明治時代に行われ、自由と権利を声高に訴えた政治活動こそが、自由民権運動です。教科書ではわずか数行で終わるこの政治活動ですが、のちの日本に大きく影響を与えました。なぜ自由民権運動が加速したのか、開始から結末までわかりやすく説明します。
自由民権運動とは、旧士族や豪農、農民たちが中心になって行った自由を求める政治活動のことを言います。当時の明治政府の体制である藩閥政治に対して批判し、国民の政治参加や国会開設、立憲政体などを要求しました。
1873年に「明治六年の政変」がおこり、征韓論にて敗北した板垣退助や西郷隆盛、江藤新平などは政府を去りました。その後、江藤新平は佐賀の乱、西郷隆盛が西南戦争に向かうなか、板垣退助は言論という武器で政府へ訴え始めます。それが、民撰議院設立の建白書であり、自由民権運動のきっかけとなるものでした。
中心的な訴えは
「力づくではなく、言葉で国に請願しよう」 という人々が集まり、各地に広まった政治活動が自由民権運動です。
王政復古によって成立した当時の明治政府は、薩摩藩や長州藩が実権を握っていました。なぜかと言うと、幕府を倒すうえで最も功績をあげたのがこの二藩だったからです。ほかにも、土佐藩、肥前藩も新政府の第二中心的の藩でした。この、薩長土肥の四藩中心の政治体制を藩閥政治といいます。
藩閥政治が始まると、国民の意見をないがしろにすることが増え、次第に周りからも批判が集まりだします。とくに、土佐藩などの士族は、薩長メインの藩閥政治に対して不平を抱くものが増えていきました。
そんなとき、板垣退助や後藤象二郎などが、1874年に民撰議員設立の建白書を明治政府に提出します。この建白書の提出から、自由民権論が土佐を中心に始まり、各地に広がっていきました。
民選議員設立の建白書とは、国民が選んだ議員で政治を進めるべきだという申し入れです。そして自由民権論とは、人間はもともと自由であり、政治に対しても平等に参加する権利を有するという考え方のもとに生まれた議論です。
したがって、ついこの前まで政府の参議をしていた板垣や後藤が、急に政府批判をしだして、驚いた民もいたでしょう。 しかし、この建白書は藩閥政治に不満を持ち、民主的な政治を訴えていた士族や平民にとって大きな力となりました。
その後、阿波で自助社が結成されるなど各地で政治結社や出版社が生まれていきました。 板垣退助も、全国的な組織にするため大阪で愛国社をおこし、それぞれの政社は連合していったのです。
初めは藩閥政治に対する不平士族が中心になっていた運動でしたが、1877年に立志社が提出した「国会開設の建白書」によって少し変化します。
「国会開設の建白書」の内容は
の3点でした。
このわかりやすい要求が豪農にも受け、次第に商工業者や豪農、都市部の知識人などさまざまな人間が参加するようになり、運動が本格化していきました。さらに、1880年、愛国社は国会期成同盟という名の政治団体に変わり、明治政府に国会のすみやかな開設を要求しました。
そして1881年に10年後に国会を開く「国会開設の詔」という約束を明治政府にさせるほど運動は発展していったのです。その後、板垣退助は自由党を、大隈重信らは立憲改進党を議会に向けて結成したり、私擬憲法をつくったりと、なおも藩閥政府を批判し続けました。
しかし、政府主導のもと立憲政治を確立させるつもりだった明治政府による徹底的な弾圧が始まったことで、運動は徐々に変化していきました。
まず、その頃から、言葉による批判を諦め、実力行使で政府を転覆させようと考える一部党員による急進派が生まれだしました。そして、福島事件や加波山事件、秩父事件など各地で自由党員と農民による反対運動がおこり始めたのです。
自由党が解散した後も、元自由党員による諸事件が多くなる一方でした。過激さを増した自由民権運動は支持を失い、急速に衰退していったのです。
板垣退助は土佐藩出身者で、日本の民主主義の発展におおきく影響力をおよぼした人物の1人です。
