1868年、新政府軍と旧幕府軍が初めて武力衝突したのが、「鳥羽伏見の戦い」です。その後の政権にどんな影響を与えたのでしょうか。この記事では、開戦までの背景と原因、戦時中の状況、戦後の影響、そして理解を深めるための本もあわせてご紹介していきます。
1868年の1月3日から6日、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、15代将軍徳川慶喜を擁する旧幕府軍が戦いました。これを「鳥羽伏見の戦い」といい、1869年6月に終結する「戊辰戦争」の初戦になっています。
新政府軍の兵力が4000~5000人、旧幕府軍の兵力が約15000人だったといわれています。
慶喜は病と称して実際には参戦せず、大阪城に留まりました。
1854年の開国以来、薩摩藩と長州藩は積極的な攘夷運動をしていました。その一方で、1863年の薩英戦争(薩摩藩とイギリスの戦い)や、下関戦争(長州藩とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの戦い)を経て、日本と諸外国の国力の差を思い知ります。
その後は海外の技術や武器を積極的に取り入れて、倒幕運動へと舵取りを変えていきました。
これに対して幕府は、「長州征討」と銘打って大軍を挙げて武力侵攻しましたが、近代兵器を取り入れていた長州藩に惨敗。これにより、反幕府勢力の勢いが増していきます。
1867年、薩長両藩は武力倒幕の方針を固め、公家の岩倉具視の画策で「討幕の密勅」を手に入れました。実はこれ、朝廷も天皇も関係していない偽の勅書だったのですが、この情報を得ていた将軍・徳川慶喜は、翌日に大政奉還。国政を朝廷に返し、受理されました。
慶喜は武力倒幕を避けるため、徳川の勢力を保ったまま、天皇のもとで要職に就こうとしたのです。
大政奉還で幕府がなくなったことにより、倒幕の大義名分が消えたものの、政治自体は旧幕府時代のままでした。薩長両藩としては、これでは意味がありません。
薩摩藩の西郷隆盛は浪人を募り、500人の浪士隊を組織して江戸で挑発行為を始めました。勤皇活動費と称して強盗や略奪をくり返し、捕吏に追われると薩摩藩邸に逃げ込むのです。あげくの果てに、庄内藩の警備屯所に銃弾を撃ち込みました。
すると1867年12月、庄内藩が主力になって、今度は江戸の薩摩藩邸の焼き討ちをおこないます。
このころ慶喜は、新議会で中心的な役割を担うため大坂城にいて、穏便に政権移行を図ろうとしていました。ところが薩摩藩邸焼き討ちの知らせに一気に場が好戦気分になり、薩摩藩を討とうとする機運が高まるのです。
こうして、慶喜を擁した旧幕府軍と、薩摩藩を中心とした新政府軍の戦争が避けられなくなり、両軍とも京都に向かって兵をあげ、鳥羽伏見の戦いが始まりました。
【戦闘開始】
戦端が開かれたのは、鳥羽街道でした。1868年1月3日、旧幕府軍の先鋒が薩摩軍に遭遇し、それでも強引に道を進もうとしたところ、薩摩軍から一斉掃射を浴びたのです。
この時旧幕府軍は、先頭に京都見廻組、次に歩兵、最後に砲兵の順で雑然と並んでいましたが、これに対し薩摩軍は、洋装で隊列を組み、銃も装填、後方には大砲を据え、街道脇には小銃隊をひそませていました。
戦いにおける姿勢の差が勝負を決め、薩摩軍が旧幕府兵を潰走させます。
一方、鳥羽での砲声を聞き、伏見でも戦闘が始まりました。ここでも薩長が連合した新政府軍は、近代的な戦闘と圧倒的な砲火をもって旧幕府軍を圧倒し、勝利をおさめます。
【錦の御旗】
1月4日、新政府軍は、あらかじめ用意していた「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げます。これは朝廷の軍であることを表す旗で、天皇が認めた証になり、敵対する者は賊軍とみなされてしまうのです。
天皇の象徴に向けて攻撃をしなければならなくなった旧幕府軍の士気は、一気に下がります。
さらにこの知らせに驚愕したのが、慶喜です。彼の母は皇族で、しかも天皇崇拝が強い水戸徳川家の出身でした。
この日旧幕府軍は大敗し、大坂城まで撤退することになりました。
【慶喜の逃亡】
