5分で分かる天狗党!なぜできたのか?分かりやすく紹介!

更新:2021.11.11

「天狗党」とはどのような集団なのか、天狗党の乱はなぜ起きたのか。攘夷か開国かで揺れていた幕末において、最大の悲劇と言われる事件を知るための本もあわせてご紹介します。

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天狗党とは。尊王攘夷運動の中心的存在

江戸時代末期、幕府は開国を迫られるなかで、天皇を尊び、日本を侵略から守るために外国勢力を打ち払おうという「尊王攘夷思想」が唱えられるようになりました。

多くの志士たちによってこの考え方が広められた結果、大規模な運動へと発展していきます。

「天狗党」はこの思想の出発の地とも言うべき、水戸藩の尊王攘夷派を指す名称で、各地に広がった運動の中心的な存在でした。

なぜ天狗党は作られたのか

水戸藩の尊王攘夷思想は、2代藩主であった徳川光圀(とくがわみつくに)が編纂を始めた歴史書『大日本史』を通じて徐々に形づくられます。その後1800年代に入ると、尊王論を説いた藤田幽谷(ふじたゆうこく)が実践的改革論を示して「水戸学」の基礎を築きました。

特に9代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)と彼が登用した藩士、藤田東湖(ふじたとうこ・幽谷の子)と会沢正志斎の時代にこの思想は高まりを見せ、積極的に藩政改革をおこないます。しかし反改革派からは、彼らが鼻高々の成り上がり者に見えたことから「天狗」という蔑称で呼ばれたのです。

彼らは、その内部においても何度も抗争をくり返しています。激派と鎮派に分裂をし、激派は「天狗党」へとつながり、鎮派は反改革派と手を結んで反天狗の「諸生党」となって、両党が激しい武力抗争を引き起こします。

やがて、黒船来航を機に斉昭が幕府より海防参与に命じられたことから、水戸藩では改革派の「天狗党」を中心に尊王攘夷派が形成されることになりました。

なお激派の一部は後に、尊王攘夷派を弾圧した開国派である井伊直弼を暗殺する「桜田門外の変」を引き起こすことになります。

幕末最大の悲劇、天狗党の乱について

尊王攘夷運動が全国へ広がりをみせていた1864年3月、藤田東湖の子である藤田小四郎を中心に据えた「天狗党」は、攘夷の実行を幕府に促すために、藩内の筑波山で挙兵します。これ以降の天狗党による一連の騒乱を「天狗党の乱」と呼んでいるのです。

この筑波山での挙兵には、同じく尊王攘夷派の桂小五郎から軍資金の提供を受けており、彼らは志を強くして攘夷の実行に邁進することになりました。天狗党には水戸藩士の他にも、他藩の武士や農民なども参加して勢力を拡大していきます。

しかし対立する諸生党や幕府による追討軍との間で戦いの過程で、天狗党の一部の派が軍資金不足を補うために、近隣町村の宿で、役人や富裕層から金品の強奪などをし、このことが彼らへ悪いイメージを焼き付けることになってしまったのです。

その後、京都にいた徳川斉昭の子・慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えることを決めた天狗党は、武田耕雲斎を総大将、藤田小四郎を副将として1000人あまりの大部隊を編成し、京都をめざして西上することになりました。

道中で、高崎藩や松本藩らとの交戦をしつつ主に中山道を通って美濃まで進みましたが、追討諸藩が街道を封鎖したため、越前へ大幅に迂回することを余儀なくされます。

雪の中、越前の山道を進み、現在の福井県に着きますが、追討軍の包囲網の中に孤立。さらに頼みの慶喜が幕府追討軍の指揮を執っていたことを知り、前方を封鎖していた加賀藩に降伏して50日余りの行軍が終わりました。

