5分でわかる江戸時代!武士や庶民の生活をわかりやすく解説!

更新:2021.12.10

戦乱の世が終わり、天下泰平の世を導くためにさまざまな施策に幕府が奮闘した江戸時代。庶民の文化が広がり、浮世絵や文学、学問が発達したことでも有名です。この記事では、【初期】【中期】【後期】にわけて歴史の流れをわかりやすく解説し、文化や生活などもご紹介。さらにあわせておすすめの本も載せるので、ぜひチェックしてみてださい。

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江戸時代はどんな時代だったのか

初代征夷大将軍となった徳川家康が、江戸に幕府を開いたのが1603年。第15代徳川慶喜が大政奉還をした年が1867年。この間約260年を江戸時代といいます。日本で開かれた3つめの幕府で、鎌倉幕府や室町幕府を参考にしながらさまざまな工夫を試み、安定した平和な時代を作りあげました。

代表的な政策のひとつに「鎖国」があります。これは対外関係の安定と、江戸文化の発展に繋がりました。また交通が整備されて、商品の流通量が増加したことで多くの豪商が生まれます。

その一方で3度も改革がおこなわれるなど、多くの天災や大火、財政難に苦しめられた時代でもあります。

では江戸時代の歴史を、【初期】、【中期】、【後期】にわけてご紹介していきましょう。

江戸時代の歴史をおさらい【初期】

まずは1600年代、江戸幕府の成立期についてみていきましょう。

武力を使った領土の拡大ができなくなった大名たちは、水田を増やしていきました。大規模な工事を自らおこない、耕地を広げ、新田開発ブームが起こります。

初代将軍・徳川家康(1603~1605)

初期の幕府は、武力で政治を動かしていました。1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍になります。しかしわずか2年後には、子の秀忠に将軍職を譲ってしまうのです。

これは、徳川家が代々将軍職を世襲していくという意思表示のためで、将軍職を譲った後も家康は政治の実権を握っていました。

幕府を開いて日本を統一したものの、いつまた反乱がおこるかわからない状況です。そこで家康は「一国一城令」、「武家諸法度」を制定し、各地の統制を厳しくしました。また江戸の周辺には新藩大名など、古くから付き合いのある大名を、江戸から離れた地域には関ヶ原から味方になった大名を配置します。

さらに、朝廷や公家を幕府が統制するための「禁中並公家諸法度」も発令しました。

3代将軍・徳川家光(1623~1651)

家光の時代には、「参勤交代」によって大名の統制システムが確立します。これは1年ごとに自国の領土と江戸を行き来するもので、大名たちは自国にいる際も正室と後継ぎは江戸に残したままにしなければなりませんでした。人質の確保とともに、各藩の財源を削減して勢力を抑え、反乱を防止します。

また家康が諸外国との交流に積極的だったために、キリスト教の影響が大きくなっており、これを危惧した家光は、1633年から数回にわたって「鎖国令」を発布。日本人の海外渡航を禁止し、大型船の建造も禁止しました。また外国船の入港を長崎のみに限定しています。

そんななか、1637年に「島原の乱」が勃発。天草四郎を首領とした、幕府に不満を抱くキリシタン農民の反乱です。およそ3万8千人もの反乱軍が原城跡に立てこもって反抗しましたが、1年後に鎮圧されました。

これ以降幕府は、さらなるキリスト教の拡大を防止するために、ポルトガル船の来航を禁止。キリスト教に関わる可能性のあるすべてを排除することで、鎖国を完成させていったのです。

また家光は、1642年に起きた「寛永の大飢饉」を受けて、大規模な農政改革にも取り組みました。

農民の減少を食い止めるとともに幕府が長年にわたって管理しやすいように田畑の売買を禁止し、「分地制限令」を発令します。また、すでに開始していた「五人組」の制度をより強化し、農民同士の監視をより強力なものにしたのです。

4代目・徳川家綱(1651~1680)

これまでの「武断政治」では、関ヶ原の戦いで活躍した福島正紀も改易させられるほどの徹底ぶりで、その結果江戸の町には「牢人」という失業した武士があふれていたそう。1651年には彼らが「慶安の変」という反乱を起こしています。

