大内義隆について意外と知らない7つの逸話!自害し、家は滅びた守護大名

更新:2021.11.11

周防大内氏16代当主である戦国大名、大内義隆。彼は戦を嫌い、文芸をこよなく愛しました。異色の戦国武将についての意外な逸話と書籍を紹介していきます。

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大内義隆とは

大内義隆(おおうちよしたか)は室町時代末期に活動した戦国大名です。今の中国地方を守護として治めていた名門大内家の出で、1528年に父大内義興(よしおき)の死により家督を相続し、6ヶ国の守護となります。

大内家は日明貿易で莫大な富を築いており、非常に勢力の強い大名でした。さらに義隆は1530年から10年間、九州へ勢力を伸ばそうとさまざまな活動をしています。

1540年代に入り、養嗣子の大内晴持を亡くし、武力による政治に興味を失っていきます。元々学芸的な才能に秀でていた義隆は、相良武任を重用し文治政治を敷きましたが、それが大内家の重臣であった陶晴賢(すえはるたか)ら武断派との対立につながりました。

フランシスコ・ザビエルに布教を許し寺を与えるなど、海外の動向にも興味を持っていた義隆。その学芸への傾斜に危機感を覚えた武断派が、1551年にクーデターを起こします。これは大内家に対するものではなく、義隆個人に向けてのものでした。

義隆はそのクーデターにより館から脱出したものの、天候不順のため大寧寺に立てこもり、そこで自害します。この事件を「大寧寺の変」と呼びます。これにより、周防大内家は実質的に滅亡しました。

当初は戦国大名らしく勢力を拡大させていきましたが、その後の文芸趣味への傾倒によりクーデターで滅んだ彼は、戦国大名としては異色の存在といえるでしょう。

大内義隆と、陶晴賢、ザビエルにまつわる逸話3つ

1:陶晴賢のことが大好き!粋な戦国武将

大内義隆は、家臣の陶晴賢を寵愛していました。馬で5時間かけて会いに行き、晴賢が寝ていると和歌を残して帰ったそうです。

寝ているところを起こさないところが義隆らしい逸話です。

2:優しさゆえに「末世の道者」と言われていた 

亡命してきた公家をかくまったり、仏教もキリスト教も両方世話をしてあげたり、神社の復興を手助けしたりと、優しい性格がゆえに「末世の道者」と呼ばれていました。最終的にはこの優しさが仇となるのですが……。 

3:山口で日本初のクリスマスが祝われる

大内義隆によるキリスト教受容により、フランシスコ・ザビエルは山口で活動しました。そして1552年、日本で初めてのクリスマスが祝われたといいます。大内文化はこのように許容度が高く、非常に国際的かつ先進的でした。

大内義隆にまつわる逸話4つ

1:浮気をしすぎて離婚
 

男女問わない浮気が原因で、妻の貞子から離婚されています。その後、貞子に使えていた側近の女性とのあいだに長男が生まれています。とにかく義隆の放蕩ぶりは、目にあまるものがあったようです。

2:絹織物の技術を導入

大内家は代々、商人的な嗅覚が鋭い人が多く、義隆もまたその血を継いでいました。博多織の職人を明に派遣し絹織物の質をあげ、これは後の明治維新後まで日本の経済に貢献しています。

3:経済力と官位
 

当時の朝廷は資金不足で、位をお金で売っている状態だったそう。大内義隆も従二位まで昇格しています。

なんと当時の将軍の足利義輝が従三位どまりでしたので、将軍よりも位が高かったのです。これは朝廷への献金で得たものといわれています。 

4:日明貿易にも影響を与えた大寧寺の変

大寧寺の変は本能寺の変と比肩する大事件だったわけですが、意外なことに日明貿易もこの変のために終了しています。元々義興が得た勘合符から始まって大内家の資金を潤沢にした日明貿易ですが、このクーデターによる大内氏の混乱を重く見て、貿易をストップさせてしまいました。 

