南アフリカでおこなわれた、白人以外の人種に対する隔離政策。国家規模で差別を正当化し、長期にわたって黒人ら有色人種を苦しめました。この記事では、アパルトヘイトの概要と内容、始まった理由、ネルソン・マンデラについてわかりやすく解説し、おすすめの関連本もご紹介します。
アフリカーンス語で「分離」という意味をもつアパルトヘイト。白人以外の人種の政治的・社会的権利を奪い、居住区まで指定した差別的政策です。
南アフリカでは長期にわたって施行され、その対象となったのは黒人のほか、インド人やパキスタン人などの有色人種。国家の予算を減らすため、安くて大量の労働力を確保しようと限定的な居住区に押し込み、白人の絶対的優位を示しました。
そもそも南アフリカで政権を握っていた白人は、かねてからそこに住んでいたわけではありません。植民地としてオランダからイギリスに譲渡されたことをきっかけに、白人の人口が徐々に増えていき、実権を握りはじめたのです。
彼らは自分たちに有利な法律を制定し、白人以外の人種を差別することで、南アフリカでの立場を向上させていきました。
アパルトヘイトの背景には、南アフリカの発展に大きく影響を与えた鉱山の開発があります。1860年代に世界最大の金脈が発見され本格的な開発がスタートしましたが、鉱石が地中深くに存在していたため、採掘と運搬のために大量の人手と時間を必要としていました。労働者の確保が最大の課題となっていたのです。
これを解消するために制定されたのが、「グレン・グレイ法」というもの。黒人の共同利用の禁止、黒人を一定地域に集める、1年間のうち3ヶ月以上雇用されていない黒人には課税する、などを取り決め、労働力を得ようとします。
この法律はグレン・グレイ地方でのみ通用するものでしたが、アパルトヘイトの原点ともいわれ、1910年に南アフリカ連邦が成立して以降も、同様の意図をもった法律がさまざまな場所え制定されました。
その後、1913年に制定された「原住民土地法」では、人口の大多数を占めていた黒人を南アフリカ全土の9%ほどの土地に居住するよう制限。さらに、第二次世界大戦後におこなわれた総選挙でオランダ系白人が所属する国民党が勝利したことで、「アパルトヘイト」という政策のかたちが次々と固められます。
こうして南アフリカは、人種隔離国となっていったのでした。
政策の内容の特徴は、白人の優遇と有色人種への制限です。
白人に対しては、
・参政権
・環境のよい居住区
・高いレベルの教育
・衛生管理と医療設備が完備された施設
これらが与えられるような法整備がおこなわれ、また給料も黒人の6倍から21倍もの額を支給されていたそうです。
一方の黒人や有色人種へは、
・参政権のはく奪
・異なる人種間の恋愛、結婚の禁止
・居住地域の限定、分離
・身分証明書の携帯の義務付け
・施設の利用の制限
などの措置がとられます。
アパルトヘイトによって、「裕福な白人」と「貧しい黒人・有色人種」という二極化が進行していきました。
この政策をとくに後押ししていたのが、白人のなかの貧困層たち。彼らの間では排他的思想が蔓延し、自分たちが貧しいのは黒人のせいだという意識を強く持つようになっていたのです。
人種差別が国家的政策として長期にわたり実行されたのは、富裕層だけでなく、貧困層の白人までもが加担したことが大きく関係しています。
1918年に、南アフリカのクヌ村という場所で首長の息子として生まれたネルソン・マンデラ。幼少期から部族社会の闘争の歴史などを学び、また洗礼を受けてキリスト教徒として育ちました。
1944年、「アフリカ民族会議」という政党に入党したことから、彼の反アパルトヘイト運動は本格化していきます。黒人のみが義務付けられていた身分証明書を焼くなど非暴力を貫いていましたが、1962年に武装闘争路線に変更。たちまち国家反逆罪で逮捕されました。