これを受けて家綱は、儒教や道徳を重んじる「文治政治」へと方向転換していきました。

禁止されていた末期養子を緩和し、跡継ぎがいないことで藩が取り潰されることを少なくします。また美徳とされていた殉死も禁止。さらに農政の改革も説教的におこないました。

5代目・徳川綱吉(1680~1709)

綱吉の時代になっても、徳を重んじる文治政治は続行されます。湯島聖堂の設立、貞享暦の作成、北村季吟(きぎん)を歌学方に任命するなど、学問の奨励が中心となっていきました。綱吉自身も学問が好きで、家臣に講義をするほどだったそうです。

そのほか街道の治安を改善して運搬の安全を確保するなど、商業の発展にも貢献しました。

また綱吉といえば有名なのが、動物の殺生を禁ずる「生類憐みの令」です。1685年からくり返し発令され、犬だけでなく、猫、鳥、魚、貝、虫などあらゆる動物が保護の対象となりました。ただあまりにもエスカレートしすぎたため、民衆から幕府への不満が強くなっていきます。

江戸幕府の改革期【江戸時代中期】

人々を苦しめた「生類憐みの令」は、6代将軍・家宣(いえのぶ)の時代に新井白石が廃止しました。家宣は就任後わずか4年で亡くなったため、7代将軍になったのは4歳足らずの家継。引き続き新井白石が側近政治をおこない、インフレの原因になった元禄小判を廃止しました。

しかし、金の含有量を上げた「正徳小判」を作るものの失敗。それどころか相次ぐ貨幣の製造でますます市場の混乱を招く結果となります。

その後家継もわずか8歳で亡くなり、8代将軍に就任したのが徳川吉宗です。

8代目・徳川吉宗(1716~1745)

吉宗は、幕府の財政再建を目指して「享保の改革」をおこないます。まず新井白石を辞めさせ、吉宗自らが政治の実権を握りました。家康時代の武断政治に戻したのです。また率先して倹約生活を送り、大名たちにも見習わせました。

金銭トラブルを当事者同士で解決するようにする「相対済令(あいたいすましれい)」も発令。そのほか新田開発や、町火消しの整備、医療機関の設置などをおこないます。

幕府の財政はまずまず安定し、権威も回復していきました。

10代目・徳川家治(1760~1786)

家治の時代になると、幕府の財政は再び悪化していきます。そこで老中の田沼意次(たぬまおきつづ)は、商業資本を積極的に政策に取り入れ回復を目指しました。「年貢以外で、幕府の収入を増やす方法」を考えたのです。

株仲間の奨励し、新規商品の開発や鉱山の技術革新にも力を入れます。

また城下町や港の整備も積極的におこない、対露貿易を考えて蝦夷地(北海道)を開発しようとしました。

しかしこのような意次の「重商主義政策」は、商人や役人にしか恩恵がまわっていきません。農村は荒れ、「天明の大飢饉」や浅間山噴火などで米の価格も高騰、藩や農民の不満はたまるばかりです。その結果、意次は失脚に追い込まれました。

11代目・徳川家斉 (1787~1837)

幕府は天明の大飢饉によって荒れた社会を早急に復興する必要がありました。老中の松平定信は、意次の政策を全否定し、農村復興を目指す「寛政の改革」をおこないます。

旗本や御家人の借金を帳消しにしたり、利率を下げたりする「棄捐令(きえんれい)」、飢饉に備えて穀物を諸藩の大名に貯蔵させる「囲米(かこいまい)」、古学や陽明学などの学問を禁止した「寛政異学の禁」などです。

江戸の町には農民が流入し、ホームレスだらけになっていました。彼らの犯罪の抑制と、治安の安定化のために職業訓練所として「人足寄場」を設置します。また「旧里帰農令」を発して、農民が農村に戻ることを推奨しました。

しかし、財政は一時的に持ち直したものの、厳しい政治に町人たちの不満が増大し、松平定信は改革着手からわずか6年で失脚してしまいました。

その後は家斉自らが治世。彼は贅沢を極めた生活をし、寛政の改革とは正反対の政治をおこないます。倹約をやめ、低質な貨幣を大量に発行。これによって物価は上昇し、結果的には商業が活発化して一気に好景気に傾きました。

