鎌倉時代に始まり、荒れ狂う戦国時代に関ヶ原、その後の徳川による江戸時代まで、鎮西の地でその名を轟かせ続けた島津氏。その16代当主として、智略と勇猛さ、そして兄弟との堅い絆により島津の地位を確固たるものにした島津義久の生涯にせまります。
島津義久は1533年、薩摩国の伊作(現在の日置市)において、15代当主の貴久の嫡男として生まれました。彼が生まれた前後の時代は世にいう「戦国時代」の真っ只中。鎌倉幕府の御家人である初代忠久の頃から長きに渡り続いてきた島津氏も、下克上が世の常となった時代の波の中では、その力はやや衰えていたといいます。
しかし、島津中興の祖として名高い祖父の忠良と、父の貴久の手によって一族は建てなおされ、新たな薩摩島津氏の歴史が切り開かれていました。義久がまだ幼い頃の薩摩国では、島津の力はまだ中南部でしか勢力を発揮しておらず、父の貴久は領土拡大と平定を目指し、幾度となく戦を行いました。
そして、一族繁栄を実現させる後継者としての期待を背負っていた義久は1554年の岩剣城の戦いにて、3人の弟たちと共に初陣を飾ります。1566年に家督とともに父や祖父の意志を継いだ後は、弟の義弘らとともに、さらなる領土拡大に乗り出しました。その勢力はやがて九州全域まで影響をおよぼすまでになります。
豊臣秀吉の九州征伐によって統一目前でその夢を絶たれますが、和睦により領土没収を免れるなど、その智略によって数々の局面を乗り越え、島津の魂を守り抜きました。
1:幼い頃から冷静沈着だった
戦国時代の島津といえば、関ヶ原での戦いぶりが知られる義弘の名を挙げる人も少なくないでしょう。しかし、戦場での弟たちの活躍の裏で島津氏の土台を支えていたのは、他でもない義久でした。
幼い頃、まだ日本に伝来して間もない火縄銃を、戦で使用するべきか否かを祖父の忠良に問われた義久は、まだ実用的でないとはっきり否定します。彼のその幼いながらも冷静な判断力は、忠良が総大将の器にふさわしいと評価するほどでした。
2: 奇襲により大友宗麟を敗った
九州統一の際に大きな壁として義久の前に立ちはだかっていたのは、キリシタン大名として有名な大友宗麟でした。実はこの両氏はかつて良好関係にありましたが、島津の日向制圧により伊東氏が大友氏を頼ったことで、関係は悪化の道をたどっていました。
1578年の耳川の戦いにおいて、両氏はついに激突します。この戦いは島津の明暗を決定付けるほど大きなもので、義久の兵力は大友側に対して劣っていたのにも関わらず、相手側を壊滅するまでの勝利を挙げました。その一端を担ったのが「釣り野伏せ」と呼ばれる、義久によって考案された戦法です。
これは、敵を左・右・中央から密かに囲み、中央が敗走を装って引いたところに攻め込んだ敵を左右の伏兵に打たせるというものでした。
3:家康を信じなかった
関ヶ原の後の家康との交渉の際、義久は家康と何度も書を交えていますが、上洛(京都に来ること)を要請した家康の意向に反し、彼は直接交渉を行おうとはしませんでした。これは、当初から穏便に事を運ぶつもりでいる家康側の思惑と裏腹に、家中で家康裏切りの噂が流れていたことによる、義久の邪推でした。
この態度を不満に感じた義弘の子の忠恒は、義久や家臣の反対を押し切って家康のもとに参じます。これを義久からの使者ととらえた家康は、結局、本人との対面もないままに、領地安堵の起請文を義久に送りますが、終始会おうとしない義久の態度に疑問を持っていたそうです。
4:天下の秀吉にも徹底抗戦した
島津氏・大友氏・龍造寺氏による九州地方の三すくみは、当時の天下人である豊臣秀吉も警戒視するもので、大友宗麟が敗走後に助けを求めたことがきっかけとなり、秀吉による九州征伐が始まってしまうのでした。
1584年の沖田畷の戦いで龍造寺氏の制圧に成功し、九州統一まであとわずかという局面にあった義久は、大友氏との講和を命じた秀吉に背きます。
これにより、大軍を率いて九州に侵攻した秀吉軍に、各地の大名たちはいっせいに帰参してしまいました。孤立化する島津軍は総崩れとなり、元の薩摩の地まで追いやられてしまいますが、本来ならお家取り潰しとなる状況の中、義久の和睦交渉という英断によりそれらを免れたのでした。
5:関ヶ原でも改易を免れた
