東海道の漁村で起きた、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件。幕末の攘夷運動の真っただ中という国内事情もあり、薩英戦争にまで発展していきました。この記事では、「生麦事件」の原因から結末までわかりやすく解説し、おすすめの関連本もご紹介していきます。
1862年9月14日に生麦村で起こった「生麦事件(なまむぎじけん)」。薩摩藩主を退いたもののいまだ藩の最高権力者だった島津久光(しまづひさみつ)が、江戸で公武合体と攘夷を求め、薩摩へ帰郷する途中に起きた4人のイギリス人殺傷事件です。
亡くなったのは、来日していたイギリス商人のチャールズ・リチャードソン。そのほか横浜在住の商人ウィリアム・マーシャルとウッドソープ・クラーク、香港から観光に来ていたマーガレット・ボロデールが負傷しました。
リチャードソンに最初に斬りかかったのは、薩摩藩士の奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)。その後鉄砲隊の久木村治休(くきむらじきゅう)が抜き打ちに斬り、落馬して息も絶え絶えだったところにとどめを刺したのが、海江田信義(かいえだのぶよし)だといわれています。
この事件は薩英戦争に発展し、敗北した薩摩藩は異国の力を知ることになりました。その後近代化を目指して開国に転じ、明治維新へと突き進みます。
それでは「生麦事件」とはどのようなものだったのか、くわしく見ていきましょう。
イギリス人の4人の商人は、余暇を利用して川崎大師を観光しようとしていました。そこで東海道を馬に乗って移動していたところ、島津久光一行と出くわします。
400名ほどの大行列が「下に、下に」と進んでおり、周りは土下座をしています。薩摩藩士たちは4人にも脇によけるように促しました。
しかしイギリス人の彼らは、日本における大名行列の大切さを理解していません。そのうえ通訳など日本に精通したお供もいなかったので、藩士の意図は伝わらず、馬をおりずにあろうことかそのまま街道を進んでしまいました。
久光が乗る駕籠(かご)が近づくと、藩士たちの怒鳴り声も大きくなります。するとリチャードソンたちの馬の落ち着きがなくなり、久光の列を乱してしまいました。
当時はまだ「切り捨て御免」が通用する時代です。これを受けて薩摩藩士が斬りかかります。
リチャードソンは現場から700メートルほどの場所で絶命。重傷を負った2人はアメリカ領事館だった本覚寺に逃げ込んで手当てを受けました。
駕籠の中の久光自身も、外国人とのトラブルが生じたという報告を受けて、自ら刀を抜く準備をしていたそうです。
不平等条約が日本に賠償をもたらした
当時の日本は「安政の五ヶ国条約」を、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと結んでいました。別名「不平等条約」といわれていて、日本には不利な内容のものです。
このなかには「治外法権」も含まれていて、外国人が日本国内で罪を犯しても、日本で裁くことはできないようになっていました。つまり、いくら無礼だったとしても、外国人を裁いた日本に全面的に非があることになるのです。
4人のうち唯一怪我のなかったボロデールが外国人居留地に逃げ帰ると、この事件は数時間後には知れわたり、大騒ぎになります。当時はこのほかにも外国の軍人や外交官などが被害にあう事件が横行しており、横浜居留地の外国人たちは、実力行使をするように主張していきます。
しかし、イギリス代理公使のジョン・ニールは、外交交渉による解決を試みました。その後イギリスをはじめ、フランス、オランダ、アメリカの4ヶ国艦隊が次々と横浜に入港し、ニールは幕府に謝罪と賠償金10万ポンドを要求します。
幕府が賠償金を支払うまで
しかし将軍後見職に就いていた徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、賠償金の支払いを拒否するよう命じたため、横浜では一触即発の状態に。この経緯を見ていた人々のなかには、戦争になってしまうと非難する者もいたようです。
その後、再度開かれた交渉の場に、京から離れることができなかった徳川慶喜に代わって老中の小笠原長行(おがさわらながみち)が参加することになりました。すると彼は独断で賠償金を払うよう命じます。
1963年6月に、全額がイギリスに輸送されました。
実は小笠原と慶喜が裏で通じていたという見解もありますが、その後小笠原は上洛途中の大阪で老中の職を解かれています。