その一方で同じ農民の間でも、お金のある豪農とそうでない農民の間で貧富の差が拡大。農地を放棄する無宿人が増え、治安が悪化していきました。

そこで家斉は、「関東取締出役」を置いて治安維持の強化を図り、40~50の村ごとに寄場組合を作って農民を統制します。商業が活気づいた反面、没落する農民の増加により、幕府の収入は低下していきました。

薩長土肥藩

その頃、諸藩でも寛政の改革と前後して藩政改革がおこなわれていました。そのなかで「薩長土肥」の4藩は改革に成功します。

薩摩藩は藩主・島津氏の下で改革を進め、琉球との密貿易や黒砂糖の専売によって利益をあげます。また、島津斉彬は反射炉やガラス工場、造船所など「集成館」を設置しました。

長州藩は藩主・毛利氏の下で改革を進め、紙やロウの専売をおこないます。ほかの地から運ばれてきた荷物を抵当にして金融をする組織「越荷方」を設け、利益をあげていきました。

土佐藩は藩主・山内氏の下で緊縮政策により藩財政の再建を図ります。大砲の鋳造や砲台築造などの軍事力も強化しました。

肥前藩は長崎警備役にあたっていたため、藩財政が困難な状況。そこで藩主・鍋島氏の下で独自の改革をおこないます。

農地改革均田制の実施、有田焼の専売、有明海の水産物や米の輸出奨励を実行し、財政難を克服していきます。さらに弘道館でのスパルタ教育、日本初の反射炉による大砲の鋳造など、この時期には最先端の科学力を誇りました。

後々、これらの藩が中心となって明治維新が進められていきます。

江戸幕府の滅亡期【江戸時代後期】

12代目・徳川家慶(1837~1853)

1833年に「天保の大飢饉」がおこり、百姓一揆や打ちこわしで各地が混乱するなか、1837年には貧民救済を叫ぶ「大塩平八郎の乱」が勃発。1日で鎮圧されましたが、幕府の元役人が兵を挙げたことに幕府は動揺しました。

そんななか、徳川家斉が子の家慶に将軍職を譲位します。1837年に継いでいますが、大御所として家斉が政権を握ったため、家慶が政治を動かすようになったのは1841年からでした。

老中・水野忠邦を重用。強引な政策をおこなってきた家斉派を追放し、「天保の改革」をおこないます。ぜいたく品や華美な服装を禁止して、質素な生活を推奨し、農業中心の政治を断行。物価を引き上げる原因となっているとして「株仲間」を解散しますが、かえって適正価格がわからなくなり、経済が混乱してしまいました。

また風俗の取り締まりを命じ、人情本作家や歌舞伎が厳しく弾圧していきます。

水野忠邦が失脚する原因となったのが、「上知令」です。江戸・大阪周辺の大名や旗本の領地を幕府の直轄地にしようとしたのですが、大反対され、改革着手からわずか3年で失脚することになりました。

ペリー来航

1842年、日本に衝撃のニュースが伝わります。大国の清(中国)がイギリスに敗れて開国したのです。これに危機感を抱いた幕府は、徐々に鎖国政策を弱めはじめました。

そして1853年、ペリーが浦賀に軍艦4隻を連れて来航します。アメリカ大統領の国書を提出し、開国を迫りました。

翌年、再来航したペリーに屈し、「日米和親条約」を調印したことで幕府の鎖国体制は終了します。

このとき、13代将軍家定の老中をしていた阿部正弘は、いち早く朝廷に報告し、対応策の意見を大名や旗本などから広く求めます。この行為が将軍の権威をさらに弱めていきました。

鎖国体制が終了すると、江戸湾に台場、伊豆に反射炉を設立。また長崎には海軍伝習所、江戸に築地には講武所など、軍事的な体制固めにも急ぎます。しかし1585年にアメリカのハリスが来航。大老・井伊直弼が日米修好通商条約を締結すると、同様にオランダ・イギリス・フランス・ロシアとも不平等条約を結ぶことになりました。

1859年から始まった貿易によって、大量の金が海外に流出したため日本経済は大混乱に陥ります。条約に納得しない武士たちの不満も高まる一方でした。

そして井伊直弼が水戸脱藩浪士によって江戸城の真ん中で暗殺された事件が、日本動乱の時代の幕開けとなるのです。

14代目・徳川家茂(1858~1866)、15代目・徳川慶喜(1867~1868)

