浪士たちが集まる池田屋に、新選組が踏み込んでおこなわれた1時間半にわたる激闘、それが池田屋事件です。いったいどのような事件だったのでしょうか。
祇園祭の混雑に付け込んで、尊王攘夷派の浪士たちが京都市中に火をつけるという噂があり、1864年7月8日、祇園祭の前日、新選組は市中探索をしていました。新選組隊長の近藤勇は隊を二手に分け、自らは10数名率いて三条小橋を目指し、もう1隊は土方歳三率いる20数名で縄手通りを北上しました。
近藤隊が池田屋の戸を叩いたのは、午後10時半ごろでした。宿改めを告げたとたんに、亭主の惣兵衛が驚愕したため、近藤隊は2階に駆け上がり、室内での乱闘が始まります。
この日池田屋には、浪士たちの中心人物の長州の桂小五郎や肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)がいましたが、桂小五郎は事件の際、この場にいませんでした。
この池田屋事件で宮部鼎蔵らがその場で死に、20数名が捕縛されました。
長州藩の久坂玄瑞(くさか げんずい)らが、攘夷断行と称して外国船に攻撃するなど過激な運動により、攘夷派の孝明天皇にすら長州藩は疎まれます。
八月十八日の政変
1863年8月18日、京都守護職の会津藩と在京していた薩摩藩は、孝明天皇の支持を背景に政変を断行します。これにより長州毛利家は禁門警護を罷免され、長州よりの公家の三条実美(さんじょうさねとみ)らの参朝が禁止されました。在京の長州勢力は、三条実美ら7人の公郷を擁して西に下ります。これを七卿落ち(しちきょうおち)といいます。
長州に戻る途中、実美は肥後出身で御親兵の宮部鼎蔵に、洛中に戻り軍資金調達をするように命じました。そして再び合流した鼎蔵に、七卿は「義兵を挙ぐるの檄」という文書を託します。その内容は、「大業の実現を進めていたところ、会津や薩摩などの奸賊がとんでもないふるまいをし、天皇の心を悩ませている。我々は憤激に絶えず、西国に下って正義の挙兵をおこなうことにした。有志のものは長州に集まるように。」というものでした。
八月十八日の政変の後、長州毛利家京屋敷に対して、留守居役や添え役などの役人数名を除いて、滞京を許さないという通達がされました。また京都警護大名に対しても、毛利家家臣の入京や潜伏を厳しく取り締まるよう伝達されます。このように長州藩の人間は京都にいることすら難しくなりました。
古高俊太郎の捕縛
池田屋事件は、古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)の捕縛をきっかけに起こります。古高は長州河原町邸に頻繁に出入りして、長州藩や他の大名家、そして公家や攘夷浪士など、さまざまな人物のパイプ役を果たしていました。これでは新選組に目を付けられるのも当然でしょう。
1864年7月8日、池田屋事件の当日朝に新選組が古高を捕縛し、拷問により自白をさせます。それによると、「風が強い日に焼き討ちして天皇を奪い、山口城へ落とす。長州人がおよそ300人京都に潜伏している」というものでした。この話はそれ以前に会津藩庁が受けた話と同じだったので、同日午後9時過ぎに祇園町会所で会津兵と待ち合わせをするとし、新選組は浪士取り締まりの準備に取りかかりました。
さて、古高捕縛を知った宮部鼎蔵や吉田稔麿(よしだとしまろ)は、長州屋敷の最高責任者の乃美織江(のみおりえ)に「ただちに新選組の屯所を襲い、古高を奪い返そう。」といきり立ちますが、乃美は「軽挙すれば後害を招くだけだから、ここは慎重にするように。」と断りました。
その後、古高対策を話し合うために、池田屋へ続々浪士たちが集まります。桂小五郎が訪ねた時は、まだほとんど人がいなかったので、彼は後でまた来るといって出かけます。これにより彼は難を逃れることになりました。夜の10時を過ぎたころには浪士たちが30人ほどになり、そして新選組が踏み込んでくるのです。
池田屋事件の後、会津藩は近藤勇に刀を一振り贈り、新選組に報奨金500両と酒樽、朝廷からも慰労金100両が下賜されました。
一方、長州藩留守居役の乃美織江は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜に抗議文を送りつけました。「彦根、会津、一橋卿の指図で店に乱入し、一言の問いもなく惨殺をし、わが藩からかねてより姓名など届け出ていた者を捕縛や惨殺されて、いまだ行方知れずの者もいる」というもので、返答を求めたのです。
他の諸藩も同様に、朝廷と会津藩へ伺書を送りました。しかし会津藩は逆に、市中取締を強化します。京都守護職は諸藩や諸役所に対して、「諸藩や町屋に潜伏している怪しいものは捕まえて差し出すこと、場合によっては斬り捨ててもかまわない」と通達を発しました。
禁門の変
一方そのころ、長州の来島又兵衛(きじままたべえ)の兵300と、久坂玄瑞の浪士軍300、福原越後の軍勢300、国司信濃の軍勢800をのせた軍船が、瀬戸内海を東進し京に向かいます。さてこの軍勢の目的は、三条実美ら五卿と毛利慶親父子の冤罪を訴え、入京を許されるよう嘆願することでした。
1864年8月20日、ついに戦闘が始まります。来島又兵衛らが蛤御門付近で敗北、その他の軍勢も敗北し、夕刻までには決着がつきました。御所に向かって発砲したことも問題になり、長州藩は朝敵になります。この戦闘の後、長州の追討令が出されました。
日記とありますが土方歳三が書いたものではなく、土方にまつわる文献を集めて、時系列にまとめた本です。上巻では、土方が生まれた時から禁門の変まで、下巻は五稜郭で亡くなるまでが描かれています。
- 著者
- 菊地 明
- 出版日
- 2011-10-06
池田屋事件に関する記述もあり、池田屋に行く前や帰ってきてからの屯所での様子の聞き書きもあり、当時の新選組の様子がよくわかります。
出典もきちんと記されているので、深く知りたい方は出典を参考に本を探してみると、より知識を深めることができるでしょう。
土方歳三の人物像が非常によくわかる一冊です。
本書には、池田屋事件にまつわる5つの物語が収録されています。新選組に入る者、坂本龍馬と関わる者など、それぞれ立場も身分も異なる者たちが、どのように事件を迎えたのかが描かれているのです。
- 著者
- 伊東 潤
- 出版日
- 2014-10-22
ひとつひとつの話は短いですが、どの話も読めば自分が実際にその人物なったかのように感情移入できるストーリーで、非常に読みごたえがあります。
著者は直木賞候補にもなった伊東潤です。小品ながら、当時の様子が伝わってくる圧巻の物語をお楽しみください。
帯に「池田屋からの実況生中継」と書かれている通り、日時、場所、人数などしっかりレポートされた、池田屋事件の記録です。
- 著者
- 冨成 博
- 出版日
地図や写真も盛り込まれ、非常にわかりやすい文体なので、池田屋事件にまつわることを理解するのには最適な本といえるでしょう。
著者の冨成博は山口県の出身で、高杉晋作など長州の人についての著作が多いのですが、本書は長州側や新選組側などに偏ることなく、史実をまとめています。
事件現場に潜入した気分で読むことができる一冊です。
池田屋事件前後は長州藩が孤立して、非常に苦しい時代でした。長州藩はこの後、敵対していた薩摩藩と手を組み、時代は一気に明治維新へとなだれ込んでいくのです。