5分でわかる承久の乱!誰と誰の戦い?六波羅探題などわかりやすく解説!

更新:2021.11.12

鎌倉時代の中期、京で後鳥羽上皇らの朝廷が挙兵し、国政を揺るがす戦乱となりました。なぜ上皇たちは戦を起こしたのでしょうか。この記事では、承久の乱の概要や、後鳥羽上皇、北条政子についてわかりやすく解説し、あわせておすすめの関連本もご紹介します。

ブックカルテ リンク

承久の乱の概要を簡単に説明。後鳥羽上皇VS北条義時

 

1221年に日本で起こった、朝廷と武家政権による初めての内乱を「承久の乱」といいます。京都にいた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が、土御門上皇(つちみかど)、順徳上皇(じゅんとく)と協力して、鎌倉幕府を執権している北条義時(よしとき)を打倒しようと挙兵したことがきっかけとなりました。

当時は、北条氏を中心とした武家集団が主に東日本を勢力下に、そして天皇側が主に西日本を勢力下におく二頭政治が続いていました。後鳥羽上皇は天皇家の実権回復を望み、幕府方の京都代官を攻め殺して挙兵に踏み切ったのです。

まず後鳥羽上皇は、朝敵として義時を追討する「院宣(いんぜん)」を全国各地の実力者に送りました。

鎌倉にいる武士たちは、朝廷直々の命令をおそれて動揺しましたが、初代将軍だった源頼朝の正室である北条政子のもとで結束します。そして政子を筆頭に京都に進軍する強硬策をとりました。道中でも多くの武士が参加し、鎌倉幕府軍はおよそ19万人の大軍に膨れ上がったそうです。

一方の朝廷側は、院宣の影響力を信じて幕府軍の動きを甘く見ていたため、進軍を知って慌てます。しかし対応が後手にまわり、各地で幕府軍に敗れて京都を占拠をされてしまいました。後鳥羽上皇は院宣を取り下げ、降伏することとなります。

その後彼は現在の島根県である隠岐島に配流され、これ以降鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、統制が強化されていきました。

 

承久の乱で幕府軍を導いた北条政子

 

鎌倉幕府軍を統率した北条政子は、現在の静岡県である伊豆国の出身。父親は北条時政で、北条家は代々小領主を務めていました。

1160年に京都周辺で起こった「平治の乱」で源義朝(よしとも)が平清盛に敗れ、子どもの頼朝(よりとも)が伊豆に流罪となると、その監視役となります。しかし政子は頼朝に惚れてしまい、2人は恋愛関係となりました。

当初は父親の時政も怒ったものの、政子の意思に負け、これ以降頼朝の勢力拡大に協力するようになるのです。

長い戦乱を経て武家を制圧した頼朝は征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きます。政子もその夫人として絶大な権力を行使しました。

頼朝の死後は、息子である頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)の後見役として幕府を仕切ります。しかし彼らが暗殺されてしまい、源氏の直系は途絶えてしまいました。すると京都から公家の子息である2歳の藤原頼経(よりつね)を招いて傀儡将軍に据え、実質的には幕府の実権を握っていくのです。

このような行動から悪女の代表とされ、「尼将軍」と呼ばれることもある政子ですが、当時の人々からの信頼は厚かったよう。承久の乱が起きた際は家来衆の前で演説をし、彼らの動揺を落ち着かせて、幕府軍を率いて勝利に導きました。

演説の際の「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という言葉は、現代にも伝わっています。

 

承久の乱後はどうなった?京都に六波羅探題を設置

 

後鳥羽上皇が降伏して承久の乱が収束すると、朝廷方の多くの公家が処刑されたり流罪となったりしました。武士も多数処分されています。

彼らが所有していた土地も没収され、その大半が鎌倉幕府方の御家人に分け与えられることになりました。

さらに幕府は、西日本一帯の監視を強化するために「六波羅探題」という機関を新たに設置します。幕府の出張所のようなもので、親幕府派の公家を要職において朝廷を主導していきました。その結果、朝廷は完全に幕府の監視下に入ることになります。

また、多くの鎌倉の武士たちが西日本に移り住み、幕府の影響力は京都周辺にも強く及ぶようになりました。

 

史料を通じて後鳥羽上皇に迫る

 

本書は、後鳥羽上皇が詠んだとされる歌を収めた史料を中心に、幕府との協調をあきらめて武力路線への道を選び、その結果隠岐に流されることになってしまった彼の姿に迫った一冊です。

 

著者
関 幸彦
出版日
2012-09-01

 

著者は、後鳥羽上皇が鎌倉の武士に官職を与えて調教しようとしたものの、朝廷と親しかった源実朝の死によって計画が行き詰まり、幕府との対立が深まってしまったと分析しています。

また上皇は、皇位の象徴である「三種の神器」が揃わないまま即位したことにある種のコンプレックスを抱いていて、権威回復に執着していたという精神的な一面もわかるでしょう。

バックボーンの説明が丁寧で、どのような背景を持った者たちがどのように戦ったのかが詳細にわかる内容になっています。

 

漫画で学ぶ承久の乱

 

石ノ森章太郎の「マンガ日本の歴史」シリーズ。源頼朝が亡くなった後、鎌倉幕府では実力者たちの内紛が頻発していましたが、そこで北条政子がどのように動いたのかがわかりやすく記されています。

 

著者
石ノ森 章太郎
出版日
1997-09-01

 

政子は頼朝の死後、長男の頼家を補佐し、実弟の義時や父の時政の協力も得ながら幕政を仕切っていきました。その一方で、妻であり、母である彼女の一面を垣間見ることができるでしょう。

承久の乱後にはじまる「執権政治」への繋がりも理解することができます。

 

日本史を学んでいくと、「~の乱」というものが数多く登場します。ひとつひとつを掘り下げていくと、より歴史への理解が深まるのではないでしょうか。

  • twitter
  • facebook
  • line
  • hatena
もっと見る もっと見る