桶狭間の戦いは織田信長の名を天下に示した合戦であり、日本三大奇襲のひとつといわれました。しかし、近年では奇襲ではないという説が出てきて、歴史の定説がまたひとつ覆される可能性もあり、歴史界を大きく揺るがしています。
1560年6月の「桶狭間(おけはざま)の戦い」は日本三大奇襲もしくは日本三大夜戦とも呼ばれる歴史上で有名な合戦のひとつです。
駿河の今川義元(いまがわよしもと)は、父の代から続く東海地方の勢力を引き継ぎ、さらなる領土の拡張を狙っていました。
一方の織田信長は、父である信秀(のぶひで)が病死したことで、織田大和守家や織田伊勢守家、弟の信行など身内の抗争が相次いで起こり、これを倒すことで尾張を治めたばかりでした。
今川義元は、諸説ありあますがおよそ2万5千以上の兵を集めて織田信長との戦さの準備をし、ついに尾張に向かって進軍を始めていきます。
信長は当初まったく動揺せず、敵の兵が迫るなかでいびきをかいて寝ていたとの逸話もありますが、名古屋の大高城に圧力を掛けていた丸根砦と鷲津砦に兵が攻め込んだという一報を聞くと、即座に行動を開始します。
実は信長は、今川勢の松平元康が大高城に大量の食料を運び込んだという情報を先に入手していたので、これで両砦が攻撃を受ければ、沓掛(くつかけ、現在の長野県軽井沢)から義元が大高城に入ってくることが確実になると考えていたのです。
そして、大高城に辿り着くには桶狭間と呼ばれる長く狭い道を通るため、信長はここに勝機ありと策を練っていたのでした。
信長たちが桶狭間に辿りつき、戦闘の配置に着くまでは多少の時間がかかります。農民に化けた信長勢が近づいて今川家を褒めまくり、信長の悪口をいいながら酒や食事を振舞いました。
さらに天も信長の味方をするように突然の豪雨が降り、今川軍は足止めをされ、視界も悪く織田軍が迫りくるのがわかりませんでした。
「かかれ!」という信長の号令とともに今川軍に一斉に襲いかかり、逃げまどう兵の先にいた今川義元を見つけ、毛利新助が一気に討ち取ります。
これにより、織田信長の名は天下に知られることになり、桶狭間の戦いも歴史上の語り草になる名合戦として名を残すのでした。
ここまで定説といわれる桶狭間の戦いを説明してきましたが、奇襲には疑問が持たれることも多く、たくさんの歴史家が諸説を唱えています。
「正面攻撃説」を簡単に説明すると、尾張侵攻の際に今川軍は丸根砦と鷲津砦を落として油断しており、信長の動きに不注意だったことや、突然の豪雨で視界が悪くなり雨があがった後に気づいたら織田軍がすぐ近くにいて、まさかの正面攻撃を受けて今川軍が敗北したという説です。
正面攻撃か、奇襲攻撃かの判断をするのに大きな鍵となるのが、2冊の歴史書『信長記』と『信長公記』になります。
本記事で後ほど紹介する『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』の作者、藤本正行は奇襲説を否定しており、たくさんの歴史家や歴史ファンに衝撃を与えたのです。藤本は『信長公記』の方が信頼性が高いとして「正面攻撃説」を唱えてきました。
『信長記』は江戸時代初期に書かれたものであり『太閤記』の作者でもある小瀬甫庵(おぜほあん)の著書ですが、このなかで桶狭間の戦いを奇襲作戦として記しているため、定説として根づいてきました。
一方、『信長公記』は織田の旧臣である太田牛一が信長の幼少時代から本能寺の変までを書いたもので全16巻の内容になり、そのなかで信長は中嶋砦より出陣したという一文があります。中嶋砦から桶狭間山までを地理的に考えれば正面攻撃になるのが妥当になるのです。
歴史家たちは『信長記』と『信長公記』の共通点と矛盾点を読み解き、時代背景と照らし合わし、さらには他の史料からのヒントなども探しながら「桶狭間の戦い」の真実に挑んでいるのでした。
この桶狭間の戦いには、あの徳川家康も実は参戦していました。大高城に大量の兵糧を運び込んだ人物、松平元康が後の家康だったのです。
家康は実は非常に複雑な子供時代を送っており、父の松平広忠(まつだいらひろただ)は、わずか6歳の家康を今川家への人質として駿府(静岡)に送っています。
