日本の大学は何処へ行くのか『「大学改革」という病』

やれグローバル化しろだのなんだのと、国立大学の改革についての号令がかまびすしい。運営費交付金が減らされ、常勤職ポストが削られる中、いろいろなことが押しつけられてくる、というのが現場の実感だ。そんな状況の中、こういった問題をじっくり考えるための3冊を。


さまざまな角度から「大学改革」を考察する

徳島大学准教授、哲学者である山口裕之による『「大学改革」という病』をまず紹介したい。すべての大学人が読むべき本といってもいいだろう。『学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する』とサブタイトルにあるように、様々な角度から、大学というものが考察され、日本の現状が描かれている。

まず、大学の歴史の説明から始まる。中世ヨーロッパで自然発生的に生まれた大学であるが、近代国家の成立とともに、「自治」から「国家のための大学」へと、そのあり方が大きく変わる。その結果として生まれた、国家が大学を作り、大学が国家に奉仕する、という官僚育成型大学の典型であったドイツの制度に基づいて作られたのが日本の大学である。

それに対して、米国の大学はまったく異なった出自を持つ。よく知られているように、そのほとんどが私学である。設立当初から独自の経営が必要であった訳で、その延長上に現在のシステムが築かれている。だから今も、「企業家からの巨額の寄附に由来する基金を持ち、それぞれの創意工夫で独自の経営」することによって成り立っているのである。

著者
山口 裕之
出版日
2017-07-25

本邦では国家予算の逼迫(ひっぱく)をうけて、国立大学法人はできるだけ自分で稼げと言われるようになってきている。アメリカ型の大学を目指しなさい、ということなのだろう。しかし、「日本の大学の将来を考えるためには、そうした歴史的背景や、その結果としての現在のあり方を常に念頭に置いておく必要がある」というのは至極当然のことだ。はたしてシステムの大転換が可能なのだろうか。

導入すべきシステムのひとつとして、アカデミックキャピタリズム=研究の商品化、が促されている。そこには3つの柱がある。ひとつは授業料だ。これは歴史的経緯を大きく反映しており、ヨーロッパが無償あるいは極めて低額であるのに対して、米国は非常に高い。日本はその中間である。国立大学法人は、授業料をそれぞれが決めていいことになっているが、いまだに値上げをしたところはない。このことが、授業料値上げの難しさを如実に物語っている。

2つ目は特許料である。これには驚かされたのだが、手本にしようとしている米国でさえ、特許により大きな利益をあげているのは、ごく一部の大学だけらしい。遺伝子組換えについての「コーエン・ボイヤー法」のように、3億ドルもの利益をスタンフォード大学にもたらしたような特許は、非常に目立つが極めて稀なのだ。

3つ目は産学連携を推進しながら、「産業界から距離を取って客観的な立場から自体を評価できる中立的な研究者や研究機関」が担保できるのかという問題である。こう考えてみると、いずれの点においても、どこまでアカデミックキャピタリズムを進めるべきなのかは、難しい問題であるということがわかる。

大学のグローバル化

2冊目は、東京大学教授を辞し、オックスフォード大学に移籍した苅谷剛彦の『オックスフォードからの警鐘 グローバル化時代の大学論』だ。まず俎上に載せられているのは、文科省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」である。“スーパーグローバル”という言葉がグローバルには通用しないというのは、まるで笑い話だ。その言葉の珍妙さだけからでも、日本の大学における「グローバル化」がいかに内向きであるかがわかってしまう。

その事業において掲げられている「英語での授業」、「外国人教員比率の向上」、「世界大学ランキング10位以内に10校以上」の3つを十分に成し遂げることができる、と本気で考えている大学人や文科省官僚は果たしてどれくらいいるのだろう。

ほかにも、日本は、社会の高度化に応じて世界的に大学院教育の重要性が増してきている、という傾向においても立ち後れている。いくつもの問題点があるけれど、最大のものとして、大学院以前に、日本ではどの大学に入学するかが最重要であって、大学での教育内容が重視されていないことがあげられている。この問題が、大学や大学院その内部だけに留まるようなものではないことは明かだ。