秀吉による九州征伐の際に、徹底抗戦を続けたことで2人の弟を失った義久に残されたのは、兄弟で最も武勇に優れた義弘でした。彼は秀吉にも徳川家康にも評価され、関ヶ原の戦いでは当初家康の援軍として参加するはずでした。
しかし、家康の家臣にそれを拒まれたことで、西軍に寝返ってしまいます。義弘のこの行動と、関ヶ原の西軍の敗北により、義久はまたも窮地に立たされますが、彼は家康に対する弁明と交渉に奔走し、改易を免れました。
島津義久、義弘、歳久、家久という、最強と謳われた島津四兄弟の功績をたどった一冊です。
彼らは祖父の忠良によりそれぞれの個性を認められ、成長した後も適材適所の役割を果たし、島津の地位を確固たるものにしました。
- 著者
- 栄村 顕久
- 出版日
- 2016-11-29
忠良によると、義久は総大将の才徳を持ち、義弘は勇猛、歳久は合理的な策士、家久は軍法戦術に優れるという、それぞれ違った武士としての長所を持っていたといいます。
そして忠良の予想通り、彼らは義久による統治時代に、九州統一を目指して協力し合いましたが、残念なことにその野望は秀吉の手によって打ち砕かれ、その際歳久と家久のは命を落とすことになってしまいます。
本書では、その功績をしばしば取り上げられる義久と義弘に加え、志半ばで生き絶えた末弟2人に関しても掘り下げられているため、それぞれの魅力を堪能できることでしょう。
島津四兄弟の中で最も有名な武将といえば、次男の義弘のことでしょう。戦場での活躍も数多く、その実力を秀吉や家康にも認められていました。彼に関する逸話は華やかで、史実かどうか疑わしいものも存在しますが、それでも現代の私たちの心を引きつけるには充分なものばかりです。
しかし、そんな彼の影で、実は総大将として島津の血を守り抜き、智略家というにはあまりに強気な交渉術によって時の天下人にも屈しなかった勇猛な人物がいました。それが義久です。
- 著者
- 桐野 作人
- 出版日
- 2005-07-01
大胆さと冷静さを兼ね備えた彼の政治力は、義久統治の時代はもちろん、島津史上で有名な幕末の斉彬や久光たちにも引き継がれたことは言うまでもありません。
本書は、その義久の幼年期から最期にいたるまで、歴史の影に隠れていた彼の生涯の謎を知ることができる貴重な一冊といえます。
九州戦国時代と関ヶ原の戦いを生き抜いた島津四兄弟の生き残りである、義久と義弘に焦点を当てた作品です。
関ヶ原の戦いで孤立しながらも、決死の覚悟で敵中突破した義弘の「退き口」の話や、自らは弟の援軍要請にも一切答えず、天下分けめの戦ではノータッチを貫くも、義弘の属した西軍敗北の際には島津を守り抜くために暗躍した義久の話など、対照的な素質を持った2人の絆について綴られています。
- 著者
- 片山洋一
- 出版日
- 2017-02-07
戦国時代の兄弟は、時にその命を奪い合うこともありましたが、本書からは「兄弟はどこまでいっても兄弟だ」と思えるような、義久と義弘による絆を感じることができます。
小説仕立てなので、歴史の苦手な人にもおすすめの一冊です。
島津家の当主を義弘とした小説で、当時の武将たちの性格が個性豊かに描かれたエンターテイメント性の高い作品となっています。
たとえば「智将」として知られる義久の性格は、嫉妬深くて器が小さいという、他の作品では見られない描かれ方をしています。ご自身が持っていたイメージと比較しながら読むのも楽しいかもしれません。
- 著者
- 池宮 彰一郎
- 出版日
九州征伐以降、敵対していた秀吉にもその才覚を認められ、朝鮮への進軍にも加わった義弘。そんな行動的で華やかだったを彼に対し、嫉妬をする義久の人間味あふれる姿には親がもてます。
ここでは、義久以外の武将に関する「もしかしたら」の物語が描かれているので、史実を淡々と追求するよりも、彼らを身近に感じることができるでしょう。
いかがでしたでしょうか。生涯華やかな表舞台に立つことをせず、島津の総大将として影でその政治を支えた島津義久。彼の、時にしたたかな、絶対に家を守り抜くという信念があったからこそ、江戸時代が崩壊し武士の世が終わった近代に入っても島津の血脈は柔軟に形を変え、引き継がれていったのかもしれません。