1584年の3月から11月にかけて、現在の愛知県にあたる尾張を中心に起こった「小牧・長久手の戦い」。本能寺の変によって織田信長が倒れ、その後継者を巡る戦いで、羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康の間で争われました。戦術的には織田・徳川連合の勝利、戦略的には羽柴秀吉の勝利とされるこの戦いはなぜ起こったのでしょうか。その概要や背景、勝敗についてわかりやすく解説します。あわせておすすめの本も紹介するので、ぜひご覧ください。
1584年3月から11月にかけて、現在の愛知県にあたる尾張を中心に起きた戦いです。羽柴秀吉軍と、織田信雄・徳川家康の連合軍のあいだでおこなわれました。
信長が「本能寺の変」で倒れた後、秀吉は大坂城を築くなど天下人として振る舞っていました。それを本来主筋にあたる立場である信長の次男、信雄はよく思いません。ただ単独で秀吉に対抗するのは不可能なので、父の盟友だった家康を頼ることにしたのです。
信雄からの要請を受け、家康は越中の佐々成政(さっさなりまさ)や紀伊の傭兵・雑賀衆(さいかしゅう)や根来衆(ねごろしゅう)、関東の北条氏政、四国の長宗我部元親らと「秀吉包囲網」を形成していきます。
そんななか、1584年の3月13日、織田家譜代の家臣だった池田恒興(つねおき)が、秀吉側につきました。織田方の犬山城を占拠した報せを受け、家康も出陣。2日後には小牧山城を占拠します。3月27日には大坂から秀吉が大軍を引き連れて到着し、両軍睨みあいの状況になりました。
この時、秀吉軍は約10万、織田・徳川連合軍は1万6000~3万ほどの兵力だったといわれています。両軍はお互いに相手の出方をうかがい、膠着状態となりました。
4月4日、膠着した状況を打破するべく、池田恒興が秀吉にある作戦を持ち掛けます。池田、森長可(ながよし)、堀秀政、羽柴秀次(秀吉の甥)の4将が別動隊となり、家康の本拠地である三河の岡崎城を攻撃するというものでした。秀吉は甥である秀次に武功を立てさせたいという思いもあり、この作戦を承認します。
4月6日の夜、彼らは約2万の兵を率いて、ひそかに移動を開始します。しかしこの動きは、家康方の忍びによって察知。家康は兵を二分し、およそ9千を率いて4将を攻撃しました。
まさか作戦がバレているなどと考えていなかった4将は、池田、森が討ち死にし、秀次隊が潰走するという壊滅的な打撃を受けました。これを「長久手の戦い」といいます。
この後、戦況は再び膠着しますが、11月になると突然秀吉が信雄に和睦を申し入れ、信雄もこれを受諾します。家康は戦争を続ける大義名分を失い、撤退を余儀なくされました。これにておよそ8ヶ月間におよんだ戦いは終わりを迎えたのです。
この戦いの背景には、織田家における後継者争いがありました。
天下統一を目前にして信長が本能寺で倒れ、信長の仇である光秀は秀吉が討ちとり、その後、清須会議にて跡目となった三法師の後見人になったことで、秀吉が優位に立っている状況です。
これに対し、秀吉が織田家に代わって天下を狙っていると考えた、信長の三男・信孝や、妹・お市の方は、織田家最古参の宿老である柴田勝家を頼ります。勝家は「賤ヶ岳の戦い」で秀吉と戦いますが、敗北。信孝やお市の方も亡くなります。
この戦いで信雄は秀吉側に与し、信長が築いた安土城へ入城。実質的に織田家の当主となりました。しかしすぐに秀吉によって退去させられることになり、これがきっかけで秀吉と信雄の関係は険悪になるのです。
信雄は、父・信長の盟友だった家康を頼り、同盟を結びます。家康としても、信雄を擁して秀吉と戦うという大義名分を得ることができました。このほか反秀吉派の勢力が集い、秀吉包囲網を構築していくことになります。