1月6日、出馬を求められた慶喜は、将兵たちに「さらば、これより打ち立つべし。皆々、その用意すべし」と答えますが、なんとこの晩逃亡します。大将を失った旧幕府軍は、大敗して鳥羽伏見の戦いを終えました。
幕末に詳しい歴史家の明田鉄男が作成した『幕末維新全殉難者名鑑』によると、この戦いで新政府軍の死者は110人、旧幕府軍は280人にのぼったそうです。
また、戊辰戦争に旧幕府軍側で参加した山川健次郎が監修した『会津戊辰戦史』では、旧幕府軍の敗因を3つ述べています。
1つ目は統率する人がおらず、各自が勝手に戦っていたこと。2つ目は、狭い道に大軍を進めたため大混雑で命令が徹底せず、烏合の衆と化したこと。そして3つ目は、京都情勢に明るくなく、戦わずに京都に行けると思っていたことだそうです。
この戦いの後、江戸城が無血開城され、幕府の力はなくなります。しかし争い自体は、1869年6月に戊辰戦争が終結するまで続きました。
新政府は、旧幕府勢力を完全になくすことには成功しましたが、戦後、不要になった士族による反乱が起きてしまいます。戊辰戦争をともに戦った仲間同士が争うことになりました。
この内乱は1877年に西南戦争が終結するまで続くことになります。
反幕府勢力を取り締まるための組織、「新撰組」。京都を中心に警察活動をしていましたが、鳥羽伏見の戦いの際、彼らは何をしていたのでしょうか。
実は、この戦いが起きる1ヶ月ほど前、彼らは旧幕府軍の護衛のため、大阪でともに行動していました。しかし薩長の尊王攘夷派を討伐しようとしたところ、新撰組の大将である近藤勇が敵方に撃たれ、負傷してしまったのです。
そのため、いざ鳥羽伏見の戦いの際は、近藤に代わって土方歳三が指揮をとっていました。
しかし戦局が芳しくないと悟った隊士たちは相次いで逃亡。戊辰戦争の最終局面である「箱館戦争」で土方も戦死し、新政府軍に降伏しています。
本書は、鳥羽伏見の戦いが慶喜の逃亡によって終わるまでをまとめた一冊です。
多くの資料をもとに客観的にこの戦いを分析しています。日付順に、兵力や陣形なども細かく記され、各地での戦闘状況がよくわかるでしょう。
- 著者
- 野口 武彦
- 出版日
- 2010-01-01
本書にはエピソードもふんだんに盛り込まれています。錦旗を掲げる場面では、公家なのに征夷大将軍に祭りあげられた仁和寺宮が、戦場に行くのを躊躇していると、薩摩の桐野利秋が抜刀して宮にお進みなさいと言った話など、楽しく読みすすめることができるでしょう。
幕府に忠義を尽くし、京都の治安を守ってきた会津藩が、鳥羽伏見の戦いで必死に戦う姿を描いています。
- 著者
- 早乙女 貢
- 出版日
- 1998-09-18
本書は、松平容保の京都守護職時代から、会津鶴ヶ城の落城までを描いた超大作です。孝明天皇から信頼を得ていた松平容保が、なぜ朝敵になってしまったのか……会津藩士たちの魂の叫びが聞こえてきそうです。
この戦いでの会津藩の立ち位置などがよくわかり、理解が深まるでしょう。
徳川慶喜が静岡に隠棲したのは、数えでまだ33歳の時です。本書では、それまでの彼の生涯を描いた作品です。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 1997-07-10
「二心(にしん)殿」とは慶喜の将軍になる前のあだ名です。旗本や大奥では、京都の朝廷とのつながりが深い彼のことを、いつ徳川家を売るかわからない二心を持つ人物と評していたのです。そして後年の鳥羽伏見の戦いで慶喜は、まさに二心殿らしい行動をとってしまいました。
司馬遼太郎はどのような人物も魅力的に描いてしまいます。本書を読めば、慶喜のことをきっと憎めなくなってしまうでしょう。
近代兵器に負けたかに思われる旧幕府軍ですが、実は鳥羽伏見の戦いでは新政府軍よりも優れた銃を持っていたのです。新政府軍が持っていたのはエンフィールド銃という弾を筒先から入れる銃でした。一方旧幕府軍の持っていたのはシャスポー銃で、銃を水平のまま装填できるので、装填時間でははるかに速い銃だったのです。しかしせっかく性能のいい銃を持っていても、それを生かす戦いができなかったのが鳥羽伏見の戦いでした。