日本とロシアがあわや戦争に発展するのではないかと思われた「大津事件」。当時の最高裁判所長官の判断によって、日本は国の尊厳と規範を維持したまま穏便に解決することができました。この記事では、事件の概要や関係者についてわかりやすく解説し、あわせておすすめの関連本も紹介していきます。
1891年5月11日、日本を訪問していたロシア帝国の皇太子・ニコライ2世が、警備を担当していた警察官に斬りつけられる事件が起こりました。滋賀県大津町が現場だったことから、「大津事件」と呼ばれています。
ニコライ2世は頭部に傷を負いましたが、命に別状はありませんでした。犯行に及んだ津田三蔵(つださんぞう)はその場で逮捕されています。
被害にあったのは大国ロシアの皇太子。事件の詳細はすぐに明治天皇に上奏されました。
天皇はその後、京都に移動したニコライ2世の見舞いに赴き、帰国する皇太子を神戸まで見送ります。この対応にロシア側は好印象を受けたようでしたが、一方で予定されていた東京訪問は諦めざるをえませんでした。
小国の日本が大国ロシアの皇太子に傷をつけたこと、そして東京訪問が中止されたことを受けて、世間では「ロシアが開戦の準備をしている」という噂が流れるようになりました。一般の女性が「ロシアに詫びる」として自殺をする事件も起きています。
さらに外務大臣の青木周蔵が、ロシア公使に「もし皇太子に危害があった場合は皇室罪を適用する」と密約していた事実も明らかになり、津田をどう裁くかが政府内でも大きな議論となりました。
当時首相だった松方正義(まつかたまさよし)などは、死刑にすべきだと主張。元老だった伊藤博文も死刑に反対する意見があれば戒厳令を発する可能性があると述べます。
しかし大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙(こじまいけん)は、「津田の起こしたことは許されないが、外国や政治の圧力に屈して法を曲げることは国としてあるまじきことだ」としました。
事件の発生から16日後、津田に下された判決は、一般人に対する謀殺未遂罪で無期懲役。一方事件の責任をとって、ロシアにおもねる態度をとっていた外務大臣の青木周蔵、内務大臣の西郷従道(さいごうじゅうどう)、司法大臣の山田顕義(やまだあきよし)が辞職しました。
この事件をきっかけにして、内閣の裁判への過干渉が問題となり、「司法」「行政」「立法」の三権分立が議論されるようになっていったのです。
津田三蔵は、西南戦争に参加し受勲したこともある元軍人。しかし戦争で精神を病んでしまい、入退院をくり返していました。その後警察官となりましたが、同僚と暴力事件を起こすなど勤務態度には問題があったようです。
当時のロシア帝国は、極東進出を計画しシベリア鉄道を建設。中国北東部、朝鮮半島、そして日本を侵略すると意思表示していました。しかも西郷隆盛が実は西南戦争で亡くなっておらず、中国大陸に逃れて再起を図っていてニコライ2世の来日と同時に帰還するという噂があり、津田は彼が戻ってくれば自分の勲章が取り消されてしまうのではないかと恐怖心を抱いていたようです。
実際はニコライ2世自身は日本を愛しており、友好関係を築くために来日したそうですが、津田はロシアに対しても不満を持っていたため、事件を起こしました。
事件後の取り調べに対しては、殺すつもりはなく一太刀浴びせて終わらせるつもりだったと供述しています。一個人の感情が国の一大事に発展するとまでは考えていなかったのでしょう。
児島惟謙(こじまいけん)は、1837年に伊予国宇和島藩の下級藩士のもとに生まれました。実家は極貧で幼少期から奉公人として各地を転々としていたそうです。
後に脱藩して長崎の坂本龍馬と交流を持ち、1868年に戊辰戦争に参加。明治になってからは司法省に入って、関西法律学校の創立にも貢献。後に大審院院長となって大津事件の判決を下します。
優秀な経歴に見えますが、その一方で法律で禁止されている花札賭博を好んでいて、大津事件の翌年に弾劾されます。現行犯ではなかったため証拠不十分で不起訴になりましたが、これによって大審院を辞職しました。
原告が伊藤博文と山縣有朋(やまがたありとも)ら元老であったことから大津事件に対する報復だとする説もありますが、何にせよ児島が賭博を認めたのは事実。それ以降司法の場に現れることはありませんでした。
その後は貴族院議員、衆議院議員を歴任し、1908年に咽頭結核で亡くなっています。
発生直後から多くの議論を呼んだこの事件ですが、先駆けとなったのは自らも大審院判事を務めていた尾佐竹猛(おさたけたけき)の研究です。
「憲法とは何か」という問いからはじまる彼の研究は現在でも一読の価値あり。事件について調べる際には最初に読んでおきたい一冊です。
- 著者
- ["尾佐竹 猛", "三谷 太一郎"]
- 出版日
- 1991-04-16
本書は尾佐竹の研究論文をそのまま収録していますが、そこから読み取れるのは児島ら大審院の非藩閥的な性格と、伊藤博文に対する批判でした。
司法と行政の対立、または行政の干渉によって憲法が脅かされるというのは当時からあった問題で、現代でも注目されるべき事柄です。法の問題点にいち早く気付いた研究として価値が高いでしょう。
結局、はっきりとした犯行の動機を語ることなく服役中に亡くなってしまった津田三蔵。彼の人生は決して恵まれているとは言い難いものでした。
本書は、津田の戦争従軍経験に特に注目し、明治日本のなかで生きたひとりの男性の生涯に迫ります。
- 著者
- 富岡 多惠子
- 出版日
- 2011-10-15
津田個人のことをここまで緻密に調べた書籍はほかにないのではないでしょうか。ある種のドキュメンタリーのように読むことができるでしょう。
三権分立が成立するための美談としても語られることの多い大津事件ですが、時代の影に埋もれてしまった津田を知ることのできる貴重な一冊です。
発展途上の明治日本にとって、大国ロシアと互角にわたり合うことは想像し難いこと。そんななかで皇太子が来日するというのは、絶対に失敗のできない一大イベントでした。
そこで大津事件が起きてしまいます。
日本国の存在意義を示したい司法と、外交上のリスクを避けたい高官の思惑が交錯する時代を、本書は鮮明に描いています。
- 著者
- 吉村 昭
- 出版日
- 1996-10-30
外国の皇太子を負傷させてしまうという想定外の事態に、児島惟謙ら司法の面々が示したのは、「法治国家たるべき処理」という大国に媚びない姿でした。
「国とは何か」ということを考えさせられる歴史小説です。
弱腰外交、ご都合主義と揶揄されて久しい現代日本ですが、世界とわたり合うために必要なのはご機嫌取りではなく責任と毅然とした態度なのだということがわかります。歴史を学ぶ意義のひとつとして、同じ失敗をくり返さないことというのがありますが、大津事件はとりわけその点に優れているのではないでしょうか。