一方の秀吉は、信雄の有力な家臣だった3人の家老を懐柔し、寝返らせます。一種の挑発でしたが、これが「小牧・長久手の戦い」の直接的な原因となりました。3家老の寝返りに怒った信雄が、秀吉に宣戦布告をしたのです。こうして戦いが始まりました。
池田恒興の献策によって実施された作戦を打ち破り、秀吉軍に多大な打撃を与えた家康。しかし秀吉の奇策によって、撤退を余儀なくされることになります。
なんと秀吉が、信雄に和睦を申し入れたのです。元々家康は、信雄から援助を請われ、彼を助けるために参戦していました。それにもかかわらず、その信雄が秀吉と和睦を結んでしまったので、家康としてみれば完全にはしごを外された状態です。大義名分を失ったため、仕方なく撤退せざるを得ませんでした。
小牧・長久手の戦いは、戦術的には戦闘に勝利した家康の勝ちとしながらも、戦略的には秀吉の勝利という幕引きになります。
徳川四天王最年少の井伊直政は、戦い当時まだ24歳の若武者でした。2年前の1582年に元服すると、滅亡した武田家の旧臣を多く付属され、一軍の将となります。武田家随一の猛将と謳われた山県昌景(やまがたまさかげ)の装備を継承し、「井伊の赤備え」を編成しました。
これは部隊の軍装を赤一色に統一したもので、山県があまりにも強い武将だったため、最強部隊の代名詞となっていたものです。
この「赤備え」を率いて直政が初めて臨んだ戦が、小牧・長久手の戦いだったのです。この戦いで彼は、「鬼武蔵」の異名を持つ森長可を討ち取る武功を上げます。
小柄な体つきと少年のような顔立ちをしていたとされる直政ですが、赤備えを纏い、鬼の角のような立物をあしらった兜をつけ、長槍を振り回し、自ら先頭に立って敵を蹴散らす勇猛果敢な姿から「井伊の赤鬼」と呼ばれ、恐れられるほどの活躍を見せました。
- 著者
- 藤田 達生
- 出版日
小牧・長久手の戦いは、現在の愛知県を中心におこなわれた戦いです。しかし、この時戦場となっていたのはこの地だけではありません。
織田・徳川軍は全国の大名たちに声をかけ、秀吉包囲網を築いていたのです。越中(富山県)や紀州(和歌山県)、伊勢(三重県)などでも戦いが起こっており、これまでの戦国時代の戦とは一線を画する大規模なものとなっていました。
本書ではこの戦いを、「関ヶ原」と並ぶ天下分け目の戦いと位置づけ、さまざまな側面から研究をしています。歴史の教科書などでは深堀りされることが少ないですが、ぜひこの機会に知ってみてください。
- 著者
- 伊東 潤
- 出版日
- 2006-02-01
織田信長の次男でありながら小牧・長久手の戦いで敗れ、秀吉への臣従を余儀なくされた織田信雄。そして関東の覇者である北条氏康の五男に生まれ、小田原征伐において伊豆韮山城を守り、善戦したものの開城を余儀なくされた北条氏規。
本書は、数奇な運命に翻弄された2人の男を主人公とし、それぞれの生涯を描いた歴史小説です。
戦国乱世においてもし勝ち組と負け組に分けたとしたら、この2人は確実に負け組に分類されるでしょう。戦に敗れ、落剝の身にありながら、それでも生きようとする姿は胸に迫るものがあります。
小田原征伐の際に、氏規が籠る伊豆韮山城を秀吉側の武将として信雄が攻撃していたという事実もまた、2人の運命の交錯を感じさせ、ページを繰る手が止まりません。
戦国の世にこのような男たちがいたことを、本書を読んで確かめてみてください。
本能寺の変から、関ヶ原、あるいは大阪の陣までの時期は、それまでの局地的な戦闘から全国を巻き込んでの大規模な戦争へと移り変わっていく時期でした。小牧・長久手の戦いも大規模な戦いのひとつであり、秀吉がまだ天下を取ると決まっていない時だからこそ、もうひとつの天下分け目の戦いだったといえるのではないでしょうか。