著者
苅谷 剛彦
出版日
2017-07-06

苅谷の「企業社会の雇用システムの硬直性が大きく変わらない限り、さらにはグローバルな人材育成の需要から日本社会が取り残されている限り、そのギャップは埋まらないまま、大学教育改革は、日本的な序列を維持しつつ空回りし続ける」と語るスタンスは、基本的なところで山口と同じである。いや、この2人だけでなく、ほとんどの大学人が感じていることでもある。山口の本も苅谷の本も、他の多くのことも論じているが、とてもすべてを紹介しきれないのが残念だ。

苅谷は、真のグローバル化に重要なのは、「日本にしかできない付加価値の研究と教育を表に出していく」ことだという。これは確かに正しい。しかし、文学や社会学など文系の一部では可能だろうが、理系になると極めて困難である。

というのは、理系の多くの分野では、少なくとも研究面では完全にグローバル化された状態にある。苅谷が指摘する英語の壁も、ごまかしながらとはいえ、およばずながら精一杯の努力をして、何とかクリアしている。研究面で今以上にグローバル化できることがたくさんあるとは、なかなか考えにくいのである。このことが、グローバル化について理系教員からの意見があまり聞かれないことの理由の一つかもしれない。次に紹介する『反「大学改革」論』の著者も一人をのぞいて文系だ。

若手研究者たちが「大学改革」を問題提起した1冊

『反「大学改革」論』は、分野の異なった13名の若手研究者がそれぞれの立場から、大学改革の問題点を論じている。内容は極めて多岐にわたるが、「すべての大学教員・研究者が、『大学改革』の当事者」であり、「そこに発言の権利と義務が発生することは当然である」との考えに基づいて編まれたこの本からは、「大学と大学改革をめぐる、すべての大学人による公共的な議論のための呼び水」になることを「目的」あるいは「願い」としたい、という悲痛な叫びを聞き取ることができる。 

「日本の大学の教授団に問われているのも、ユニヴァーサル段階における高等教育機関の本質と機能に関する合意を形成し、それを自ら実践する力量を持っているかどうかであろう」という山口の結論は痛いところをついている。胸をはって、合意は形成されている、自分には十分な力量がある、と断言できる教授がどれくらいいるだろう。

著者
["藤本 夕衣", "古川 雄嗣", "渡邉 浩一", "井上 義和", "児島 功和", "坂本 尚志", "佐藤 真一郎", "杉本 舞", "高野 秀晴", "二宮 祐", "藤田 尚志", "堀川 宏", "宮野 公樹"]
出版日
2017-06-23

たとえば、それが意味あるかどうかは別として、英語での講義を十分にこなせる教授がどれだけいるのか。そして、それを受け止めることができる学生がどれだけいるのか。これだけをもってしても、「高等教育機関の本質と機能」を真剣に考えるというのは、いかに困難なことであるかがすぐにわかる。

グローバル化、大学改革、などに対するイメージは大学関係者それぞれにとって、大きく異なっている。それは、さまざまな学問分野を内包する大学というシステムにおいて、ある程度はいたしかたないことだ。しかし、そのような中であっても、いや、そのような中だからこそ、山口の言う「高等教育機関の本質と機能に関する合意」を形成することがまず重要なのだ。そのためには、少なくとも、それぞれの大学において合意形成がおこなわれなければならない。


何年か前、ある超一流研究所の評価会で、隣に座った米国人委員から、どうして、日本の大学は、学部同士があまり助け合おうとしないのか、と尋ねられた。

日本の大学は中央集権ではなくて、一応はまとまっているように見えるが、それぞれの部局が独立した合衆国(The United Faculties of University)みたいなものだからである、と答えたら、えらく納得された。残念ながら私の知る限り、日本の大学における部局セクショナリズムは非常に強い。

大学内での「ユニヴァーサル段階における高等教育機関の本質と機能に関する合意」というのは相当に難しいのではないだろうか。残念ながら、大阪大学も例外ではなさそうだ。しかし、それすらなしに、日本の大学が何処へ行くのか、誰にもわかろうはずがない。

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