蒙古襲来!鎌倉幕府がモンゴル帝国から攻撃を受けた事件「元寇」。モンゴルのチンギス・カンの血を引き継ぐフビライは日本の支配を企み、6度に渡り使者を派遣してきますが、鎌倉幕府は相手にしません。そしてついに、日本の歴史を揺るがす戦いが始まってしまうのです。
鎌倉時代の中期、モンゴルの軍勢が、属国だった高麗を拠点に2度日本に攻め込んできました。この事件が「元寇」であり、「蒙古襲来」とも言われています。
「元寇」というの言葉は、モンゴルの国号をフビライ・ハンが「大元」としていたことと、侵略を意味する「寇す」(あだす)という単語が由来しています。
フビライは高麗人から、かつて遣唐使というものがあり中国と日本が交流していたことを聞き、またマルコ・ポーロの『東方見聞録』でジパングには大量の金があることなどを知って、日本に興味をもちました。彼はそこから未到着のものも含めて6回も使節を送りますが、日本を服属させることはできません。
そしてついに、武力行使に踏み切ります。
1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」の2度にわたり侵攻を試みてきますが、鎌倉幕府は北条時宗を執権に就任させてこれに挑み、見事に勝利しました。
フビライは同じころ中国の南宋も攻めていましたが、当初は地形の関係もありうまくいっていませんでした。彼は南宋の通商国を落とす作戦も考えていて、これも日本を支配したかった一因とされています。(ただし実際に日本へ攻め入るころには、南宋にほぼ勝利していました。)
また『高麗史』によると忠烈王が日本侵攻を推したと書かれており、それがフビライの日本への執着を強めたのではないかという説もありますが、はっきりとした侵攻の理由は不明です。
1274年11月、モンゴルは「文永の役」と呼ばれる1度目の侵攻を開始しました。元・高麗連合軍は、高麗に伝わる記録でおよそ4万の兵を率いていたとされており、軍船も約900艘と、かなり大規模なものでした。
長崎県の対馬へ攻め入り大虐殺がおこなわれます。日蓮はその惨状を『日蓮書状』に残し、また日本人の子供200人が捕らえられ、高麗の忠烈王に献上されたとも伝えられています。
その後元軍は、壱岐島、肥前沿岸にも侵攻を続けていきますが、日本軍勢は博多に集結。そこから壮絶な戦いがくり広げられました。
戦況は元軍が優性でしたが、上陸していた彼らが1度船に戻った際に「神風」と呼ばれる暴風雨が起こり大変な被害を被ったため、元軍は撤退せざる得ない状況になります。
この文永の役での元軍の被害は、総数13500人余りと推測されています。
「弘安の役」は1281年6月におこなわれ、14万とも15万とも言われる元軍が日本を襲います。またも対馬、壱岐島を攻め、博多湾へ侵入、鷹島沖での海戦など戦いが続き、鎌倉幕府はかなり苦しい立場に追い込まれます。
しかし、ここでまたしても「神風」が吹き、元軍に大きな被害を与えました。この時の神風は台風だったと言われており、彼らの軍船はひとたまりもなかったそうです。
これにより元軍は撤退しますが、日本軍は御厨海上合戦として追撃をしかけ、完全に追い払いました。
元軍で無事に帰還することができたのは全軍の1割から4割とされており、海軍の戦力としては60〜70%を失ったとみられています。
また高麗はこの敗戦で国の財産をかなり使ってしまい、飢える民衆も増え、一気に情勢が悪化していきます。
鎌倉幕府も、元寇で勝利したものの御家人たちに恩賞を与えなかったため、不満が溜まり、1333年の幕府滅亡に追い込まれていくのでした。
神風は本当に吹いたのか、または神風がなくても日本は勝利することができたのではないか、と近年では言われています。
気象図のような記録が残っているわけではないので真偽のほどはわかりませんが、元軍の被害は船自体に問題があったという説もあります。高麗はなけなしの財産と人力を使い、短期間で約300艘の船を作りあげましたが、長い航海や激しい天候に対して耐えられるものを造船できたかというと、疑問が残るものでした。
いずれにしても、日本はこの戦いに苦戦を強いられていたので、何かしらの奇跡が味方してくれたのは間違いないと考えられます。
鎌倉幕府にとって蒙古軍の襲来はこれまでにない脅威であり、御家人や民衆のすべてに大きな影響を及ぼした一大事件でした。
幕府内の権力争いも予断を許さない状況で元寇が起こり、彼らは執権として北条時宗を就任させて事態の収拾を図ります。この困惑の状況に時宗はどう動き、絶大な力を持つモンゴル帝国とどのような手段で立ち向かったのでしょうか。
- 著者
- 網野 善彦
- 出版日
- 2000-12-01
日本から見た元寇だけではなく、蒙古側の情勢もしっかりと考慮しながら、歴史を見直します。そこから、史実にはないある大きな要因を本書では推測し、検証・追求しているのです。
鎌倉幕府とモンゴル帝国の合戦的な面にだけ焦点を当てているのではなく、当時の農村や漁村などの社会問題にも触れつつ、元寇を切り抜けた後の鎌倉幕府の滅亡までを、作者の独特な着眼点を活かして描いています。
神風は本当に吹いたのか?という元寇の1番気になる疑問から本書ははじまります。作者は鎌倉時代後期につくられた絵巻物『蒙古襲来絵詞』には、暴風雨は描かれていないと指摘するのです。
当時の日本は、北条時頼が幕府謀反を企んだ藤原頼経を京に追い払い、僧である日蓮は国難を予言しながらも幕府からの弾圧を受けていた状況でした。鎌倉幕府自体も、何か大きな波瀾を予感させる流れのなかにいたのです。
そんな時、元軍が襲来して、日本は大きな災難の渦に巻き込まれていきます。
そこで時頼の息子である時宗が、幕府の執権として戦っていくのです。
- 著者
- 海音寺 潮五郎
- 出版日
- 2008-02-04
作者の海音寺潮五郎は、本書の前にも元寇を描いた『蒙古来たる』という作品を発表しています。テーマは同じではあるものの、本書の方がより時代背景などを細かく描いていて、まず元寇について詳しく知りたい方はこちらを読むのがおすすめです。
歴史小説らしい壮大なスケールと魅力的な登場人物の人間模様を存分に書くことで、読みごたえのある作品になっています。
モンゴルの英雄であるフビライは、なぜ日本に狙いを付けたのでしょうか。そこには、富だけではない別の理由がありました。日本は、世界を脅かしてきたチンギス・ハンの血を受け継ぐ一族の標的となったのです。
ついに強大なモンゴル騎馬軍団と鎌倉武士団の必死の戦いが始まります。日本史上、最大の国難ともいえる元寇を、ミステリーの要素も交えて書きあげた歴史小説です。
- 著者
- 伴野 朗
- 出版日
河野水軍の来住三郎太を主人公に、元寇を描いた史実とフィクションを交えた作品。ストーリーのまとまりがよいため読みやすくなっています。遊び心も交えて歴史を楽しむことができるでしょう。
元寇を軸として、当時の鎌倉幕府や日蓮の話はもちろん、敵であるフビライの複雑な背景も書きながら物語は展開していき、クライマックスを迎えていきます。
歴史を見る限り、元寇はそれに関わった国々を繁栄させることはありませんでした。他国の侵略を続けてきたモンゴル帝国でさえ滅亡する時が訪れ、鎌倉幕府も戦では勝利したものの幕府自体が終焉を迎えてしまいます。なかなか切ないものも残る歴史の一幕でした。