ここから彼は、30年近くもの長い期間、牢獄生活を送ることになります。
刑務所内では、アパルトヘイトを主導していたアフリカーナーの歴史や言語を学んだり、少佐が好んでいるラグビーを勉強したりし、相手への敬意の姿勢を崩さなかったそう。
1990年に釈放されたときは、およそ70歳。ケープタウンでおこなわれた釈放後の第一声には、10万人もの聴衆が集まり、祝福したといいます。
その後も当時の白人大統領デクラークとともにアパルトヘイト撤廃運動を続け、1993年にノーベル平和賞を受賞。1994年には南アフリカ史上初めてすべての人種が参加する選挙がおこなわれ、大統領に就任しました。
彼は「仕返し」というものをせずにアパルトヘイトを終わらせます。国際社会も多大なる賞賛を受け、2013年に95歳でその生涯を終えました。
マンデラは民族の和解を呼びかけ、協調を促し、格差の是正に努めました。土地改革として黒人と白人間の不平等なの配分を見直し、衛生施設など富の再配分を目指します。
しかし財源不足で所得の是正が追い付かず、社会犯罪は増えるばかりでした。
一方でスポーツにおいては、1998年に サッカーワールドカップ初出場。2010年にはアフリカ大陸で初開催を果たします。多くの雇用を生んでインフラの整備が進みました。
ただ現在もまだまだ貧困層は多く存在し、格差が無くなったとは言えません。さらに世界的に見ても犯罪がもっとも多い地域のひとつといわれるほど治安が悪く、多くの問題を抱えていることも理解しておかなければならないでしょう。
知られざるネルソン・マンデラのエピソードに触れながら、彼の忍耐力と寛容の精神をわかりやすく、中高生でも理解できるように言葉をかみ砕いて書かれています。
- 著者
- 筑摩書房編集部
- 出版日
- 2014-09-25
約30年間の獄中生活を経て、大統領に就任したネルソン・マンデラ。アパルトヘイトを廃止した後も、白人との共存を望み、すべての人に愛をもって接していました。
彼の知られざるエピソードに触れながら、忍耐と寛容の精神を解説しています。
また個人だけでなく、南アフリカと世界の関わりを流れに組み込んで記しているので、アパルトヘイトが生じることになった当時を知る入門書としてもおすすめできるでしょう。
- 著者
- デイビッド ウィナー
- 出版日
- 1991-12-01
南部アフリカ聖公会の大主教で、反アパルトヘイト運動に文字通り命をかけ、どんなに理不尽な目に遭っても最後まで非暴力を貫きとおしたデズモンド・ツツという人がいました。
アパルトヘイトというとマンデラのイメージが強いですが、1984年にノーベル平和賞を受賞するほど、反対運動の中心となっていた人物です。
本書は、文字が大きくて読みやすいうえに写真などの資料も豊富で、アパルトヘイトの流れを抑えながら ツツ大主教の人生がわかります。
いかなる人にも尊敬の念を忘れずに接する姿勢から、現代の日本にいる私たちが学べることも多いはずです。
- 著者
- 平野 克己
- 出版日
- 2009-12-09
日本貿易振興機構(ジェトロ)の駐在員としてアパルトヘイト前後の南アフリカを見てきた著者。
主に経済データを用いて、異なる人種間で共存する社会づくりの難しさと、グローバル化が加速する世界のなかの南アフリカを解説しています。
アパルトヘイト政策が廃止され、正当な権利を白人以外も得ることができた南アフリカ。しかし、権力者による搾取や政治的腐敗がやまない現状をみると、アパルトヘイトからの解放が必ずしもすべての解決にはつながっていなかったことがわかります。
生々しい現状を知る貴重な資料としておすすめ。彼らが抱える問題に、私たち読者はどのようなサポートをしていくべきなのでしょうか。考えるきっかけになるはずです。
国家規模でおこなわれた人種差別。その恐ろしさと危険性を、私たちはあらためて知る必要があるでしょう。