過激な倒幕派の代表格として影響を及ぼした長州藩。毛利家を藩主として吉田松陰や高杉晋作が活躍し、近代国家の礎を築きました。この記事では、活躍した藩士や薩摩藩との関係などをわかりやすく解説し、おすすめの関連本をご紹介していきます。
現在の山口県にある周防国と長門国を領国としていた長州藩。藩主は毛利家です。吉田松陰の私塾で学んだ多くの藩士が倒幕運動に参加し、日本の将来のために奮闘しました。
藩祖の毛利元就(もうりもとなり)の孫である輝元(てるもと)は豊臣秀吉に仕え、安芸・周防など中国地方10ヶ国にまたがる約112万石を有する大藩でした。西軍として参加した1600年の「関ヶ原の戦い」で敗北し、嫡男の秀就(ひでなり)に領地を与えます。実質上の初代藩主は輝元ですが、形式上は秀就とされています。
関ヶ原後の財政は厳しく、百姓や商人になった武士たちもいたそうです。
幕末になると、藩内は保守派と改革派が毎年入れ替わるほど政権が不安定に。1836年に最後の藩主となった敬親(たかちか)は、家臣の意見には反対しないという統治スタイルで、政策を委ねていました。
家老の村田清風(せいふう)がおこなった「天保の改革」では、諸外国との交易や新田開発などにより100万石の収入を上げ、討幕の資金となりました。
豊臣秀吉に仕えいていた毛利家。1591年にはおよそ112万石を有していましたが、関ヶ原の戦いで敗戦した後は領地が4分の1ほどになります。財政難のどん底からスタートした藩でした。
1831年には、10万人を超える農民が参加した「天保一揆」が勃発。各地で百姓一揆が起こるなか、1833年には「天保の大飢饉」も起こり、さらに困窮しました。民衆の間では女子供を奉公という形で売ってしまうこともあったそうです。
飢饉だけでなく藩の負債も膨れ上がります。1836年に毛利敬親が藩主となると、村田清風を登用し、このころから「雄藩」として力をつけていきました。
税を課すために藩専売だったろうそくや紙などの特産物売買を商人にも認め、下関には貿易商社の役割をする「越荷方」を設置し収益をあげていきます。
一方で長州藩は、人事育成に熱心でした。1719年に5代藩主の吉元が全国で12番目の藩校である「明倫館」を創設。受講資格は一定の身分がある藩士の弟子のみでしたが、そこで学んだ者が自ら郷校や私塾を開き、そこで学んだ者が寺子屋を開いて庶民に教えるという教育のサイクルができあがります。
1842年には吉田松陰の叔父にあたる玉木文之進(たまきぶんのしん)が「松下村塾」を創立。幼い松陰を厳しく教育します。「国を支えるは人である」という考えを強くもった藩でした。
1858年に「安政の大獄」で勝因が捕縛されると、過激な尊王攘夷運動を展開するようになります。「池田屋事件」「蛤御門の変」などを経てどんどん討幕に傾いていきました。
1866年に「薩長同盟」を結び、第二次長州征伐で幕府軍に勝利すると、薩摩藩とともに明治維新を主導。1857年に江戸幕府が崩壊した後の明治新政府では「藩閥政治」をおこない、近代国家の基礎づくりに貢献しました。
吉田松陰
1830年に杉常道(すぎつねみち)の次男として生まれ、5歳ごろから叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で学びはじめます。9歳で「明倫館」の兵学師範に就任しました。
彼の頭の良さは「武教全書」という戦法を弱冠11歳で藩主の敬親の前で講義したほどで、萩中に名が知れわたりました。「明倫館」の教授に就いたのが19歳の時。その後江戸の佐久間象山(しょうざん)のもとで学び、脱藩して東北視察へ向かいました。
1853年のペリー来航をきっかけに国防意識を強く抱き、ロシアやアメリカへ密航を企てます。計画がバレて自主すると、萩の獄中で「孟子」の講義を始めました。その後は松下村塾を継ぎ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋など幕末に活躍した面々を教育します。
しかし、老中の間部詮勝の暗殺を企てたことや、倒幕の動きを危険視されて投獄され、29歳で処刑されました。
高杉晋作
1839年、長州藩の上級武士であった高杉小忠太の長男として生まれ、1857年に久坂玄瑞の薦めで松下村塾に入塾。松陰の思想に惹かれて猛勉強を重ね、「松下村塾四天王」と呼ばれるほど優秀だったそうです。
