平安時代末期の1156年に起こった政変を「保元の乱」といいます。皇族や藤原氏に代表される公家が、当時急速に力をつけつつあった源氏や平氏などの武士の力を借りて争い、大規模な武力衝突が起こりました。この政変を機に、武士の存在感はますます大きなものへとなっていき、以降約700年間にわたって続く武士の時代の端緒となります。 この記事では、保元の乱が起こった背景と要因、その後1160年に起こった平治の乱との関係についてもわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの本も紹介するのでぜひご覧ください。
保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の1156年に起きた内乱です。発端となったのは、皇室における崇徳上皇と後白河天皇の兄弟による実権争いと、藤原摂関家の藤原忠通(ただみち)と藤原頼長(よりなが)の兄弟による争い。
両陣営が、当時着々と力をつけて存在感を増していた有力武士の、源氏と平氏をそれぞれ動員したことにより、大規模な武力衝突となりました。
政治の実権を握っていた鳥羽法皇が崩御すると、都である噂が流れるようになります。それは崇徳上皇と藤原頼長が兵を集め反乱を起こそうとしている、というものでした。
これを耳にした後白河天皇は、頼長が兵士を集めることを禁止し、さらに財産も没収します。その結果かえって追い詰められた崇徳上皇と頼長は、挙兵を余儀なくされます。この噂、実際は、後白河天皇の側近であった藤原信西(しんぜい)が陰で暗躍し、流したものでした。
崇徳・頼長側には、源氏の棟梁であった源為義(ためよし)やその息子の源為朝(ためとも)、平氏からも清盛の叔父である平忠正(ただまさ)らが加わります。
一方で後白河天皇・藤原忠通側には、為義の長男で為朝の兄である源義朝(よしとも)、そして当時もっとも有力な武士だといわれていた平清盛がつきました。
保元の乱は、皇族も貴族も公家も、そして源氏も平氏も、親兄弟、親族が両陣営に分かれて戦った骨肉の争いだったのです。
歴史の授業などでは必ず習う事柄ではあるものの、登場人物の数が多いことに加え、その関係が複雑なため、なかなか理解が難しい事件です。
まず抑えておく必要があるのは、第72代白河天皇の存在。彼は藤原氏による摂関政治から政治の実権を取り戻すために天皇を退位し、上皇となって院庁というもうひとつの政府をつくりました。周囲を院近臣という側近で固め、「北面の武士」という独自の軍事力を持ち院政を開始します。
彼の死後、院政の仕組みは孫の鳥羽上皇が引き継ぎます。鳥羽上皇は息子である崇徳天皇に退位を迫り、近衛天皇を即位させ、院政の実権を固めました。
しかしこの仕組みは上皇の息子、あるいは孫が天皇でなければ機能しないようになっていて、崇徳天皇にとって弟である近衛天皇に譲位させられたことにより、自身が院政を敷く機会が奪われてしまったのです。
鳥羽上皇にとっては自身の息子が天皇であればよいので、崇徳でも近衛でも構わなかったはずです。しかし彼は崇徳が実は自分の息子ではないと考えていました。妻の待賢門院(たいけんもんいん)は白河法皇と不倫関係にあったといわれており、鳥羽上皇は崇徳が白河法皇、つまり自分の祖父の子だと考えていたのです。
そのため崇徳のことを叔父子と呼んで嫌い、愛妾である美福門院(びふくもんいん)との間にできた子である近衛を即位させたのでした。
近衛天皇が崩御した後に後継者となった後白河天皇は、崇徳天皇にとって弟にあたります。後白河の母は待賢門院でしたが、鳥羽上皇にとっては自身の子であるという確信があったのだと考えられています。
崇徳は自身が院政を敷き政権の実権を握るためには、後白河天皇を退位させ、自らの息子を即位させる必要があります。
一方の後白河天皇としても、自分の息子を即位させることで政治を動かしたいという気持ちがありました。
この2人の争いが鳥羽上皇が崩御したことで表面化していったのです。
天皇に対する謀反の疑いをかけられ、追い詰められるようにして挙兵した崇徳上皇・藤原頼長たち。大義名分もなく、兵数も劣勢なうえ、夜襲を嫌うなど戦術上の失敗もあり敗れてしまいました。
戦後処理は、後白河天皇の側近だった藤原信西が主導します。
