第二次世界大戦後、東西陣営によって分割されていたドイツの首都ベルリンにおいて、1961年に西ベルリンを取り囲むように築かれたベルリンの壁。この記事では、建設された背景と理由、1989年の崩壊に至るまでの経緯ときっかけなどをわかりやすく解説していきます。おすすめの本も合わせて紹介するのでぜひご覧ください。
1961年、東西冷戦の時代、東ドイツの中にあった西ベルリンの領地を囲み、ソ連と東ドイツが築きました。西ベルリンを取り囲む総延長155キロメートルにわたる壁が建設され、それまで自由におこなうことができた東西ベルリン間の交通は遮断され、多くの人々が一夜にして家族や友人たちと引き裂かれることになったのです。
その後1989年に崩壊するまでの間に、数度作り替えられましたが、最終的には高密度の鉄筋コンクリートによる頑丈なものとなります。また壁は二重に作られており、壁と壁の間は数十メートルの無人地帯。アラーム付きの金網やパトロール用の道路、そして多くの監視塔が作られました。物理的にも精神的にも越えがたい、高い壁となったのです。
しかし、それでも、この壁を越えて西側に逃れようとする者は後を絶ちませんでした。正式な記録は残っていないものの、その人数は6万人以上といわれています。
その多くは国境警備隊に捕まるか、射殺されるか、無人地帯にある運河などで溺死するか、壁から落下して死亡。壁を越えることに成功したのは5000人ほどしかいないといわれています。
また未遂で捕まり有罪判決を受けた場合には、平均禁固4年の刑を科されました。さらに逃亡を手助けしようとした場合にも重い刑罰が与えられ、終身懲役刑となる場合もありました。
1939年に始まり、ヨーロッパ全土を戦火に包んだ第二次世界大戦の欧州戦線。1945年5月、ドイツの降伏により終了します。7月には、戦勝国の代表であるアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の代表がベルリンの郊外ポツダムに集まり、戦後処理を話し合いました。
この「ポツダム会談」の結果、ドイツは4ヶ国で分割統治されることとなり、首都のベルリンもアメリカ・イギリス・フランスの管理する「西ベルリン」とソ連が管理する「東ベルリン」に分けられます。
ドイツの地図を見ると一目瞭然ですが、首都ベルリンはドイツの中央にあるわけではなく、東ドイツにあります。このため、西ベルリンは東ドイツの中にぽつんとある飛び地のような状態になるのです。
やがて、アメリカやイギリスに代表される西側陣営と、ソ連に代表される東側陣営に対立が生じます。1948年、ソ連は西ベルリンと西ドイツの陸路を封鎖。これに対し、アメリカは食料などの物資を空輸することで対抗します。
東西陣営の対立が激しくなるにつれて、西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」「自由世界のショーウィンドー」と呼ばれ、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が続出しました。1953年には社会主義体制に不満を持つ人々による暴動をソ連軍が制圧する「ベルリン暴動」が起き、この年だけでも30万人もの人々が西側に逃れたといいます。
その後も人口流出は止まらず、戦後15年間で約300万人にも達するなか、ソ連と東ドイツは1961年8月13日午前0時、西ベルリンをぐるりと取り囲み、通行を遮断しました。有刺鉄線を張り巡らせ、その後巨大な壁を建設します。この処置によって、東西ベルリン間の通行が一夜にして禁止され、家族や知人が不意に引き裂かれることになりました。
1989年に壁が崩壊するまでの28年間、ベルリンは東西冷戦の最前線であり、ベルリンの壁は冷戦の象徴的存在となります。
1985年、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、「ペレストロイカ(改革)」、「グラスノスチ(情報公開)」と呼ばれる政策を推進していきます。これによりソ連邦内、東ドイツ、東欧諸国などで民主化を求める声が高まっていきました。
東ドイツは当時、すでに有数の経済大国となっていた西ドイツとの経済格差を埋めることができず、財政的に苦境にあったうえ、抑圧的な体制に民衆の不満が高まっていました。ゴルバチョフの改革を東ドイツでも導入すべきという声が高まりますが、当時の東ドイツ・ホーネッカー政権はこれを受け入れません。すると東ドイツ国内でも不満がますます高まっていきました。
しかし、民主化の波は東欧諸国から東ドイツに打ち寄せてきます。1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境線にあった鉄条網を撤去。続く6月には、隣国のポーランドで自由選挙がおこなわれ、東側陣営初の非共産党の政権が誕生します。東ドイツの人々はハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツに亡命することが可能になると考え、多くの人々がハンガリー国境に殺到しました。
9月11日、ハンガリーが国境を開放したことにより、多くの人々が西側への脱出を果たします。この動きに対し、東ドイツ政府はなんら有効な対策をとることができませんでした。10月、ホーネッカーが失脚し、後任としてエゴン・クレンツが書記長となります。
