日露戦争の講和条約であるポーツマス条約。戦争で大赤字だったにもかかわらず、なぜ日本はロシアから賠償金をとらなかったのでしょうか。この記事では、条約の概要や世界からの評価、小村寿太郎について、そしておすすめの関連本をご紹介していきます。
1904年から始まった日露戦争。軍事的には優勢な状況を続けていた日本ですが、戦争赤字が続いていたため、本音をいえば長期戦を避けたいところでした。
一方のロシアも、「血の日曜日事件」による第一ロシア革命が国内で起こり、戦争中にもかかわらずロマノフ王朝そのものが危ない状態。
そんななか日本海軍がロシアのバルチック艦隊に勝利したのを機に、1905年9月に日本とロシアがアメリカのポーツマス海軍造船所にて結んだ講和条約が、ポーツマス条約です。
日本側全権は小村寿太郎、ロシア側全権はセルゲイ・ウィッテ。国内財産の限界を感じていた日本と、国内の混乱が大きくなり戦争どころではなくなったロシアとの手打ちに近い条約でした。
条約を締結したことにより、日露戦争は終結。日本は以下の権利を獲得しました。
・朝鮮半島(大韓帝国)における日本の優越権
・旅順と大連の租借権
・ロシアが満州に敷いた東清鉄道の一部の利用権
・北緯50度以南の樺太・沿海州、カムチャッカの漁業権
当時の国家予算の7倍にあたる約20億円を、戦費として1年半で使い切った日本。疲弊している国民にとって、ロシアから1円も賠償金をとれないのは、かなりの打撃でした。
講和条約を結んで帰国した小村寿太郎を待っていたのは、条約反対運動で盛り上がる国民からの激しいバッシングでした。
当時の通例は、戦争で勝った国は負けた国から賠償金を支払ってもらうというもの。強国ロシアに挑んでいるあいだ、有名新聞社は戦争支持を叫び、軍事費を捻出するために国民は苦しい生活を余儀なくされていました。そんな彼らの支えになっていたのが、「戦争に勝てばロシアからお金を払ってもらえる」という考えだったのです。
しかし実際には、1円も支払われないという結果に。この事実を国民が知ると、各地で暴動が起こるようになります。条約反対派の運動が徐々に広がり、怒った民衆の一部は暴走して新聞社やキリスト協会などに放火や襲撃をくり返します。
内閣総理大臣官邸などが襲撃された「日比谷焼き討ち事件」も、条約反対運動のひとつです。
しかしポーツマス条約は、世界から高く評価を受けています。アメリカは、強引な中国侵略を進めるロシアを嫌っていました。そのため日露戦争自体は日本を応援していましたが、いざ日本が優位に立つと、今後の東アジアへの影響力を懸念しはじめたのです。
ロシア、日本双方に脅威を抱いたアメリカは、講和条約を締結するタイミングを見計らっていたのです。最終的には停戦を仲介したとして、大統領のセオドア・ルーズベルトがノーベル平和賞を受賞しました。
また、トルコ、エジプト、インド、フィンランド、ポーランドなどは、日本海軍がバルチック艦隊を破ったことに歓喜。インド人の歴史家ビパン・チャンドラはこう伝えています。
「日本軍によるロシアの敗北は、ヨーロッパの優越という神話をくつがえした、ちっぽけなアジアの国がヨーロッパにおける軍事大国のひとつに勝利したというニュースを熱狂的に聞いた。」(『近代インドの歴史』より引用)
インドネシアの歴史の教科書にはこのように記されています。
「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた」(『インドネシアの歴史』より引用)
日本の戦いは、世界に大きな衝撃を与えていたのです。
1855年に宮崎県で生まれた小村寿太郎。ハーバード大学ロースクールを卒業し、帰国後に司法省に入省。1884年に外務省へ転出し、1901年には第一次桂太郎内閣の外相に就任しました。
就任後は「日英同盟」を積極的に主張し、1902年に締結。日露戦争が勃発すると、ポーツマスでおこなわれる講和会議に、日本の主席全権として臨みます。
会議自体は数週間続き、ロシアがなかなか賠償金と領土割譲に応じないため、一時は決裂する可能性もあったのだとか。無事に妥結されると、小村は男泣きをしたそうです。
賠償金を受け取れないことに不満が募った国民からバッシングを受けたにもかかわらず、1908年には第二次桂内閣の外相として再任。1911年には日米通商航海条約を結び、日本の関税自主権を取り戻します。そして同年の11月、まるでやるべき仕事をやりきったかのように、静かにこの世を去っていきました。
- 著者
- 吉村 昭
- 出版日
日本海海戦での勝利に国中が沸くなか、ロシアとの講和条約締結のために全責任を背負って交渉の場へ赴く小村寿太郎。彼は大国ロシアとさまざまな駆け引きをしながら交渉を進めていきます。
ポーツマス条約は、彼の力不足のせいでロシアからの賠償金が得られなかったという見解がよくありますが、対露だけでなく、英米仏独を巻きこんだ駆け引きがあり、複雑な国際関係のなかで彼は日本代表として戦っていました。
本書は小説ですが、彼がいかに我慢強く、理路整然と交渉を進めていったかがわかるはずです。日本の将来が決まるといっても過言ではない条約の交渉に、威信を懸けて挑んでいった小村の生きざまを感じられます。
- 著者
- 前坂 俊之
- 出版日
- 2010-04-01
日露戦争開戦決定後、すぐにアメリカに派遣されて、巧みな話術と行動力でアメリカ世論を工作したのが、金子堅太郎という男性です。公的には政府を介していませんでしたが、本書を読むと彼が「外交」をしていたことがわかります。
日露戦争は、必ずしも武力のみの戦いではありませんでした。マスコミ力や攪乱運動、火薬などの科学技術力、資金調達活動などさまざまな要素が絡んでいたものでした。
これらの活動が欧米各国の思惑と一致していたからこそ、日本は支えられ、大国ロシアと戦うことができたのです。外交とは「個人対個人」の対話の中に存在するということを表明した金子堅太郎の活躍がうかがえる一冊です。
- 著者
- 岡崎 久彦
- 出版日
- 2003-05-02
小村寿太郎の人生を通じ、日露戦争や韓国併合などの外交史を描いた一冊です。当時の時代背景を知るのにも大いに役立つでしょう。
決して順風満帆な外交とはいかないながらも尽力した小村の生涯と、明治維新から40年ほどで「世界の一等国」の一員入りを果たした日本の過程が客観的に描かれています。文章も面白く、一気に読めておすすめです。
大国ロシアと講和条約を結んだことで、世界各国に対しても「日本」という国を知らしめたポーツマス条約。小村の粘り強さと巧みな交渉術によって、日本は侮れない国だとアメリカにも認識させる結果になりました。