崇徳上皇は讃岐に流罪となり、8年後に死亡。頼長は戦の最中に受けた傷が元で亡くなり、藤原摂関家の力は大きく削がれました。
平安時代には怨霊信仰にもとづき、罪人であっても死刑にはしないという慣例があったにも関わらず、平清盛には叔父忠正の、源義朝には父為義の処刑が命じられます。
過酷な戦後処理を主導することで、信西は権力を掌握していきました。
保元の乱の結果、権力を握ったのは後白河天皇の側近である藤原信西です。藤原摂関家の力を削り、自身の権力を固めるための改革を実施していきました。
その過程で平清盛ら平家を高い位へと引き上げ、結びつきを堅くしていきます。
一方で、同じく保元の乱で後白河天皇側についたにも関わらず、源義朝ら源氏は冷遇され不満を持つようになりました。
また後白河天皇は、位を息子の二条天皇に譲り、出家して法皇となって院政を開始します。しかし政治の実権は信西と清盛にありました。かつて自身とともに戦ってくれた両者ですが、その存在が徐々に邪魔なものになっていくのです。
そこで後白河法皇が目をつけたのが、保元の乱以降平家に比べ冷遇されていた源義朝。彼は源氏との結びつきを深めていきました。
この両陣営の対立が、1160年の「平治の乱」へと繋がっていきます。
平安時代末期、貴族から武士へと時代の主役が変化していく過程を丁寧に描き出しています。
保元の乱、平治の乱について、単に源平の争いの前段的争いと位置付けてしまったり、武士だけあるいは貴族だけなどある一定の人々に焦点を当てる作品が多いなか、本書はさまざまな立場にいる人物がそれぞれがどういった意図で行動していたのかを詳細に論述しているので、事態を把握しやすいでしょう。
- 著者
- 元木 泰雄
- 出版日
- 2012-07-25
登場人物が多く、関係も錯綜しているため、決して単純には理解しがたいこの時代。しかし彼らは個性が強く、非常に面白い時代であるともいえます。
長い日本史上の一大エポックである、貴族の時代から武士の時代への変換という、ダイナミックなこの時代の情勢を読み解くうえで、まず最初に手に取ってみる一冊としておすすめできる良書です。
保元の乱や平治の乱については長らく『保元物語』や『平治物語』など後世に作られた軍記物の内容がそのまま史実として受け取られることが定説とされてきました。
著者はその現状に問題提起をし、同時代の史料である『兵範記』『愚管抄』を元に、丁寧に裏付けを取り、事実を再構築しています。その結果、当時の人々の在りさまが、よりいきいきと浮かび上がっているのです。
平安の世に生きた人々も生身の人間であり、野心や信念、葛藤や妥協のもとで己の生きる道を選択しながら生きていたと、あらためて感じることができるでしょう。
- 著者
- 河内 祥輔
- 出版日
- 2002-06-01
本書のなかで、著者はさまざまな新説を開陳し、議論を呼ぶこととなりました。
この時代の研究に勇気をもって一石を投じたことは、敬意を表するべきことですし、議論のなかで研究が進むことが期待できる一冊です。
『愚管抄』の作者である天台宗の僧侶・慈円は、保元の乱において勝利した側の藤原忠通の息子であり、敗者である藤原頼長の甥にあたります。
彼は、貴族の時代から武士の時代への移り変わりを目にし、神武(じんむ)天皇以来の歴史を振り返ることで、乱世においても道理があるのかという疑問を明らかにしようとしています。
- 著者
- 慈円
- 出版日
- 2012-05-11
本書はその『愚管抄』を読みやすく、現代語訳したもの。すると浮かび上がってきたのは、単に歴史書には留まらない、慈円の人間味溢れる記述です。
古今東西に通底する、「今の若者を見ていると国の将来が不安だ」という憂いにも似た記述は、長い時の流れを経てなお人間・慈円に親近感を感じざるを得ません。
保元の乱を取り巻く登場人物の多さ、複雑怪奇な関係性は、歴史が苦手な方にはとっつきづらく感じてしまうかもしれません。しかしこれだけ多くの人々が錯綜しているこの時代は、戦国時代や幕末など、日本人にとって人気のある他の時代に負けず劣らず、手に汗握る面白い時代であると思います。今回紹介させていただいた本を1冊でもお手に取っていただき、この時代に興味を持っていただけましたら幸いです。