動乱の最中に就任した14代将軍家茂。朝廷と幕府の政略結婚として、孝明天皇の妹・和宮と結婚します。老中・安藤信正のもとで公武合体を推進し、動揺した幕府体制の再建を図りました。しかし信正が尊攘派の志士らによって負傷させられ、失脚してしまいます。

そんななか、諸藩は独自の構想で幕末を乗り切ろうとしていました。薩摩藩、長州藩も動き出し、江戸幕府を倒すムードに傾いていきます。外国を排除しようとする攘夷論、これに尊王論が加わって尊王攘夷という派閥が生まれます。

1863年には薩英戦争が勃発。しかし結果的に、薩摩藩とイギリスが親密になることに繋がりました。

同年、長州藩は下関を通る外国船を砲撃します。しかし翌年に匍匐を受けると、攘夷は不可能ではないかと考えはじめるのです。倒幕の意思が一致した薩長は、1866年に薩長同盟を締結しました。

さらに第二次長州征伐で長州藩が勝利をし、幕府の権威はますます失墜します。徳川慶喜が1866年に15代将軍の座に就くも、翌年には「大政奉還」を朝廷に上表。1867年に出された「王政復古の大号令」によって、江戸幕府は幕を閉じました。

江戸時代に発展した文化

元号からとり、前半を「元禄文化」、後半を「化政文化」といいます。

【元禄文化】

中心となったのは京都や大阪。武士や豪商など上級階級に受けた、華やかで明るい文化です。

1:演劇と文学

中世までは「憂き世」ととらえられていた思想が、江戸時代になると「浮き世」というプラスのイメージへ転換。この表現を用いたのが浮世草子や浮世絵です。

浮き草子と呼ばれる町人世界を追求した小説のなかでも、とくに有名なのは井原西鶴。町人物、好色物、武家物の3分野を執筆し、『好色一代男』や『世間胸算用』『武道伝来記』を残しました。

また、室町時代の以来の「御伽草子」の流れを受け、「仮名草子」というジャンルが誕生。俳諧では松永貞徳の貞門派、さらに西山宗因による談琳派という流れが生まれます。談琳派で有名な松尾芭蕉は、『奥の細道』や『笈の小文(おいのこぶみ)』を残しました。

そのほか人形浄瑠璃や歌舞伎も盛んになります。『曽根崎心中』で有名な脚本家の近松門左衛門や、竹本義太夫が誕生しました。

2:絵画と陶工

幕府の御用絵師として活躍した人といえば、狩野探幽(かのうたんゆう)です。代表作は「大徳寺襖絵」。そのほか京都の俵屋宗達(たわらやそうたつ)の「風神雷神図屏風」、尾形光琳(こうりん)の「紅白梅図屏風」、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の「見返り美人図」が有名です。

また、朝鮮出兵のときに多くの陶工が朝鮮から連行されたため、日本でも製陶が盛んになります。鍋島氏のもとでは有田焼が、島津氏のもとでは薩摩焼、毛利氏のもとでは萩焼など有名な陶器の生産が始まりました。

また、芸術関係では京都の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が、硯箱や楽焼茶碗、豪華な嵯峨本などを手掛けます。彼は壮大な芸術村を造成し、弟子の育成にも力を入れました。

3:学問

儒学を積極的に取り入れるなかで、とくに礼儀や身分を重視する朱子学が、封建社会にふさわしい学問として発達します。御用朱子学派の儒学者として、林羅山(はやしらざん)が家康に登用されました。綱吉時代には、孫の林鳳岡(ほうこう)が大学頭に任命され、林家は文教政策に尽力します。

また儒学者の木下順庵は、新井白石や雨森芳洲らを育てました。朱子学以外の儒学では、中江兆民や熊沢蕃山(ばんざん)は陽明学を、山鹿素行(やまがそこう)は朱子学を批判し、古学を開します。谷時中(たにじちゅう)が確立した南学からは、山崎闇斎らが輩出され、闇斎は儒学と神道を合体させた垂加神道を導きます。彼の尊王論は江戸時代の政治思想に大きな影響を及ぼしました。

