約150年に渡って続いた戦国時代を終わらせた「大坂の陣」。幕府軍の半数の兵しかいない豊臣軍が家康本陣に切り込み、家康に死を覚悟させたといいます。どのように戦は始まり、どんな結末を迎えたのでしょうか?今回は「大坂の陣」について分かりやすく解説します。
徳川家康、秀忠を大将とした江戸幕府方と、豊臣秀頼を大将とした豊臣方が大坂付近で激突した合戦です。
1614年11月の大坂冬の陣に始まり、1615年5月の大坂夏の陣で終結しました。
冬の陣では、幕府方の兵数は約20万に対し、豊臣方は約9万、しかもその大半が浪人衆という圧倒的な兵力の差がありました。夏の陣でも、幕府方約16万5千に対して、豊臣方は約5万5千でした。そのハンデのなかでも豊臣軍は家康の本陣に切り込み、家康を自害寸前にまで追いやった、ともいわれています。
この戦いにより、豊臣家は滅亡。戦国時代から続いた大規模な武力衝突はこれで終わりとなりました。
徳川と豊臣―徐々に広がる溝
豊臣秀吉の死後、五大老のひとりであった徳川家康が力を強めていきます。それを認めなかった石田三成らが兵を挙げた関ヶ原の戦いにおいて、徳川方が勝利。その結果、さらに家康がその力を強め、実権を握るようになりました。
1603年には家康が征夷大将軍に就任。豊臣側は、秀吉の息子である秀頼が成人した後、関白となり天下を治めるものと信じていました。ですが、1605年、家康は息子である徳川秀忠に将軍職を譲ります。これによって、天下は徳川家のもの、と公に示す形となりました。
1611年~13年にかけて、加藤清正らをはじめとする豊臣家の古くからの重臣たちが相次いで逝去。これまで江戸幕府と豊臣家のとりなしをおこなってきた彼らがいなくなったことで、豊臣家は孤立していきます。
一方の家康は、在京の大名、東北・関東の大名、そして西国の大名から、幕府の命令に背かないと誓わせ、足場を固めていきました。
決定的な亀裂―方広寺鐘銘事件
1614年、豊臣家が再建をしていた方広寺の大仏殿がほぼ完成するという頃に、その釣鐘に書かれた文字が家康を呪っている内容だ、と家康から問題視をされます。大仏殿再建の取り仕切りをおこなっていた片桐且元(かたぎり かつもと)が家康へ申し開きをおこなおうとしますが、面会できません。混乱する豊臣方に対し、家康から豊臣・徳川両家の親和を示す方策を出すよう要求が出されます。
且元は、「秀頼の江戸参勤」「淀殿を人質として江戸に」「国替えをして大坂城退去」という案を豊臣家に進言しますが、実質的に主導権を握っていた淀殿がこれに激怒。裏切りを疑われた且元は大坂城を退去します。また、且元の屋敷は打ち壊されてしまいました。
家康は、幕府に断りなく、豊臣が且元に対して攻めるという内戦を勝手におこなったこと、そして且元が豊臣家だけでなく徳川家の家臣でもあったことから、それを勝手に罰したことを理由に挙兵。こうして大坂冬の陣が始まります。
豊臣方の兵集め
1614年11月3日、豊臣方は関係のあった大名や浪人たちに声をかけて戦の準備を進めていきます。ですが、諸大名では応じる者がおらず、真田信繁(幸村)を始めとする関ヶ原の合戦後に浪人となっていた者など約10万人が大坂城へ集結しました。
真田丸の戦い
その頃、家康は駿府を出発。大名たちを動員して、約20万の兵を出兵させました。
12月19日に戦いが始まり、いくつかの砦が陥落した豊臣方は、当初からの作戦通り大坂城での籠城を始めます。徳川方の大軍に包囲されますが、真田信繁によって築かれた出城・真田丸における戦いが1月3日から始まると、豊臣方が徳川軍を退けます。
その後、徳川方は立て直し、土塁を築いて自分たちの被害を減らしつつ、大坂城に対してイギリスから購入した大砲やオランダ製大砲で打ち込み続けました。また同時に、豊臣方各将に対して調略もおこなっています。
講和へ
徐々に疲れの溜まっていく豊臣方でしたが、そんななか本丸への砲撃で淀殿の侍女8名が亡くなります。これを見た淀殿が12月16日に和議に応じることを決めました。
18日に徳川方の京極忠高の陣において交渉がおこなわれ、19日に合意、20日に誓書が交わされました。これによって、徳川方は砲撃を停止させます。
