吉田松陰が教育をおこなったことで有名な「松下村塾」。松陰は2年半というわずかな期間で、高杉晋作や伊藤博文など多くの著名人を輩出しました。この記事では、塾の由来と概要、松陰が教えていた内容、四天王を含めた主な塾生などをわかりやすく解説し、あわせておすすめの関連本をご紹介していきます。
松下村塾といえば吉田松陰が有名ですが、もともと創設したのは松陰の叔父である玉木文之進という人物です。1842年、兵学者だった玉木は、長州松本村(現在の山口県萩)に私塾を開きます。塾名の由来は「松本村の塾」という意味。
幼いころの松陰も彼のもとで学びました。その後わずか9歳で才能を認められて、藩校である明倫館の師範に就任。江戸に出た後は佐久間象山などに師事するようになります。
しかし1854年にペリーが来航した際、黒船に乗り込んでアメリカに密航しようとしたため、長州で収監され翌年以降は実家である杉家で謹慎処分となってしまいました。
すると彼から教えを受けようと、杉家に近所の若者や親戚が集まるようになります。そのため1857年に叔父が主催した塾の名前を引き継ぎ、実家の敷地内にあらためて松下村塾を開きました。
一般に「松下村塾」というと松陰が開いたものを指し、その建物も山口県の松陰神社に内に現存しています。
吉田松陰は、1858年から59年に起きた「安政の大獄」で、老中首座の間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画した罪で斬首刑になります。そのため彼が実際に塾生に教えを施していた期間は2年あまりにすぎません。
ではその間、松陰はどのような教育をおこなっていたのでしょうか。
【教育手法】
まず塾の特徴として挙げられるのが、身分に分け隔てなく幅広い階層の人々が学べたということです。
長州藩の藩校である明倫館が武士しか入校できなかったのに対し、松下村塾は身分の低い足軽や中間、農民たちも学ぶことができました。そのため従来の教育機関では学ぶことのできない人々が松陰の下に集まり、そのなかから伊藤博文や山県有朋などが輩出されることになります。
いわゆる時間割は存在せず、松陰が各地で学んだ儒学や兵学、史学など多岐にわたったテーマが扱われました。
授業形式も特徴的。ただ講義を聴くだけでなく塾生同士の討論が積極的に取り入れられ、時には塾生が講義をすることもあったそうです。
松陰の教えを受けた人数は、定かではありませんがおよそ90名程度と考えられています。彼は教え子ひとりひとりの資質を見抜き、それぞれの長所を伸ばす指導をしていきました。自主性を重んじる学風と長所を伸ばす教育思想が、多くの優秀な人材を輩出した秘訣なのかもしれません。
【過激な側面も】
一方で松陰は、尊王思想が強く、強硬な攘夷論者でもありました。上述した間部詮勝の暗殺計画も、「日米修好通商条約」の締結に怒った松陰が、間部に対し条約破棄と攘夷決行を要求し、これが受け入れられない場合には殺害しようとしたものです。
松陰の影響を受けた塾生のなかには、尊王攘夷運動に身を投じた者も多く、たとえば高杉晋作や伊藤博文たちは、1863年にイギリス公使館を焼き討ちしています。
また松陰は自著の『幽囚録』において、次のように述べています。
「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加〔カムチャッカ〕・隩都加〔オホーツク〕を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」
このように国威を進展させることで「然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺国を守るは、即ち善く国を保つ」ことが可能になると考えていました。しかしこの対外膨張的な彼の思想が、明治政府以降の政策にも悪影響を及ぼしていたと指摘する論者もいます。
幕末から明治にかけて活躍した多くの志士や政治家、実業家が輩出されています。明治期に活躍した著名な人物は、
などです。
また次に紹介する人物は「松下村塾の四天王」と呼ばれ、いずれも若くして亡くなったものの松陰から高い評価をされていました。
久坂玄瑞(くさかげんずい)
松陰から「年少防長第一流の人物たり。因って亦、天下の英才たり」と評価され、長州藩の尊王攘夷運動の中心的人物として活動しました。
1864年、京都で起きた「禁門の変」に敗れ24歳で自刃しています。
高杉晋作(たかすぎしんさく)
当初は興味がなかった学問に松陰の教え目覚めてからは、久坂と並び称される成長を遂げました。奇兵隊を創設したほか、長州藩の藩論を倒幕路線で統一して第二次長州征伐でも活躍しています。
結核にかかり、1867年に27歳で亡くなりました。
吉田稔麿(よしだとしまろ)
松陰からは「陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり」と評されています。
奇兵隊に参加後、自らも屠勇隊(とゆうたい)を創設するなど志士として活動しましたが、1864年の池田屋事件の際に亡くなっています。
入江九一(いりえくいち)
松陰からは「その憂いの切なる、策の要なる、吾れの及ばざるものあればなり」と評されました。
久坂や高杉が間部暗殺計画に反対するなか、入江だけは計画に賛同するなど松陰に対する傾倒は人一倍強いものがありました。「禁門の変」の際、久坂と共に自刃しています。
本書は松下村塾について、開塾から閉鎖まで松陰が教えた全期間を描き出したものです。
全6章の構成で、松陰の思想、指導法、学習内容などさまざまな側面が取り上げられています。
- 著者
- 古川 薫
- 出版日
- 2014-10-11
塾生同士が架空の座談会を行うなど創作も織り交ぜつつ、筆者は史料に依拠して丁寧に史実をまとめています。
また巻末には人名録や年表、参考文献一覧も付いているので、塾について学ぶ最初の一冊におススメです。
本書は「松下村塾の四天王」と呼ばれた久坂玄瑞と吉田松陰の関係を中心に、なぜ松陰が教え子たちに多くの影響を与えることができたのか論及しています。
- 著者
- 河合 敦
- 出版日
- 2014-11-27
筆者が指摘するように、松陰は自身の生命さえ度外視して信念を貫きとおしました。この強烈な実践の姿勢が、教え子たちを感化していったのかもしれません。
本書を読むと、松陰の教え子たちが「禁門の変」や「萩の乱」などに身を投じた理由の一端が見えてくるはずです。
本書は松陰の教育手法に迫り、これをどのように現代に活かしていくことができるか論じたものです。
また方法論だけでなく彼にまつわるエピソードにも言及されており、幕末史についても知ることができます。
- 著者
- 桐村 晋次
- 出版日
- 2014-12-09
エピソードを通じて紹介される、松陰の教え子と共に学ぶ姿勢や情報を広く収集する知的好奇心、個性を最大限引き延ばそうとする教育方針は現代でも大切な要素です。
筆者は、松陰が能動的に学ぶ人間を育てることを目指していたと述べています。
彼の手法は教育者だけでなく、企業人にとっても参考になるのではないでしょうか。
日本史に大きな影響を与えた吉田松陰。彼の考えをヒントに色々と思索にふけってみてはいかがでしょうか。