1339年から長期にわたっておこなわれた百年戦争。イギリス王朝とフランス王朝の、王位継承と領有権をめぐる争いです。この記事では、概要、原因、結末をわかりやすく解説し、かの有名なジャンヌ=ダルクをご紹介。ぜひチェックしてみてください。
百年戦争とは、1339年から1453年までのあいだ断続的におこなわれた戦争。フランスのヴァロワ朝とイギリスのプランタジネット朝がフランス王位の継承権をめぐって争いました。現在のフランスとイギリスの国境も、この戦いによってほぼ決められています。
序盤はイギリス軍が次々と勝利。その後黒死病と呼ばれるペストの流行や農民一揆などで、フランスは大混乱に陥るものの、1429年にジャンヌ=ダルクが立ち上がり、状況が一変。わずか10日ほどでイギリス軍を撤退させました。
その後は、シャルル7世にノートルダム大聖堂で正式に戴冠式をおこない、名実ともにヴァロワ朝の第5代国王を誕生させます。
そのまま勢いをつけて勝利を重ねていったフランスは、1453年、カレーを除く全土からイギリスを撃退し、百年戦争の終結を迎えました。
時は1066年まで遡ります。フランスの諸侯だったノルマンディー公がウィリアムがイギリスを征服し、ウィリアム1世としてイギリス国王に即位。ノルマン朝がスタートしました。この王朝は4代で途絶えましたが、次に開かれたプランタジネット朝もフランス貴族だったアンジュー伯アンリがヘンリー2世として即位します。
領土としてフランス北部のノルマンディー、西部のアンジューやギエンヌ地方などを次々と手に入れていきます。やがてイギリス王朝は、フランス国王よりも広大な領土を持つようになりました。
その後も、イギリスはフランス国内の領土を拡大を目指し、一方のフランスは自国全土の支配を目指します。
1200年代なかば、ノルマンディーをフランス国王のフィリップ2世が奪ったことで、対立が激化。イギリスは奪われた領地の奪還を、フランスはギエンヌ地方などのイギリス領地の奪還を目標としていきました。
当時のヨーロッパでは、このような領土問題はローマ教皇に仲介役を頼むのが通例です。しかし1309年に教皇庁がフランスのアヴィヨンに移されていたため、ローマ教皇はいずれもフランス人。イギリスは仲介を頼むことができません。このことが両者の対立をより一層激しくしました。
1328年、フランスで15代も続いていたカペー朝が断絶します。後継ぎは滞りなく生まれていたものの、次々と早死。フィリップ4世が亡くなったことで直系男子がいなくなってしまったのです。
フィリップ4世の甥がフィリップ6世として即位し、新しくヴァロワ朝が成立しますが、これに当時のイングランド王であるエドワード3世が意義を唱えました。彼の母親はフィリップ4世の娘なので、エドワード3世は前王の孫。自分に王位継承権があると主張します。
同時に、イギリス産羊毛の輸出先だった毛織物工業地フランドル地方へフランスが干渉、イギリス領ギエンヌ地方を没収宣言するなどし、さらに対立は激化していきます。
1337年にエドワード3世が挑戦状を発し、1339年に実質的な戦いがはじまりました。
当初は戦況を有利に展開していたイギリスですが、ジャンヌ=ダルクの登場で団結心と士気を高めたフランスは、勢いのままオルレアン要塞を解放。一気に形勢を逆転します。
1436年パリに入城、1450年ノルマンディー奪還、1453年イギリス領ギエンヌ地方のボルドーを占領。フランス全土からイギリス軍を排除して、長期にわたった戦争は終結しました。
その後、イギリスの領地が無くなったフランスでは、シャルル7世のもとで中央集権を強化。常備軍を設立し、官僚制を整備するなどします。また教皇からの独立を宣言して、国内の教会を王の支配下に置きました。
ただフランス領地だったナポリ王国は失っており、有力な諸侯だったブルゴーニュ公がイギリスと結託するなど、国力の低下は免れませんでした。
一方のイギリスは、プランタジネット朝が断絶し、フランス国内にあった領土も失っています。国内ではランカスター家とヨーク家の間で王位争いが激化し、「バラ戦争」という内乱が起こりました。これに巻き込まれて多くの諸侯が没落するなか、最終的にはテューダー家のヘンリー7世が国王に即位しテューダー朝を開いたことで収束します。
その後は王権反対派の貴族を処罰するために、国王直属の裁判所を創設するなど、絶対王政の基礎を築いていくのです。
1412年にドンレミ地方の農家の娘として生まれたジャンヌ=ダルク。信心深い性格で、それまでも数々の予言を的中させていたことから、「フランスを救い、王太子シャルルをフランス国王にしなさい」という神の声を聞くと、王太子シャルルに会うことを決意します。
彼に正当な即位権があることを主張した後、百年戦争にフランス軍として参戦しました。この時弱冠17歳。剣ではなく旗を持ち、オルレアンを包囲するイギリス軍に向かって、先頭に立って突撃します。
フランス軍はこの少女の姿に奮起し、見事にオルレアン要塞の奪還に成功しました。
その後も彼女は神の声の指示どおりに軍を進め、ノートルダム大聖堂でシャルル7世に載冠式をとりおこないます。
しかし1430年、ブルゴーニュ公国軍に捕らえられ、身元は敵国イギリスへ。1431年、異端者、悪魔崇拝者、男装をしていたことなどから死刑判決を受け、火あぶりとなります。わずか19歳のことでした。
- 著者
- 佐藤 賢一
- 出版日
当時のフランスとイギリスの複雑な事情をわかりやすく解説している一冊。「英仏百年戦争」とも呼ばれますが、この認識は間違っていて、この戦争が「英仏」をつくったと分析しています。
現在にまで続く国民国家を形成した一方、王冠は違えど同じフランス人同士の争いという一面も持っていた戦い。「国家」とはなんなのか、考えさせられるでしょう。
- 著者
- フィリップ コンタミーヌ
- 出版日
フランス中世史の権威である歴史家、フィリップ・コンタミーヌ教授による入門書。筆者は、「百年戦争」という言葉自体がフランスの教育用語として作られたもので、フランスの歴史観や政治観の影響を受けていると警鐘を鳴らしています。
翻訳もわかりやすい言葉で、理解しやすいでしょう。
- 著者
- マイケル ハワード
- 出版日
- 2010-05-01
ヨーロッパにおける戦争の歴史を記した本書。社会、政治、そして戦いの技術が互いに影響しながら変化していった流れを説明しています。
戦争というとどうしても負のイメージがつきまといますが、「戦争」と「平和」は正反対の位置にあるのか、それとも補完しあっているのか、再考してみる時がきていると主張。現在にも繋がっている国際情勢の理解を深めるのに必携の一冊です。
直接的な武力衝突はなくても、経済や政治力の面でイギリスとフランスの争いは20世紀初頭まで続きました。そのきっかけともいえる百年戦争について、これを機に理解を深めるのもよいのではないでしょうか。