この時の講和条件として、大坂城の本丸を残して二ノ丸、三の丸を破壊し、さらに堀の埋め立てが決められました。また、それと引き換えに、豊臣家の本領安堵と浪人衆に対して不問とすることが認められました。
再び戦へ
冬の陣後の和平交渉が成立した後も、徳川方は大砲を作らせるなど、着々と次の戦に向けて準備を進めていました。
大坂城にいる浪人たちによる狼藉や、埋めたてた堀を復旧させようとしているという知らせを受けた家康は、豊臣方に対して、浪人を解雇するか、豊臣の移封(国替え)をして大坂から出るか、という条件を要求します。
豊臣は移封を拒否。その答えを受けた徳川は諸大名へ集結を呼びかけます。その後、豊臣方として交渉をおこなっていた大野治長が大坂城内の主戦派に襲われ負傷し、交渉は決裂します。
豊臣方・さらに不利な戦い
大坂城にいた浪人の中には、冬の陣の和議によって解雇された者、勝ち目がないとして逃げ出した者などがおり、兵力は当初よりも数万単位で減っていました。
また、堀のない城での籠城では勝てないということで、野戦で戦いを挑むという作戦が決まりました。
郡山城の戦いを皮切りに複数の場所で幕府軍・豊臣軍は激突。幕府軍の優勢で、少しずつ豊臣方は大坂城近くに追い詰められていきます。
その後の天王寺・岡山合戦では、豊臣方の真田・毛利・大野治房(おおの はるふさ)らの隊の突撃によって、家康・秀忠の本陣は混乱してしまいます。とはいえ、数で圧倒的に差を誇る幕府軍は立て直し、豊臣軍を壊滅まで追い込みました。
残っていた豊臣軍は大坂城へ総退却しました。その後は、次々と大坂城へ幕府軍が乱入します。城内には火も放たれ、難攻不落といわれていた大坂城は陥落。秀頼は淀殿とともに、城内籾蔵にて自害します。秀頼の幼い息子も殺害され、豊臣の家は断絶しました。
大坂の陣において、豊臣方として戦った浪人のなかでも武勇に優れており、戦の実績があった5人は大坂五人衆と呼ばれています。
真田幸村(さなだ ゆきむら)
本名は真田信繁であり、幸村は通称。信州上田を本拠地とする真田昌幸の次男として生まれます。青年期から羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の馬廻衆として仕え、父とは別に1万9千石を与えられていました。また、豊臣家臣の大谷吉継(おおたに よしつぐ)の娘を正妻に迎えています。
関ヶ原の戦いでは父とともに西軍に加勢、上田城で徳川秀忠の軍勢を迎え撃ち、秀忠を手こずらせて上洛を遅らせました。しかし石田三成率いる西軍は関ヶ原にて敗北。昌幸と幸村は東軍についた兄の嘆願もあり、高野山に配流となります。
時は流れ、徳川との戦の準備のために豊臣方が浪人を集め出します。幸村もその呼びかけに応え、約14年の配流生活を経て大坂城へ入城しました。
冬の陣では、大坂城のもっとも弱いとされる箇所に真田丸と呼ばれる出城を築き、迫りくる徳川軍を撃退します。真田丸は冬の陣後の堀の埋め立ての際に取り壊されました。幸村は優れた知力を持っているとして、途中家康から寝返るように誘いを受けていますが、これを拒否しています。
夏の陣では、赤く塗られた鎧をまとった真田・赤備隊を率いて敵と交戦。家康の本陣に向かっても2度突撃をおこない、その馬印を倒し、家康に自害を覚悟させたほどでした。
ですが、豊臣軍に混乱があったこと、徳川に援軍が到着したことから、真田隊は敗れ、そこから逃れた幸村は近くの神社の境内で休んでいたところを討ち取られた、といわれています。
後藤又兵衛(ごとう またべえ)
黒田如水(くろだ じょすい)に長く仕えた重臣で、数々の武功をあげてきた猛将でした。1606年、如水が亡くなり、その息子の長政との関係がこじれ、出奔。長政から、又兵衛が大名たちに仕えることを禁止するという刑罰が出ていたため、他の主に仕えることができず、浪人生活を送っていました。
大坂の陣が始まると、豊臣方に誘われて大坂城へ入城。戦いにおいては、少ない兵ながらも多くの兵を討ち取り奮戦します。その采配の見事さは「摩利支天の再来」とされ、賞賛されました。
夏の陣の戦いで、自軍の10倍にもなる兵に対して突撃をおこない、乱戦のなか、討死しました。