天狗党の乱の結果は

降伏の結果、捕らえられた天狗党員の数は828名。そのうち武田耕雲斎や藤田小四郎ら幹部を含め352名が斬首により処刑され、他は遠島、追放などの処分をされました。

さらに彼らの降伏が水戸に知れたことにより、水戸藩内では天狗党の家族も次々と処刑されます。

1868年の戊辰戦争を機に、耕雲斎の孫である武田金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の援助もあって実権を取り返していきます。朝廷から諸生党追討の命を取り付けて水戸藩内で報復に着手し、今度は諸生党の家族が次々に処刑されるという悲惨な事件に発展してしまいました。

水戸学の発展で多くの学者を輩出し、尊王攘夷運動の中心であった水戸藩でしたが、このような激しい内乱によって多くの有能な人材が失われたため、明治新政府で要職の地位についた人物のなかに、水戸藩出身者はひとりもいませんでした。
 

尊王攘夷運動は天狗党の「義」なのか?

著者
伊東 潤
出版日

攘夷か開国か、尊王か佐幕か……混迷する幕末に発生した「天狗党の乱」。本書は、尊王攘夷運動が千秋(長い時)を超えて彼らの義だった、という視点から描いた歴史小説です。

1853年の黒船来航によって横浜が開港された結果、国外からの安価な綿糸や綿織物の流入で、真岡木綿で知られた木綿栽培農家は壊滅的な打撃をこうむります。

物語は、この木綿栽培の大農家が借金苦から一家心中に追い詰められるところから始まります。葬儀に参列した同じく木綿農家の横田藤三郎は、水戸藩尊王攘夷派の中心人物である藤田小四郎からの書状を受け取り、筑波山の挙兵に参加することを決意しました。

前半部では、挙兵以降、水戸藩に引き起こされたいくつかの内乱の記述が続き、後半部は京都への長征の経過が語られています。

著者の詳細な取材を基にした作品で、小四郎のような尊王派藩士、藤三郎のような農民志士を含め、登場人物のそれぞれの生き方や考え方が伝わってくる物語です。

長征参加者が30年後に当時を回想する異色作

著者
山田 風太郎
出版日
2011-05-12

本書は、天狗党の中心人物だった武田耕雲斎の四男で、15歳にして天狗党の長征に同行した武田猛(源五郎)が、30年後に当時の事件を回想するという想定で描いた異色の作品です。
 

実際に京都を目指した行軍の参加者の視点で一人称形式で語られていて、読者を引き付ける創作部分をおりまぜながらも、史実にもとづいて事件の真相を克明に語っています。

水戸藩の抗争がなぜ悲惨な結果を招いたのか、彼らの人間性を明らかにするという著者の考えが、語り手をとおして随所に示されています。

筑波山挙兵から長征まで、天狗党の乱のすべてが分かる

著者
山口 武秀
出版日

水戸から江戸へ出る街道筋にあたる、府中新地にある妓楼に、ある男がずっと寝泊りを続けているところから物語は始まります。

妓楼に滞在しながら攘夷のための挙兵を考えていたこの男こそが、水戸学の創始者・藤田幽谷を祖父とし、水戸藩改革派の中心人物であった藤田東湖を父に持つ藤田小四郎、すなわち天狗党筑波山挙兵の首謀者です。

本書は副題のとおり、筑波山での挙兵から、「那珂湊の戦い」など道中の追討軍や諸生党との争いを経て、慶喜に会うために京都をめざした長征の結果までを描く歴史大作です。

特に長征については克明に描かれています。出発時には1000人以上いた大集団は、戦や病気などで最終的には800人強になって降伏しましたが、そのうちの500人以上が農家の出身だったことも注視しています。

また筆者は最後に、天狗党の乱は水戸藩の人材を消滅させまったく無意味な争いだったのかと問いかけ、その答えとして、長征の行軍は幕藩体制の権威を失墜させたもので、武家政治の終焉の日を早めさせたと評しました。

尊王攘夷派の中心であった水戸藩。その内部抗争で多くの人材を失った結果、明治維新の思想的な原点は水戸学であったにもかかわらず、新政府の要人には水戸藩出身者がいないという皮肉な歴史になりました。天狗党の乱はなぜ引き起こされたのか、それぞれの視点で著者が描くこれらの本をとおして考えていただければと思います。

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