1862年には、幕府の随行員として中国の上海へ留学。数ヶ月後に帰国すると、尊王攘夷運動に参加します。町人など身分に関わらず参加できる攘夷を目的とした「奇兵隊」を結成しました。
1863年のイギリス公使館焼き討ち事件など過激な運動の中心となり、「下関戦争」にも参加。アメリカ、イギリス、フランス、オランダとの和議交渉や、薩長同盟、第二次長州征伐などで重要な役割を果たしましたが、肺結核のため27歳という若さでこの世を去りました。
木戸孝允(桂小五郎)
1833年、長門国の藩医の家に生まれました。7歳で桂家の養子となり、武士の身分を得ます。
1846年に剣術道場に入り、剣豪としてめきめきと腕を上げていきました。一方で吉田松陰からは兵法を学び、文武両道を地でいく人物だったそうです。
1853年のペリー来航をきっかけに海外に興味を持つようになり、その一方で日本の未来を案じます。尊王攘夷を掲げる他藩との交渉役として奔走しました。
彼の最大の功績は、1866年に「薩長同盟」を締結したことでしょう。坂本龍馬のみが目立ちますが、反対する長州藩の志士たちの説得に努めた彼の功績は大きいものがあります。
明治新政府では多くの要職を歴任し、参議に就いた際は「版籍奉還」と「廃藩置県」に尽力。しかし大久保利通が内務省を設立して以降は中心権力から外されるようになりました。
1874年の「台湾出兵」に反対して参議を辞職。晩年は病気がちとなり、西南戦争中の1877年に43歳で亡くなりました。
坂本龍馬の仲介で結ばれた「薩長同盟」ですが、それまでの両者は険悪な状態でした。なぜ彼らは同盟を結んだのでしょうか。
1853年以降、世間では尊王攘夷思想が大流行します。長州藩も吉田松陰が斬首されたことなどを受けて、過激な攘夷思想を展開していました。
一方の薩摩藩は、朝廷と幕府が一体となるべきだという「公武合体(こうぶがったい)」を掲げ、会津藩と同盟を結びます。
会津藩は京都守護職を幕府から承り、新選組を京都の警護に当たらせ、「池田屋事件」や「八月十八日の政変」などで多数の長州志士を斬っていったのです。
長州藩は、会津藩と薩摩藩に怒りが収まりません。
そんななか、「第一次長州征伐」で総督を務めていた西郷隆盛は、勝海舟から「外国の言いなりで弱体化している幕府よりも、力のあるいくつかの藩で国政を仕切るべきだ」と説かれるのです。これをきっかけに薩摩藩は、長州藩を存続させるべきだと考えをあらため、「公武合体」から討幕へと思想を移していきました。
この時長州藩は、幕府からの弾圧や下関戦争などでボロボロの状態。また薩摩藩も討幕のリーダーとして表立ちたくはなかったので、両者の思惑は一致。坂本龍馬や中岡慎太郎らが仲介をし、1866年に「薩長同盟」が結ばれました。
この同盟によって武力を回復した長州藩に、幕府軍は完敗。世間は一気に討幕へと傾きます。その後徳川慶喜よっておこなわれた大政奉還や王政復古の大号令によって江戸幕府は崩壊。旧幕府軍の会津藩が朝敵の汚名を着せられながら新政府軍と戦う「戊辰戦争」へと進んでいきました。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
- 2003-03-10
吉田松陰や高杉晋作らを中心に、幕末の英雄たちを描いた司馬遼太郎の歴史小説。
彼らの人柄はもちろんのこと、長州藩の考え方や伝統なども記されているため、当時の空気を感じることができるでしょう。
時代の渦に巻き込まれるかのようにゆっくりと場面が進んでいくため、幕末の長州藩をもっともかき乱した2人の成長する姿をしっかりと観察できます。
- 著者
- 原田 伊織
- 出版日
- 2017-06-15
本書では、明治維新をさまざまな角度から検証。「歴史は勝者によって創られ、敗者は封じ込まれる」という事実を考えさせられる一冊です。特に幕末の歴史は偏向されたものがまかり通っているとのこと。
教科書などの固定観念から離れ、歴史を学ぶ姿勢を見直すきっかけになるでしょう。
過激な倒幕運動のためどこか野蛮なイメージがある長州藩ですが、教育水準が高く、身分の低い者も学べる環境を整えていました。長州藩で育った人物の歴史をひも解いてみるのもよいでしょう。