江戸時代には西郷隆盛や大久保利通らと同盟を結び、戊辰戦争では新政府軍側として奮闘しました。そして廃藩置県(1871年)以降、明治政府のメインは薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通と長州藩の木戸孝允、サブとして土佐藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信という薩長土肥の出身者によって明治政府は構成され、良くも悪くも薩長の思いのままの政治体制でした。
しかし、1873年の征韓論によって大久保利通らと対立し、意見が受け入れられなかった板垣退助は西郷隆盛とともに政府から去りました。
土佐に戻った板垣は立志社を創設し、「民撰議院設立の建白書」を政府に提出し、自由民権運動を主導していきます。 彼は演説会を積極的に行い、日本各地で自由や権利について人々にかみ砕いて説明して回りました。この演説会のかいもあって、自由民権の結社数は2000を超えていたといわれています。
演説中に彼が暴漢に襲われたときに発言したとされる、「我死スルトモ自由ハ死セン」という言葉はあまりにも有名です。実際にこの言葉を叫んだのか明確ではありませんが、それでも世間に広まるのですから、いかに自由民権運動に命をかけていたのかいうことが理解できるでしょう。
自由民権運動の主導者であり、民衆の立場にたつ政治家として自由民権運動衰退後も、第2次伊藤内閣、第1次大隈内閣の内務大臣を務め、1900年に政界を引退しました。
自由民権運動と聞けば、武力を選ばずに言論の力で国民が総立ちで戦い、国会設立という民主主義を明治政府から得た、という尊い政治活動のように聞こえるでしょう。
しかし、実際はどうだったのでしょうか。
- 著者
- 松沢 裕作
- 出版日
- 2016-06-22
この本では自由民権運動に対して少々ドライな目で語られています。政治活動は理想の素晴らしさだけが大切なのではなく、いかに利益を掲げて多くの人を巻き込むかが重要なのだ、と。
肯定的に捉えられることが多い自由民権運動ですが、この著書では負の面を描くという新たな視点で論じています。
明治政府を揺るがすほどの国民を巻き込んだ政治運動における人々の苦悩と葛藤、そして熱意と希望を描いた一冊です。
自由民権運動史の研究の第一人者である安在邦夫が自由民権運動を簡潔にわかりやすく説明してくれています。
「民撰議院設立の建白書」や「国会期成同盟」など、言葉は聞いたことがあるが理解に自信がない、何が何だか分からない人にもわかりやすいため、入門書としてぴったりです。
- 著者
- 安在邦夫
- 出版日
- 2012-05-18
また、諸激化事件も含めた運動史の概要だけではありません。研究者がどのような視点や問題意識から研究しているのかという研究史についても触れており、自由民権運動に関する資料館や記念館の紹介もされています。
歴史認識民権運動史と研究史の両方に触れることができる、自由民権運動史を学ぶうえで欠かすことのできない必読書です。
社会の激動と混乱が深まる明治時代、西南戦争終結後から大日本帝国憲法の制定までを記した一冊です。
- 著者
- 牧原 憲夫
- 出版日
- 2006-12-20
「政府vs民権派vs民衆」という三者の対立構造を考察しているため、単純な闘争史観とは異なり、三者のベクトルのすれ違いがわかりやすく映し出されています。
したがって、例えば、政府に求める仁政の概念や世直し概念の相違など、読み進めるうちに、明治時代の日本が「なすべき課題」と「三者のズレ」が見えてくるようになるでしょう。
政治史、社会史、経済史、外交史、思想史など盛りだくさんの良書であり、また、史実の説明もわかりやすく、幅広く知りたいビギナーにおすすめです。
教科書ではわずか数行でしか描かれない自由民権運動。しかし、この運動には、新たな日本の秩序作りを模索・奔走した人々の熱意が表れています。
「日本はどのような道を辿って、作り上げてきたのか」現代の日本の礎ともなったこの時代の歴史を、今一度振り返ってみてはいかがでしょうか。