【化政文化】

中心となったのは江戸。中流以下の一般庶民に受けました。退廃的で、「粋」や「洒落」を重視し、少し皮肉も交えたユーモアのあるものが多く見られます。

1:文学

新しいジャンルとして「滑稽本」が誕生。代表的作品は、式亭三馬の「浮世風呂」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」です。また江戸の遊楽がテーマの「洒落本」、風刺をきかせた絵入り小説の「黄表紙」、恋愛がテーマの婦女子向け「人情本」が大人気になります。

しかし、「洒落本」と「黄表紙」は寛政の改革によって弾圧され、「人情本」は天保の改革によって弾圧されました。

このほか、「読本」とよばれる小説本では、滝沢馬琴の長編小説『南総里見八犬伝』が有名です。俳諧では、18世紀後半には与謝蕪村、19世紀前半には小林一茶が登場。さらに世相を皮肉った川柳や狂歌も盛んになりました。

2:絵画

浮世絵が全盛期を迎え、当時庶民の間で流行していた歌舞伎役者や相撲力士の「大首絵」が大人気。

その一方で風景画も発展していきます。葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」が有名です。

そのほか「富くじ」という宝くじも流行しました。

3:学問

この時代は、「経済学者」が次々と誕生します。経世論者として有名なのが海保青陵(かいほせいりょう)や本田利明、佐藤信淵(のぶひろ)など。このほか、前期水戸学では徳川光圀による尊王論が主流でしたが、後期水戸学では尊王攘夷論へと移行していきました。

本居宣長の『古事記伝』に影響を受け、復古神道を提唱したのが平田篤胤(ひらたあつたね)です。復古神道は尊王思想を強調し、明治維新の指導理念のひとつとなりました。また、杉田玄白の『解体新書』など、医学界で蘭学が発展します。

江戸時代の生活とは?身分別に解説

当時の人口のうち、農民が7~8割近くを占め、武士や庶民は1割以下でした。身分によって着物や下駄、職業が異なり、彼らは居所を限定されて勝手に引っ越さないように規制されています。

【食事】

江戸時代では庶民の間に昼食習慣が広がったことで、1日2食から3食に変化。また農業の発達によって米の収穫量が増大し、外国からはトウガラシやカボチャ、トウモロコシなどが渡来。さらに流通の発達したことで、食料が手に入りやすくなったのです。

・武士

大名の食卓には、当時高価だったたまごや豆腐、数種類の魚や肉が並ぶ豪華な食事をしていました。中期になると寿司や天ぷらも食べています。幕府や藩からの収入だけでは生活できない下級武士は、大名屋敷内に自ら野菜を育てていました。そこで収穫した野菜と漬物をおかずに、魚は月に数回ほどしか食していなかったようです。

・庶民

庶民たちはご飯にみそ汁、漬物が基本スタイル。裕福な場合には煮豆などの副菜もありました。味付けは塩や酢、味噌だった初期から、だんだんと醤油や鰹節、みりんや砂糖などの調味料が普及していきます。後期になると寿司やそば、おでん、焼き芋などの屋台が増加。外食の機会も増えるようになりました。

・農民

農民たちは戦国時代とあまり変わらず、アワやヒエなどの雑穀が主食。米を作れども、食べることはできなかったのです。収穫した米の多くは年貢として献上しなければならないため、自分たちが食べる分は残りませんでした。

ちなみに当時、奇病と知られていた「脚気(かっけ)」。この脚気にかかるのは白米ばかり食べていた下級時武士や町人ばかりでした。原因はビタミンB1不足。そのため田舎生活を送るとケロリと治るといわれていたそうです。

【服装】

・武士

武士は、公の場では着物の色から烏帽子の折り方まで決められ、裃(かみしも)が一般的な礼服でした。幕臣はお目見え以上なら上下とも着用し、下級武士の場合は羽織袴です。しかし、日常生活では小袖に足袋姿という少しラフな格好。大小の刀は家では差さないことも多い一方で、扇は護身用として常に携帯していました。

・庶民

庶民の男性は半裃を晴れ着として着用し、女性の場合は帯の結び方でオシャレを追求していたようです。 庶民は羽織物の着用自体が禁じられていたため、法被や半纏を着用。女性は着物に前掛けが基本スタイル、男性は着流しもふんどし姿も自由でした。

当時の庶民のファッションリーダーといえば、「粋」や「いなせ」を体現していた歌舞伎役者。好きな歌舞伎役者の服装を参考に、自分なりのファッションを楽しんでいたようです。