彼はゴルバチョフに支援を仰ぎながら改革をして、この事態を乗り切ろうと考えますが、ゴルバチョフに支援を断られてしまうのです。また東ドイツは莫大な対外債務を抱えていて、破綻寸前の末期的状態にありました。体制に不満を持つ人々の出国やデモが相次ぐなかで、東ドイツ政府は追い詰められていきます。
そして、11月9日。政治報道局長のギュンター・シャボウスキーが、記者会見にて「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる。その際、許可証は不要であり、この政令はただちに、遅滞なく実施される」という主旨の発表をします。
この会見をテレビで見ていた人々がすぐさま壁に殺到し、その日のうちに国境検問所が開かれ、28年間東西ベルリンを分断していた壁は一夜にして崩壊したのです。
冷戦の象徴だったベルリンの壁は、わずか数時間で崩壊。そのきっかけとなったのがシャボウスキーの記者会見ですが、ここにはいくつかの勘違いがありました。
記者会見時に彼が本来発表する予定だったのは、「旅行規制の緩和」というもの。東ベルリンから西ベルリンに行くためには、正規の許可証が必要という内容であり、そしてその実施は翌日11月10日に発効する予定でした。決して彼が発表したように、「即時に」、「誰もが自由に」西ベルリンに行くことを認めるというものではなかったのです。
勘違いの原因については、彼自身が報道局長に就任して日が浅かったこと、政令を策定する中央委員会が混乱し内容が二転三転していたこと、事務方との打ち合わせで何度も中座していたため政令の内容をしっかり把握することができなかったこと、会見場へ移動する車内が暗く、原稿に目を通すことができなかったことなどさまざまな要因が挙げられています。
いずれにせよ、シャボウスキーの勘違いによって、この記者会見は歴史的なものとなりました。
壁の崩壊が始まってから1ヶ月後、ゴルバチョフ書記長は、アメリカのブッシュ大統領と地中海のマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言します。1990年10月には東西ドイツが再統一を果たし、1991年12月にはソ連邦が崩壊。文字どおり堰を切ったように、ベルリンの壁の崩壊をきっかけとして時代は大きく動いたのです。
- 著者
- ["ズザンネ・ブッデンベルク", "トーマス・ヘンゼラー"]
- 出版日
- 2013-09-24
冷戦の最前線にして、象徴とも呼ばれたベルリン。ある日突然一夜にして分断され、家族や知人、愛する人々と引き裂かれてしまった人々……。
本書は、実話に基づいて当時のベルリンを生きた人々の生の声を、漫画という形で伝えています。命がけで危険な脱出を試みた女性や家族、自身の誕生日にベルリンの壁崩壊を迎えることになった青年のエピソードなどから、この時代の異質さを感じることができるでしょう。
壁崩壊20年を記念して設立された財団の助成を受けて上梓されました。年月が経過するにつれ、ベルリンの壁や冷戦といった事柄が遠く感じられるようになっている今だからこそ、あの時代を振り返ることには意義があるのではないでしょうか。
- 著者
- 森 千春
- 出版日
- 2017-08-11
著者は新聞記者として約30年海外報道に携わっていた経歴があり、ベルリンの壁が崩壊した際にも特派員として現地で取材にあたっていた人物です。
壁の崩壊によって世界はグローバル化の時代を迎え、その流れは時を経るごとに加速していくかに見えていました。しかしブレグジットやトランプ大統領の誕生に代表されるように、各国は徐々に閉鎖的になり、グローバル化の流れは逆転しつつあるのではないでしょうか。
筆者は、ベルリンの壁崩壊以降の激動の時代について、自身の豊富な取材経験に基づき、複雑な世界情勢の読み解き方を考察しています。文章もわかりやすく、また物事の原因から書かれているので理解がしやすいでしょう。先の読めない時代を読み解くために読んでおくべき一冊です。
- 著者
- ["ケン・フォレット", "Ken Follett"]
- 出版日
- 2016-01-21
本書は20世紀を描く全3部作、「巨人たちの落日」、「凍てつく世界」に続く最後の作品です。第一次大戦、第二次大戦をテーマにした前作に続き、本作では東西ベルリンを隔てる壁、キューバ危機、ケネディ暗殺、アメリカ公民権運動などがテーマとなっています。
小説であり、登場する人物は架空の人物。激動の時代を生きた3世代にわたる人々の物語です。しかし架空の登場人物だということを忘れてしまうほど、彼らの生きざまは烈しく、当時の情景がありありと目の前に浮かんできます。
時代のうねりは、ひとりの力ではとても抗いきれるものではありません。しかし、自由を渇望する人々の意思がベルリンの壁崩壊につながったように、ひとりひとりの小さな意志が集ったからこそ、抗いがたいうねりが生まれるのも事実です。先の見えない現代に生きる私たちにとっても、大いに参考になるでしょう。
同じ第二次大戦の敗戦国である日本にとって、東西ドイツの分断、そしてその象徴であるベルリンの壁に対して複雑な思いがあるのではないでしょうか。いまだ冷戦の遺物である朝鮮半島の分断は続いており、その脅威は日に日に高まっています。いつの日か朝鮮半島の分断も終わり、かつて東西ベルリン市民が手を携えたように、南北の人々が手を携える日がくればと願わずにはいられません。