝は怒りますが、政子が「昔の自分の心情と同じだ」と頼朝をなだめ、逆に褒美を与えさせます。
また、静御前は義経の子を身ごもっており、頼朝は「女子なら生かすが、男子なら殺す」と命じていました。生まれたのは男子でしたが、政子は子の命を助けてほしいと頼朝に懇願しています。しかしその願いは叶わず、憐れんだ政子は静御前に多くの宝物を与えました。
6:父にも厳しく対応した
実朝が3代将軍となると、政子の父である時政が初代執権の座に就きました。しかし時政とその妻の牧の方が、実朝を廃して娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にたてようと画策します。
政子は義時と協力して、この陰謀を阻止します。そして時政を出家させ、伊豆に追放してしまいました。
7:朝廷に叙階されていた
1218年に京で藤原兼子(けんし)と会談をした政子ですが、彼女の斡旋で政子は従二位に叙階されています。
北条政子のイメージが一変する一冊です。女として、妻として、また母として生きた彼女の生涯を垣間見てみませんか?
- 著者
- 永井 路子
- 出版日
本書は頼朝との出会いから「尼将軍」として活躍するまでの半生を描いた小説です。
北条政子については、「御台所」や「尼将軍」といった政治的側面から語られることがほとんどです。しかし本書では、頼朝に恋をし、常に自分自身の考えと向き合っていた人間的側面に焦点が当てられています。
男性優位の武家社会で、政子はいかにして権力を掌中に収めたのでしょうか?
- 著者
- 童門 冬二
- 出版日
- 2008-11-04
本作の著者は、北条政子を「日本の歴史上で初めて、権力の中枢にあって自ら組織を統率した女性」と位置付けています。そのうえで、鎌倉幕府の草創期を政子の視点から描きました。
混乱の世で、しかも男性優位という逆境ともいえる境遇にいた彼女がいかにして権力の階段を上っていったのか、現代に通じるところも多々あり、興味深く読むことができるでしょう。
詳細な史料分析にもとづいた、北条政子と、彼女と同時代に生きた女性の生きざまに迫った一冊です。
- 著者
- 田端 泰子
- 出版日
- 2003-11-01
歴史学者である著者が、詳細な史料分析にもとづいて北条政子の人生を浮き彫りにしています。政子の政治的役割だけでなく、人間的な部分も史料から読み取って描き出しているのは、さすがと言えるでしょう。
本書では、政子をとおして、彼女が生きた中世封建時代の女性についても描き出されています。そこからは、従来のイメージとは異なる女性像が見えるのではないでしょうか。
草創期の幕府と朝廷の関係を、多様な角度から眺めた一冊です。
- 著者
- 関 幸彦
- 出版日
- 2009-12-01
この「日本史リブレット」シリーズは、歴史学者による専門的な作品ですが、ページ数も少なく、専門外の人でも簡単に読めるのが特徴です。
時政と政子親子が、どのようにして当時の状況に対処したのか、そのなかでどのようにして「鎌倉」の時代を創りあげたのか……鎌倉以前からある朝廷の権力を源泉としながらも、自分たちの権力を構築していく過程が、2人をとおして描かれています。
歴史の授業の理解を深めるのにもってこいの一冊です。
いかがでしたか?今までとは違った、北条政子の姿が見えてきたのではないでしょうか?