皆さんは「教科書カフェ」というものはご存じだろうか。もちろんご存じのはずはない。なぜならそんなものはどこにも(多分)存在しないからだ。ではなぜ「教科書カフェ」なるワードが飛び出したかというと、実は私が3年ほど前から温めているカフェのアイデアだからだ。
文房具カフェとか給食居酒屋とかはどうやらあるみたいだけれど、店内で懐かしの教科書が読めて童心に帰ることができる教科書カフェは今のところ存在しないようなので、将来的にそんなお店を持てたらいいなーと甘ったれた脳味噌で思っている。なのでパクらないで頂きたい。出資者や従業員などは随時募集中。アイデアを出すこと以外何もできないので、一緒に夢を叶えよう!
教科書カフェでは全科目の教科書を取り揃えるつもりだが、中でも小学校の国語の教科書にはとても愛着があるというか、思い出が詰まっている。授業で強制的に読まされても面白くないのに、家に帰ってから勝手にまだ授業で習っていない作品を先に読むのが好きだった。勝手に先を読んでいるという後ろめたさと相まって、ドキドキしながら読んだ作品も数知れず。
そして思い出すのは、5月くらいの時期の国語の授業が好きだったこと。4月だとまだ新学期始まりたてでそわそわして授業どころじゃないのだけれど、1か月も経つと教室に慣れてきて、窓からさらりと吹き込む初夏の風と良い塩梅にチルってきた教室の倦怠感と、更に教科書を読み上げる先生の声が合わさってとても心地が良いのだ。
一つの正解を導くことに終始しがちな日本の教育については懐疑的ではあるし、その構成には何かしらのプロパガンダが含まれることもあったかもしれないが、教科書に収められた一つ一つの物語には罪はないというか、今読んでも素晴らしいと思える作品が沢山あると思うので、今回は小学校の国語の教科書で読んで印象に残っている物語を紹介する。
なお、福岡市の片田舎の小学校で十数年前に使われていた教科書のみが参照なので、皆さんの読まれていた教科書には入っていない作品ばかりかもしれないがご容赦頂きたい。
- 著者
- 安房 直子
- 出版日
小学校二年生か三年生くらいの教科書の一番最後に載っていた作品だったと記憶しているが、それまでに載っていた作品たちより明らかに文章量が格段に多く、学年最後のラスボス的な雰囲気を醸していたものの、挿絵が怪しくも優しい不思議な感じで惹かれてしまいやはり習う前に読んでしまった。
主人公はとある小さな町の歯医者さんで、ある日森の奥からお母さんねずみが虫歯を治しにもらいにやってきて、お礼にねずみたちの暮らす森に招待をして朝ごはんをもてなすという話だったと思う。
世の中には例えば池波正太郎のエッセイや群ようこの小説など、読んでお腹の空く本というものが沢山あると思うが、こどもから大人までもれなく垂涎必至の物語というのはそう見当たらないのではないか。このお話は紛れもなく誰しもが読んだら腹が減り、たまには早起きして手料理でも拵えてみようかしらと思わされるものだ。
時間の使い方は色々あるが、食事というのは基本的に一日三回で死ぬまでの間皆平等に限られているものだから、適当に済ましてはいけないというような旨の文章を書いていたのは誰であったか忘れたがその通りで、時間がないだのお金がないだので腹を満たすための作業になっていては人生の彩りを著しく欠く要因になり得る。
たまには朝ごはんじゃなくても、手料理じゃなくても、手間暇かけられた食事をできれば誰かと一緒にゆっくりととりたいものだ。ちなみにこのお話でねずみが作った朝ごはんの献立は、「ふっくりと炊きたてのご飯に、山うどの味噌汁。厚焼きの玉子に、菜の花のおひたし。つくしのごまあえに、たけのこの煮付け。そして最後に、さくらんぼが三つ」だそう。じゅるり。
- 著者
- アーノルド・ローベル
- 出版日
- 1972-11-10
言わずと知れたがまくんとかえるくんのシリーズ第一弾。大人になった今でも大好きで、洋書の方でも買ったほど。幼稚園の頃、母親に連れていかれた図書館の絵本コーナーで見つけて以来お気に入りだったので、小学一年生の教科書の中で再会した時は同じ幼稚園から別の小学校へ進学してしまった友達と久しぶりに会えたようなうれしさがあった。
