静御前、という名前自体は聞いたことがある方が多いのではないでしょうか。しかし義経の愛妾だったということ以外、ほとんどが謎に包まれている彼女。どんな生涯を送ったのでしょうか。
静御前(しずかごぜん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた女性。生年は一説では1165年と言われていますが、詳しくはわかっていません。母は白拍子の磯禅師(いそのぜんし)です。静御前も都で評判の白拍子でした。
白拍子とは、歌を歌いながら舞う踊りのこと、もしくはその踊っている人のことを指し、主に子どもや男装した遊女が多かったようです。
源義経の愛妾として知られている静御前ですが、その出会いは義経の一目惚れだったと言われています。住吉で雨乞いをしていた彼女を見初めた義経が、妾にしたのだそうです。
源義経は平氏討伐で活躍しますが、その後兄の頼朝と不仲になり、1185年、京を離れて九州に向かいます。この時静御前は、義経とともに九州に向かう船に同乗していました。
しかし彼らが乗った船は暴風雨によって座礁。義経は頼朝の追手から身を隠すために、吉野山に入ります。ここで義経は彼女に金品を与え、京に戻るよう命じました。
義経と別れた静御前でしたが、なんと従者に金品と荷物を奪われてしまい、山中をさまよっていると義経を捜索していた僧兵に見つかり、鎌倉に送られてしまったのです。
1186年、静御前は頼朝から舞を舞うよう言われますが、気乗りしない彼女は病気と称して何度も断ります。それでも諦めない頼朝とその妻政子に、八幡大菩薩に献舞するということで説得され、鶴岡八幡宮でようやく舞を披露しました。
実は鎌倉に連れてこられた時、静御前は義経の子を身ごもっていました。頼朝から「生まれてくる子が女の子であれば生かすが、男の子であれば殺す」と命じられており、生まれてきた男の子は生後まもなく由比ヶ浜に遺棄されてしまいました。
その後母とともに京に帰された静御前ですが、それ以降の消息は分かっていません。
1:白拍子は高級遊女だった
白拍子の起源は、一説には巫女による神事の舞と言われています。巫女が布教をする際に舞を披露していくなかで、徐々にこの舞を専業とする遊女が現れました。
その後、遊女が巫女の伝統の影響で男装をし、舞だけでなく、男装での舞に長けた遊女を白拍子と言うようになったそうです。
白拍子を舞う遊女は貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識のある女性が多かったと言われています。静御前だけでなく、平清盛の愛妾である祇王(ぎおう)や仏御前(ほとけごぜん)なども白拍子でした。
2:雨乞いに成功した
『義経記』によれば、後白河法皇は雨乞いのために100人の僧に読経させましたが効果がなく、その後100人の白拍子に雨乞いの舞を舞わせました。
99人目まで効果がありませんでしたが、静御前が舞を披露するとただちに黒雲が現れ、3日間雨が降り続いたと言われています。静御前は法皇から「日本一」と宣旨され、「神の子か」と感嘆されたそうです。
3:捕えられた時に、敵方の僧侶が労わった
義経と別れて吉野山で捕えられた際、僧侶らから義経の居場所について何度も問い詰められました。しかし彼女は最後まで、義経の向かった先を答えませんでした。
そんな彼女ことを僧侶たちは気の毒に思い、十分労わってから鎌倉に送ったと言われています。
4:頼朝を激怒させた
鶴岡八幡宮で白拍子を舞った際、頼朝は鎌倉を称える舞を所望していました。しかし、静御前が舞ったのは、義経を想う歌に合わせたものだったのです。これに頼朝は激怒しましたが、妻の政子がとりなして事なきを得ています。
政子は、もし自分が静御前の立場でも同じようにするでしょうと言い、彼女のことを憐れんでいたようです。
5:終焉の地とされる場所がいくつもある
鎌倉を出た後の静御前の消息ははっきりとはわかっていません。自殺説や旅先での死亡説など、それぞれ複数の説があり、日本各地に彼女のものとされている墓があります。
その場所は、岩手県、福島県、茨城県、埼玉県、長野県、奈良県、兵庫県、福岡県など多岐にわたっています。
静御前がいかに義経の人生を彩ったのかがわかる一冊です。
- 著者
- 中島 道子
- 出版日
全13章からなっており、全編をとおして義経の生涯が描かれています。
静御前の登場は後半になってからですが、2人の出会い、義経が静御前に母の面影を重ね惹かれていく様子、そして別れまでが丁寧に描かれています。
彼らの息遣いまでもがわかるような描写は、小説ならではといえるでしょう。
謎に包まれた静御前の見た世界とは……?
- 著者
- 森本 繁
- 出版日
生没年不詳、誕生の地も終焉の地も定かではない静御前。
著者による現地取材で、彼女の実像に迫っています。
各地に残る「終焉」のストーリーや生存伝説を紐解き、義経と静御前のその後を大胆に推理した一冊です。
- 著者
- 今泉 正顕
- 出版日
義経は1185年の吉野山で静御前と別れた後、平泉の奥州藤原氏のもとに身を寄せましたが、追いつめられて自害しています。
静御前は鎌倉で生後間もない子どもを殺害された後は京に戻ったとされていますが、詳細はわかっていません。
著者はこのような通説を疑い、各地に残る伝説を紐解きながら、義経と静御前のその後を描いています。そこからどんな答えを導きだしたのでしょうか。
まるで推理小説のように楽しみながら読める一冊です。
伊豆に流された頼朝が鎌倉幕府を開くまでの物語のなかに、義経と静御前はどのように位置づけられるのでしょうか?
- 著者
- 今西 祐行
- 出版日
- 1979-04-02
本書は、頼朝が伊豆に流されてから鎌倉幕府を開くまでを描いた『源平絵巻物語』のうちの一冊です。タイトルどおり静御前に焦点が当てられ、義経たちとの話が紡がれています。
絵が美しく、お子さんと一緒に読むのもおすすめです。
静御前の素顔を垣間見ることができたでしょうか?謎多き女性だからこそ、いまだに多くの人の興味を惹きつけてやまないのかもしれませんね。