また女性にとっては、歌舞伎役者だけでなく、遊女もファッションリーダーでした。もともと髪を結いあげる習慣があったのは上級階級の女性のみで、庶民女性は髪を後ろに垂らすだけのスタイルが主流で、これのきっかけが遊女の存在なのです。

オリジナリティ溢れる彼女たちの髪の結い方は、実に数百種類にもおよびました。

・農民

寛政2年以前は麻布の着用のみ許され、それ以降は古木綿を使用した手作りを着用。麻は生地自体が弱いため、藍染めと糸で布地を強化していたようです。男性は髪型は月代(さかやき)は剃らずに後ろに小さくちょんまげを結い、女性は髪は結わずに伸びっぱなしでした。

【住まい】

・武士

広い家に住んでいましたが、上級武士の住まいには厳しい規則がありました。立派な門と玄関も持つこと、瓦で覆われた屋根であること、部屋は畳で敷かれ、客間は豪華にすることなど。そのほか、家来のための大広間も求められました。

一方で下級武士に課せられていたのは、立派な門の建立です。瓦を使うことが許されないため、板を敷いて石の重りをのせた屋根でした。同じ武士といえども、上級と下級では住む家にここまで差があったのです。

・庶民

庶民は「長屋」という集合住宅に住んでいました。一般的な長屋の広さは畳6畳ほど、家族3人ほどで暮らしていたようです。台所と土間は玄関にあり、野菜や魚の下ごしらえは井戸端で調理。布団は奥に積み、火をともしながら生活していました。

・農民

土地を持たない小作人はわらを敷いた屋根と土壁の家に住み、板張りの大きな部屋にいろりを囲んでごろ寝生活。土地を持つ農民は、いろりがある間と寝室の2部屋ある家で生活していました。

一般の民よりも上級階級だった庄屋は、5から6部屋もある大きな屋敷を持つことが許されていたそうです。

江戸時代の生活を覗き見できる一冊

著者
杉浦 日向子
出版日
2005-03-27

文章だけだとわかりづら当時の生活を、イラストやコメントとともにわかりやすく紹介した一冊です。鎖国により外国を断絶し、平和で粋な時代だった江戸時代。豪商や武家などの生活とは貧富の差が大きくあったにもかかわらず、人々は楽しい生活を送っていました。

料理や春画、相撲や歌舞伎、ファッションや性、美人の基準など、さまざまな文化がわかります。また江戸のモテ男は化粧もしていたそう。何事も笑いとばす精神と、粋な心意気に触れて、よりいっそう理解を深めることができるでしょう。

オールカラーで眺める、江戸の町人図鑑

著者
出版日
2011-05-21

江戸の町地図や多種多様な職業について、オールカラーで描写されている一冊です。江戸の文化を7つのテーマにわけて説明しています。たとえば第1章で描かれる町並みは、長谷川雪丹の「江戸名所図鑑」をもとに細かく描かれていて、眺めるだけで当時の生活が想像できるほどです。

本書は、上野で貸本屋を営む善右衛門の案内で進むため、まるで観光しているかのような感覚。歴史の教科書や時代小説を読んでいても今ひとつピンとこない町の風景や服装、職業や生活などが楽しく学べるため、副毒本としてもおすすめです。

日本社会全体から見る江戸時代の変化

著者
大石 慎三郎
出版日
1977-08-25

江戸時代になってから、新田開発や身分制度、鎖国、経済の発展など、日本がどのように変化したかにをテーマごとに紹介しています。

江戸時代は鎖国のイメージが強いですが、約260年もの間大きな戦争が無かったため、農地や都市開発が盛んだった時代でもありました。

初心者の方には少し難しく感じるかもしれません。しかし、具体的な資料も多く用いられているので理解しやすく、トピックスごとにしっかりと論じられているので安心です。もちろん歴史好きの方も、江戸幕府の成立から明治維新までの理解をさらに深めることができますよ。


鎖国やキリスト教の禁止、攘夷思想などから閉鎖的なイメージが付きまといやすい江戸時代。一方で、浮世絵や春画など庶民の文化が花開いた時代でもあります。ぜひ今回おすすめした本を手に取って、知れば知るほど奥が深い江戸時代に思いをはせてみるのはいかがでしょうか。

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