大内義隆の衰退期に見る人間ドラマ

大内義隆の生き方に決定的な影響を与えた、出雲国での敗戦、月山富田城の戦いから物語が始まる長編小説です。

この戦いで義隆は尼子晴久に敗れ、逃げている途中に大内晴持を船の転覆で亡くし、そこから貴族趣味に耽溺して、最後は陶隆房に反逆され自害するのです。

興味深いのは、義隆の最盛期に関しては描かれておらず、不穏な空気が漂い始めてからの彼のことを、家臣である冷泉隆豊の視点で見つめているところでしょう。
 

著者
古川 薫
出版日

フランシスコ・ザビエルにもその放蕩ぶりを指摘された義隆は、自分に忠実なものだけを周りに配置し、その結果家臣同士の対立が深まってしまいます。当の義隆は元々あった京都趣味にふけり、政治的な混乱を放っておくありさまで、冷泉隆豊も逡巡しています。

そして義隆の妻・貞子の存在と、隆豊の関係も見逃せない要素です。文芸に走る公家趣味の義隆と無骨な大男である隆豊の対比を含め、みずみずしく描かれています。

最終的には義隆は自害に追い込まれますが、どうにもならないくらいに堕落した彼を最後まで見捨てない隆豊の人間性が切ない物語です。

下克上とはこういうものである

大内義隆研究の大家、米原正義による義隆伝です。2部構成になっており、1部はまず大内家に関して書かれています。2部は義隆を中心に、当時の時代背景を含め検証しています。

室町時代に隆盛を誇った大内家の全体像を把握し、そして家を継いだ義隆の活動を俯瞰して描いているので、わかりやすい構成だといえるでしょう。

著者
米原 正義
出版日
2014-04-01

本書のポイントは、タイトルにもあるとおり、月山富田城の戦い後に義隆が文芸趣味にはしり、大内文化が栄えた部分でしょう。

公家趣味と京都志向が強かった彼ですが、その前段階はなかなか壮絶な戦いをくり広げてきた家柄です。山口の土着勢力からのし上がり、足利義満と反目する中勢力を拡大した特異な家であったということがわかります。

登場人物が多いですが、米原正義の筆致は非常に分かりやすいので、すらすら読むことができるでしょう。大内義隆の文化の築き方と、本能寺の変に匹敵する下克上ドラマが展開される大寧寺の変の迫力に圧倒される作品となっています。

文化人としての大内義隆とは

大内義隆の文芸的側面に光を当てた人物伝です。全部で11章あり、大内家の誕生、その後の発展、そして3章以降は大内義隆にまつわる話になっています。

興味深いのは彼の政治に関する章は1章しかないのに対し、文芸的側面には3章も割いている点で、いかに義隆が特殊なタイプの戦国武将だったかということがわかります。

著者
福尾 猛市郎
出版日
1989-09-01

陶隆房の謀反の理由やクーデターに至るまでの経緯にも十分なページが割かれており、さらに大寧寺の変以後の状況も丁寧に描かれています。

巻末には義隆直筆の書状や大内家の系図、年譜などが付いており、資料としても使用できる親切な構成です。

戦国武将というにはあまりにも知性的で商業的な側面もある、特殊な存在だった義隆が、どう誕生しどう滅んだかを俯瞰して見るには最適な書籍といえるでしょう。

大内義隆のルーツがわかる一冊

最後は大内義隆の父である大内義興、そしてその父である大内政弘に関する作品です。政弘は応仁の乱で西軍の主軸として活躍した人物であり、彼がそもそも山口を大都市にしたのだということが語られます。 

主人公は義興で、時代背景が緻密に説明されているので、室町時代の後期がどのような状況だったのかが手に取るように理解できるでしょう。

もっとも滅亡した家の資料が潤沢に入手できるわけではなく、ここまで調べあげるには並々ならぬ努力が必要だったと思われます。
 

著者
藤井 崇
出版日
2014-05-01

室町時代後期から戦国時代にかけて、この時期はかくも大変な時期だったのかということがひしひしと伝わってくる内容で、誰も信じられず、おちおち寝てもいられない当時の緊迫感が伝わってきます。

義隆の印象があるのでそれほどパワフルな大名のイメージがない大内氏ですが、経済力を背景にした戦いぶりはまさに武将という名にふさわしいものでした。義隆のルーツを知りたい人におすすめの一冊です。

文芸趣味を持つ戦国武将という異色の存在である大内義隆ですが、彼がどういう人生を歩み、なぜそういう方向に走り、そしてなぜ滅んだかに興味を持たれた方にぴったりの書籍を紹介いたしました。

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