毛利勝永(もうり かつなが)
父とともに秀吉に仕え、九州平定後は豊前に父が6万石、勝永はその一部を与えられます。その頃、秀吉の指示によって、名前を森から毛利へと改姓しました。勝永は朝鮮出兵でも活躍。秀吉死去の際は、形見分けとして刀を受け取っています。
関ヶ原の戦いでは西軍として参戦。伏見城の戦いにおいて大きな戦功をあげていますが、本戦においては家中が混乱していたこと、他の武将の指揮下に入ったこともあり、活躍の場がなく終わりました。その後は父とともに加藤清正や山内一豊のもとに身を寄せています。
高知城の北部の村で暮らし、1610年に正室が亡くなった際に出家をしました。 1614年に秀頼から戦の招集がかかると、豊臣に恩を返したいと考えていた勝永は、長男とともに土佐を脱出して大坂城入城。怒った藩主の山内忠義は勝永の妻、次男、娘を軟禁します。
大坂夏の陣では、息子とともに4千の兵を率いて徳川方の部隊を次々撃破。真田隊とともに家康の本陣に突入しています。戦線が崩壊した後は、大坂城内へ撤退。豊臣秀頼の介錯をした後、息子・弟とともに自害しました。
勝永が豊臣への恩を忘れずに馳せ参じたことを聞いた家康は、勝永の妻と娘を保護するように命じたといわれています。
明石全登(あかし たけのり)
父の代から宇喜多家に仕え、全登は1597年頃には大俣城の城主となりました。熱心なキリシタンとして知られ、自分の屋敷に宣教師を住まわせていたほどでした。
1599年に宇喜多家でお家騒動があり、4人の重臣たちが出奔。全登が宇喜多家の家宰となりました。その頃には10万石の領主となっています。
関ヶ原では宇喜多秀家に従って西軍として出兵、当初は善戦しますが、小早川秀秋の裏切りにより敗戦しました。城へ戻るも秀家と連絡が取れなくなり出奔し、宇喜多家は没落して浪人となります。
1614年の大坂の陣では、キリスト教を禁止する徳川方ではなく、豊臣方に参戦。夏の陣では、伊達政宗らの隊と交戦して、敵の隊に混乱を生じさせました。戦いを続けていましたが、真田・毛利隊が壊滅したことを知り、敵陣を突破して戦場離脱をしました。その後の消息はわかっていません。
長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)
長宗我部家の4男として生まれるも、長兄が戦死した後に、父の後押しによって家督を継ぐこととなりました。父とともに豊臣家に仕え、朝鮮出兵などをしています。
関ヶ原の戦いでは西軍として参加。合戦では布陣したまま、戦闘には参加することはありませんでした。西軍の壊滅を聞き、逃走。土佐へ戻りました。
徳川に対して謝罪をしますが、重臣たちから浦戸一揆をおこされたことが原因で領土を没収され、大名家としての長宗我部家は滅亡。盛親自身も浪人となりました。
大坂の陣前、豊臣家から土佐の領地をもらうことを条件として大坂城へ入城。これに長宗我部家再興を願う旧臣たちも集結したため、浪人衆のなかでも千人の部下を従えていたといいます。
大坂夏の陣では藤堂高虎(とうどう たかとら)の隊と激突、混乱に陥れましたが、ほどなくして徳川方の援軍が到着し、盛親隊は大坂城へと撤退。大きな損害を受けた盛親隊は翌日の戦いには参加せず、大坂城に留まりました。その後、京都に潜んでいたところを見つかって捕らえられ、処刑されました。
1615年の大坂夏の陣が終わると、江戸幕府は元号を元和とし、「応仁の乱以降断続的に続いてきた戦が終わった。天下は平定された」と宣言しました。家康と秀忠は武家諸法度、禁中並公家諸法度などの制定に努め、以降200年以上にわたって続く江戸幕府の基礎をつくりあげました。
大坂の陣はどのように始まり、どのように物事が推移していったのでしょうか?戦を目の当たりにした人々の証言から、当時の様子に迫るドキュメントです。
- 著者
- 二木 謙一
- 出版日
大坂の陣についてまとめられた書籍は多々ありますが、当時の人々の証言が多く紹介されているのがこの本の特筆すべき点です。公家、武士、僧侶、外国人……当時を生きた彼らの目には、大坂の陣はどのように映っていたのでしょうか?