薩英戦争への経緯
8月、イギリスの軍艦7隻が鹿児島湾に入港し、薩摩藩に対して犯人の引き渡しと、遺族への養育費として賠償金2万5千ポンドを薩摩藩に要求しました。しかし交渉がうまくいかず、さらにイギリス艦が薩摩藩船を拿捕する事件が起こります。
これがきっかけで薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が開戦されました。
イギリス側は、艦長・副艦長を含む63名の死傷者が出ました。一方の薩摩側も鹿児島城下の10分の1が焼け、死傷者が出ています。
戦争の終結と賠償
この戦争はイギリスの勝利で終わりましたが、最終的には両者痛み分けの状態。交渉の結果、島津家は幕府から2万5千ポンドを借りてイギリスに賠償金を支払いました。ちなみに「生麦事件」の犯人は行方がわからないとのことで、処罰されたものはいません。
この戦争を経てイギリスは、日本を手に入れることを断念。一方の日本も海外の力を思い知り、これからは外国からどんどん学ぶべきだとイギリスと友好関係を築いていきます。
そうして力を付けた薩摩藩士は、幕府討伐に歩を進め、明治維新の立役者としておおいに活躍することになるのです。
生麦事件、薩英戦争、そして明治維新へと続く薩摩を巡る物語。史実にもとづきクールに描いています。
4人のイギリス人が殺傷されたこの事件をきっかけに、日本史が劇的に変わったのだと痛感できる一冊です。
- 著者
- 吉村 昭
- 出版日
- 2002-05-01
上下巻に分かれており、上巻は生麦事件から下関の砲撃事件までの国内情勢が客観的な視点で描かれています。下巻は薩英戦争から明治維新まで。
本書の特徴は、史実にもとづきながらも目の前に光景が広がるような躍動感を覚える文章力。薩摩弁や朝廷言葉などもユニークで、飽きずに軽快に読めます。
まるで激動の幕末にタイムスリップできるような一冊です。
日本側から生麦事件を扱った作品が多いなか、本書はイギリス側の視点から描いた珍しい一冊です。
孝行息子と称される若き英国商人の悲劇をとおして、大国イギリスと小国薩摩藩の戦争にまで発展したこの事件。当時のイギリスから見た日本の様子もわかります。
- 著者
- 宮沢 真一
- 出版日
- 1997-09-01
作者の宮沢真一は英文学者でもあり、彼の熱心な研究の成果が本書に表れています。
外国から多くの商人が来日し、一獲千金を狙っていた時代に起きたこの事件は、突然訪れた悲劇以外の何ものでもありませんでした。犠牲になったリチャードソンの家族史や、商人たち4人の関係、遺族の顛末など細かい関連事項もわかりやすく載っています。
興味深いのは、「治外法権」の考え方。当時、大名たちには参勤交代を強いる代わりに、邪魔する者は斬り捨ててもお咎めなしという慣習がありました。
藩士たちは、外国人が行列を邪魔してこようものならば斬り捨てても平気だと思っており、実際幕府も外国人の扱いをどうするべきなのか決めかねていたのです。
リチャードソンたちには、紳士たるもの1度馬に乗れば騎士のような姿で乗っていなければならないという思いがありました。そして島津久光には、武士として威風堂々と行列を進めたい思いが強かったのでしょう。彼らの運命のいたずらのような出会いが、悲劇に繋がってしまうのです。
イギリス人の視点から、この事件を読み解いてみませんか。
東海道にある神奈川県の小さな漁村で起きた、日本を揺るがすほどの大事件。作者の松沢成文は、元神奈川県知事です。
幕末の侍たちが直面した危機をどうやって乗り越えたのか読み解けば、いまを生きるヒントになるかもしれません。
- 著者
- 松沢 成文
- 出版日
- 2012-06-12
見どころは、箱根にある「富士屋ホテル」の創業の裏話。意気盛んな幕末や明治維新に関わった偉人たちが、ホテルの創業で活躍したという事実が面白いです。
また幕末における日本と諸外国の関わりかたを知るうえでも、読む価値があります。生麦事件をきっかけに薩英戦争が起こり、しかしその後イギリスと同盟を結ぶことができたのは、ひとえに薩摩藩士の活躍があったからこそ。彼らの「気骨」な姿を体感してみてください。
薩摩藩士がイギリス人に無礼討ちをしたという事件ですが、生麦事件は攘夷運動が激化するきっかけとなったといっても過言ではありません。朝廷や一般大衆は、薩摩を英雄とし褒めたたえました。この後の日本の歴史を動かすことになる、知っておくべき内容です。