当時はしっかりもののかえるくんに敬意を表しつつも、わがままでどんくさいがまくんの方に感情移入はしていたような気がするが、大人になってから読むとがまくんのフリースタイルっぷりにこいつ大丈夫か…...? と心配するようになってしまったのは、社会や常識というものに少なからず毒されてしまったからかと少し切なくなったりもする。
でもがまくんは視野の狭いところはあるけれど、結局かえるくんのことをとても大事に思っていることがいつもわかるから、毎回ほっこりしてしまう。地味な色使いだけれどそれゆえエバーグリーンな魅力を放つ挿絵もグッド。
余談だが、昔とあるリハーサルスタジオで販売していたとあるインディーズバンドのCDのタイトルが「ふたりはみずぜめ」で、がまくんとかえるくんがあのテイストで水責めに遭っているイラストがジャケットだった。
- 著者
- あまん きみこ
- 出版日
- 2005-11-01
これも教科書で読んで覚えている人は多いのではなかろうかという教科書界のドン的作品。短い文章の中で日常の風景も非日常の怪しさも、人物の躍動も初夏の匂いも全部伝わってくる。凝縮、というよりはもっと自然に、でも確かな形で。
主人公であるタクシーの運転手の松井さんが乗せた女の子がいつの間にかいなくなって、小さな団地の前の小さな野原で白いちょうが二十も三十も飛び交っている様子はある種の魔法のような光景だ。
加えて、その前に道路に落ちていた白いぼうしを拾い上げた時に、男の子が捕まえていたであろうもんしろちょうが飛んで行ってしまったことを気にかけて、代わりに夏みかんを入れて去ったことにより、その後ぼうしを拾いに来た男の子にとっては魔法としか思えない現象が起きているであろうことも対比として面白いし、実は世の中はこういった思いやりに満ちた人為的な魔法が連綿と連なっているのではないかと少し明るい気持ちになれる。白いちょうを眺める松井さんの耳にかすかに届く、
「よかったね。」
「よかったよ。」
「よかったね。」
「よかったよ。」
というちょうのささやきともとれる部分は非常に詩的で、そこから最後の文章が「車の中には、まだかすかに、夏みかんのにおいが残っています。」と場面がフェードアウトしていく感じが映画的でもあるし閉じていない優れた物語であることを決定づけているようにも感じる。
- 著者
- ["きむら ゆういち", "あべ 弘士"]
- 出版日
- 2014-09-02
小学四年生の頃にこの作品は教科書に登場して、クラスで人形劇までした記憶がある。小学四年生から六年生の間が我が人生の栄華を最も誇っていた頃だったので、事あるごとにクラスの出し物では漫才を披露したりしていたし、人形劇では主役であるヤギのメイ役を務めて甲高い声を出して爆笑をかっさらっていた。思い出したいような思い出したくないような、ともかくそんな頃に読んだ作品。
「あらしのよるに」では、植え付けられた先入観や常識というものが相互理解にとって大きな障壁となり得ることが示唆されていると思うが、この完全版ではその後のガブとメイのストーリーが綴られており、更に深くその難しさや尊さが描かれている。
そんな文学としての読み取り方は置いといても、真っ暗な小屋の中でお互いが自分と同じ種族だと思っているヤギとオオカミのやり取りはコミカルかつスリリングで、落語を聞いているような感覚もあり今読んでも十分に面白い。
完全版は読み応え抜群かつ生き方というものについて見つめ直すきっかけになるし、何よりあべ弘士さんの装丁がとても美しいので是非手に取って童心と今の大人の心を交差させてみて欲しい。
本と音楽
バンドマンやソロ・アーティスト、民族楽器奏者や音楽雑誌編集者など音楽に関連するひとびとが、本好きのコンシェルジュとして、おすすめの本を紹介します。小説に漫画、写真集にビジネス書、自然科学書やスピリチュアル本も。幅広い本と出会えます。インタビューも。