書簡や史書などの膨大な史料をもとにして丁寧に描かれています。当時の人々の考え方にもふれられる興味深い一冊です。
狸おやじとも呼ばれる家康。腹黒く、虎視眈々と天下を狙い、ついには青年・秀頼と淀殿を自害にまで追い込んだというのが一般的なイメージかと思いますが、本書ではそれを根底から覆す新説が書かれています。それは、実は家康こそが秀頼最大の支援者であったというものです。
- 著者
- 相川 司
- 出版日
- 2010-11-05
歴史推理ドキュメンタリーと称されているように、さまざまな史料をもとに筆者がこれまでの常識を覆す推理をしていきます。
「家康は秀頼を助けたかった」という推理は、一見突拍子もないように思えますが、本来の家康の性格、そして状況証拠をひとつひとつ見ていくと、「たしかに!」と唸ってしまうでしょう。
新しい大坂の陣が見えてくる、そして本物の推理小説のような「真犯人はこの人だったのか……!」という驚きも味わえる一冊です。
日本人に非常に親しまれ、愛されている武将のひとり、真田幸村。彼に関する書籍は、史実からかけ離れているものや、ずいぶんドラマチックに描きあげているものなど多様にあります。
そのなかで本書は、子供も楽しめるように優しい記述ながら、史実にもとづきながら描かれています。幸村を知るための最適な入門書といえるでしょう。
- 著者
- 砂田 弘
- 出版日
- 1992-11-20
大坂の陣で知られる真田幸村。戦が始まる前の彼の人生とはどんなものだったのでしょうか?波乱に満ちた彼の生涯を、わかりやすく、また客観的に綴っています。
児童向けながら、大人が読んでも読みごたえのある一冊。歴史初心者の方も、読み終える頃には、歴史の面白さにどっぷりはまってしまうはずです。
秀吉死後の豊臣家のイメージといえば、やはり淀殿ではないでしょうか。跡取りである秀頼は、母である淀殿に甘やかされ、その言いなりになる気弱な若君として描かれるドラマや映画、歴史小説は多数あります。
それは本来の彼の姿だったのでしょうか。最新の研究成果をふまえて、秀頼の実像に迫っていきます。
大坂の陣についても詳しく解説されているため、知識を十分に深めることができる一冊です。
- 著者
- 出版日
- 2015-08-11
大坂の陣と秀頼の真実、そして戦で活躍した武将たちについての3部構成になっています。
これまで淀殿のおまけのように扱われてきた秀頼ですが、あの真田幸村たちが命を懸けて守ろうとした主君の本来の姿とは、一体どのようなものだったのでしょうか。
本書では、秀頼の誕生前からその周辺、そして彼自身について、徹底的に調べられています。そこからは、これまでの通説とは違った新しい秀頼像が見えてくるでしょう。
また、大坂の陣についても徹底検証。この時代の史料である駿府記の現代語訳と大坂五人衆のひとりである長宗我部家の17代当主のインタビューも掲載しています。
さまざまな視点から大坂の陣を知ることができる一冊です。
日本の歴史のターニングポイントのひとつとなった、戦国最後の大合戦。事実は小説よりも奇なりの言葉通り、この戦いにはさまざまな人々の思惑とドラマが詰まっていて、知れば知るほど興味深くなるはずです。