妻の於大の方(おだいのかた)の実家の水野家が織田家と同盟を結んだため、今川家に庇護されている立場の広忠は於大の方を離縁して、家康を今川家の人質として手離したのでした。
ところが広忠の親族の裏切りで家康は織田信秀(信長の父)に売られてしまいます。その後、今川義元によって人質交換の交渉がおこなわれ、家康は今川家に仕えることになるのです。
桶狭間の戦いにより義元が倒れた後に、1度は自害を覚悟しますが、大樹寺の登誉天室(とうよてんしつ)に諭されて天下を変えるために生きることを決意し、今川家からの独立を果たしてついには織田家と同盟を結ぶのでした。
織田信長はもちろん、後の豊臣秀吉である木下藤吉郎、徳川家康となる松平元康などお馴染みの登場人物が個性豊かなキャラクターとして描かれています。
- 著者
- ["すぎた とおる", "やまざき まこと", "加来 耕三"]
- 出版日
- 2008-01-01
本作では、まるでドラマの俳優のハマリ役のように作画によるキャラクターがその役にぴったり当てはまっています。特に今川義元の悪役ぶりを見事に描くことで、物語の軸をしっかりとさせ、ほかの登場人物を引き立てているのです。
ビジュアル感を重視してコマ割りも大きめで迫力を出し、コミックならではの演出を活かしている本書。解説が随所に入りますが、ストーリーを邪魔しないようにバランスを考慮しているので、読み手が物語を楽しみながら学ぶことができる構成になっています。
なぜ、織田信長と今川義元は「桶狭間の合戦」にこだわったのでしょうか。義元にとっての尾張侵攻は領土拡大という意味だけでなく、経済的にも意味をもったものでした。本作は戦国時代の謎を経済の立場から検証していきます。
武田軍団の天下を取れなかった理由や、現代でいう高度経済成長を生んだ信長のデフレ政策など、作者独特の着眼点で歴史を読み解いています。戦国時代の武将を経済の視点から見ているため、歴史上の動きや合戦の理由がリアルに伝わってくる作品です。
- 著者
- 武田 知弘
- 出版日
- 2014-06-03
作者は経済大学を中退するも大蔵省に勤務し、バブル後の日本経済をしっかり見つめてきました。それだけに歴史を経済の視点から追いかけているので、現代人にも伝わりやすい内容になっています。
お互いが天下を取るために荒々しい戦に明け暮れた印象が強い戦国時代ですが、信長は楽市楽座などの経済的な才能も発揮していますので、そこには領地の文化や経済を発展させようとする動きも目にすることができるのです。
本書を読むと戦国武将たちの現代とも共通するような経済事情にふれることができます。
織田信長は戦の天才であり、今川義元は愚将であるという通説は本当なのかという疑問、また信長は迂回して攻撃をした奇襲ではなく、正面から堂々と義元軍を撃退したなど「桶狭間の戦い」を定説から離れて検証しています。
『信長公記』をもとに作者が長きにわたり提唱してきた「正面攻撃説」を解説した書籍です。「迂回奇襲説」は『信長記』に書かれたものを定説としてきたものですが、これには創作による演出が多く、信長の旧臣である太田牛一の『信長公記』の方が史実であるとして、奇襲攻撃を否定しています。
- 著者
- 藤本 正行
- 出版日
- 2008-12-06
本書は「正面攻撃説」の第一人者と言われる藤本正行の代表作のひとつです。奇襲攻撃の否定の考え方はは最初は賛否両論を巻き起こしましたが、近年では奇襲攻撃に対する矛盾点が多く指摘され、正面からの攻撃だったという見方も増えてきました。
一冊まるごと「桶狭間の戦い」について書かれた作者の熱意が込められた作品であり、内容もまとまっていて読みごたえがあります。
桶狭間の戦いは織田信長を有名にした合戦ですが、後の徳川家康である松平元康の人生に大きな影響を与えました。正面攻撃か奇襲攻撃なのかについては、はっきりとした答えは出ておらず謎は残っていますが、まさに戦国時代のターニングポイントだった戦いであったことは間違いないようです。