大坂大学グローバルイニシアティブ・センター講師、島薗洋介先生の書評です。オックスフォード卒の島薗先生が、イギリスの人類学者、ティム・インゴルドの著作『ラインズ - 線の文化史』を紹介します。
本であれ、漫画、演劇、絵画、映画であれ、わたしが「いい」と思うものには二つのいずれかの特徴がある。一つは、それらを経験する前と後とでは世界が少し変わるということである。もう一つは、「こんな本を書いてみたい」「こんな絵を描いてみたい」「こんな歌ってみたい」と感じさせることである。最近いまさらのように気づいたことなのだが、この両者の規準が同時に満たされることはめったにない。
『ラインズー線の文化史』はそうした数少ない例外の一つである。 序論の冒頭で著者である英国の人類学者ティム・インゴルドは問う。「歩くこと、織ること、観察すること、物語ること、描くこと、書くこと。これらに共通しているのは何か?」インゴルドの答えは、それらすべては「ラインに沿って進行する」というものである(17頁)。
世界は無数の線からなりたっている。インゴルドは、それらは二つの種類に大別されるという。一つは、生命の運動が表面に残す「軌跡」(トレース)であり、もう一つは、それ自体が表面をもつ「糸」(スレッド)である。軌跡と糸は相互に排他的なクラスではなく、軌跡とも糸ともとも言いがたい線もある。いずれにせよ、われわれの世界は、こうした軌跡と糸のラインが織りなす「網細工」(メッシュワーク)である。
- 著者
- ティム・インゴルド
- 出版日
- 2014-05-21
人は、このようにさまざまなラインを生み出すことで、網細工としての世界の構成に関与する。人は移動することによって、大地という裏面のない表面に刻まれる軌跡——歩き踏み固められた草地の中の小道、そりが通過した雪の上の経路——を生み出す。ペンや筆を用いる手の運動は表面に軌跡を残し、文字が書かれ、絵が描かれる。また、人は、糸を巧みに操り、新たなものをつくりだす。糸を縒り合わせることによって縄や網を制作し、糸を織り合わせることで布や籠をつくるのだ。網細工の世界の住人である人間は、卓越したラインの制作者でもあるのだ。
なんとも大胆な主張である。しかし、インゴルドの思索の歩みの軌跡に沿って『ラインズ』を読み進めるならば、読者はインゴルドのラインにかんする主張が決して単なる思いつきではなく、生の運動と成長があるところにはラインがあることを知るだろう。そして、見慣れた世界を新鮮な驚きとともに体験することを学ぶだろう。
『ラインズ』で展開されるインゴルドの議論の要約は以上のようなものである。しかし、この本の魅力は、粗雑な議論の要約では十分に伝えることは難しい。インゴルドは、考古学、人類学、建築、音楽、美術の偉大な先人たちの思索の糸をたぐり寄せ、線の歴史というひとつのテクストを編み上げる。そのなかには、いくつものの興味深い挿話や含蓄に富む洞察が含まれている。ここでは、そうした洞察の一つとして書くことの歴史についてのインゴルドの議論を簡単に要約してみよう。
インゴルドは、文字の歴史は、より包括的な「かく」ことの歴史の一部として捉え直すべきであると主張する。わたしたちは、さまざまな「かく」を区別する。「書く」「画く」「描く」のように。しかし、それらは全て「かく」、すなわち「ラインを引く」ことから成り立っている。文字であれ、絵であれ、身体の運動が表面に生み出す軌跡である。
私たちは、文字を書く(ライティング)ことと絵を描く(ドローイング)ことは別種の活動であると思いがちである。前者は、表記法にもとづいて文字は記す活動であり、意味を伝えるのに対し、後者は現実や想像の対象を描写する。しかし、インゴルドによれば、こうした区別は絶対的なものではない。例えば、オーストラリアの先住民ワルビリの人々がストーリーを語りながら地面に模様を描くとき、「書く」と「描く」は、同じ一つの営みのなかに統合されている。西洋におけるカリグラフィー、そして、東洋における書道においても、文字を「書く」ことは同時に「描く」ことでもある。
書くことと描くこととのあいだの連続性と親縁性が断ち切られるのは、近代西洋社会においてである。活版印刷技術の登場以降、書物はブロックとしての印字の組み合わせとなり、身体の運動の軌跡とは無縁のものとなった。西洋において書かれたものは「テクスト」と呼ばれる。かつては、この比喩は「書く」と「織る」という二つのライン制作のあいだに当然のように知覚される親近性に支えられていた。しかし、人が印刷技術の産物に慣れ親しむようになると、書くことと描くことのあいだに分割線が引かれるようになる。そして、織られたものとしての「テクスト」は単なる修辞と受け止められるようになる。近代の言語学において、声が音声と意味への分割が自明視されてきたのも、印刷技術による書物にわれわれが馴れ親しんでいることと無関係ではない。
近代西洋社会が、ライン制作に与える影響はかくことの領域に留まらない。西洋近代社会とは、生の持続によって生み出されるラインに代わり点と点を結ぶラインである連結器が支配し、囲い込むライン——占拠するライン——によって道に沿って進むライン——居住者のライン——がかき消される社会である。
測量にもとづいた刊行地図(カルトグラフィックマップ)が生み出される。すべての場所を経度と緯度の座標軸上に位置づけるこうした地図は、徒歩旅行者によってうみだされた近代以前の略図(スケッチマップ)とは全く異なった性格をもつ。それは大地を上から俯瞰する地図であり、表面に沿って動く人々の旅の軌跡とは切り離されている。また、近代では、都市には直線的に区画された空間が出現し、それらのあいだは鉄道や道路その他の交通機関によって連結され、輸送のネットワークに覆われる。旅は移動の経験——あるいは、移動をつうじて出現する世界の経験——を語るストーリーラインから切り離され、言うなれば観光スポットの経験のパッチワークとなる。こうした近代的なラインへの反発として、ロマン主義的な直線への反発が生まれ、また、ポスト近代において、裂け目、亀裂といった表面に不連続性を生み出すラインが称揚されるようにもなる。
ただ、われわれは線を生み出すことは決して止めてはいない。『ラインズ』を手に取り、インゴルドの歩んだ道に沿って思索の旅をするならば、読者は人が未だに網細工の世界の住人であり、これからも創造的ラインの制作者であり続けることを理解するだろう。
最後に、インゴルドという著者について簡単に触れておきたい。インゴルドは、学問的なはやりすたりに無縁な人である。インゴルドの趣味はチェロであり、教え子(筆者の妻がその一人であり、彼女の博士論文は本書にも引用されている)に送るクリスマスカードには挿絵が描かれている。多くの英国人がそうであるように、インゴルドもまた散歩好きなようである。授業時間に、学生とともに橋を渡りに出かけたり、砂浜を歩いたり、編み物を編んだりすることもあるそうだ。彼の生とラインをめぐる思索は、彼の日常的経験のさなかで育まれたものなのだ。
書き手としてのインゴルドの魅力は、素朴な言葉を巧みに操りながら、スリリングな議論と心に響く文章を生み出すことである(英語で読むならば、訳書よりもさらにこの魅力は深く伝わるであろう)。本書の最後の文章も、わたしにとってそうした文章の一つである。「生と同じように、ラインには終わりがない。重要なのは終着点ではない。道の途上で、さまざまな面白いことに出会うことである。あなたがどこにいようと、どこかもっと先に行けるのだから」(258頁)。