鎌倉時代に設置された「六波羅探題」とはどのようなものだったのでしょうか。概要や、設置された理由と目的、京都所司代との違いなどをわかりやすく解説していきます。あわせて、おすすめの関連本もご紹介するので、最後までチェックしてみてください。
1221年に起きた「承久の乱」は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し討伐の兵を挙げたもの。結果的に上皇は敗れ、隠岐島に配流となりました。
「六波羅探題」は、朝廷が二度とこのような乱を起こさぬよう監視する目的で、鎌倉幕府により京都に置かれた機関です。それまでの「京都守護」を廃止し、その代わりとして京都六波羅の北と南に設置されました。
当時、鎌倉幕府の実質的な最高指導者であった北条義時の子で、承久の乱の際に東海道の大将軍として上洛していた北条泰時が北の初代長官、その叔父の時房が南の初代長官となり、戦後処理にあたったのです。
承久の乱が勃発する以前は、鎌倉幕府によって京都守護という役職が置かれていました。これは京都の御家人を統率して洛中の警護や裁判をおこない、幕府と朝廷との連絡役を担うものでした。
承久の乱が収束すると、後鳥羽上皇側についた公家や武士などの領地は没収され、御家人に再分配されることになります。しかしこれらの土地は、それまで幕府の管理下にはなかった土地で、また権限がおよびにくい西側にあるものがほとんど。
そのため幕府は、朝廷の動きを常に監視し、京都周辺の治安維持をする必要があったのです。
幕府が置かれていた鎌倉から、天皇や公家の朝廷がある京都までは、およそ450kmの距離があります。京都で朝廷側が何か行動を起こしても、これを治めるために鎌倉から軍勢を向けるには時間がかかり過ぎてしまうのです。
そのため幕府は、六波羅探題に軍事指揮権も持たせていました。鎌倉幕府の役職のなかで執権・連署に次ぐ重要な役職とされ、北条一族のなかでも特に有望な者が代々その任に就きました。
京都所司代が六波羅探題をならって設置されたこともあり、訴訟の権限と軍事の指揮権を除いてほぼ同じ役割を担っています。
京都所司代は、1568年に織田信長が京都の監視と治安維持のために設置した機関。天皇家や公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取締り、近畿8ヶ国の訴訟処理、西国33ヶ国の大名の動静監視などを担い、老中に次ぐ重要な役職とされ、強い権限が与えられていました。
訴訟の権限を見てみると、京都所司代は京都の近郊8ヶ国にある天領に限りますが、六波羅探題は西国の全体を範囲としています。
幕末になると、それらの権限は徐々に「京都町奉行」に譲られ、以後は老中になるための通過点となります。政治力自体は低下したため、「京都守護職」が上位機関として新たに設置されることとなりました。
- 著者
- 近藤 成一
- 出版日
- 2016-03-19
源頼朝が創設した鎌倉幕府。北条氏が政治の執権を握り、権力を確立していきました。およそ150年の間に、御家人同士の争いや、朝廷が起こした承久の乱、また国の存亡をかけた蒙古襲来など、幕府は何度も危機に陥ります。
激動の時代はどのように乗り越えられたのでしょうか。幕府と朝廷それぞれの動きを詳しく追い、政治面から鎌倉時代を紐解いていきます。
- 著者
- 上横手 雅敬
- 出版日
- 1988-10-01
「そして北条氏に強い非難を浴びせる史家も、泰時は例外だとする。陰険とよばれ、悪辣とそしられる北条歴代中で、泰時ひとりが、称讃をかち得たのはなぜなのであろうか。」(『北条泰時』より引用)
稀代の名執権として知られる北条泰時。六波羅探題の北の初代長官として、承久の乱の戦後処理および朝廷の監視をおこなった人物です。
作者は泰時のことを、政治家としては天才ではないが努力家だったとしています。権勢を大いに奮った北条氏の一族は、歴史家から悪評を受けることも多いですが、彼だけは例外だそう。その優れた人間性はどうやって培われたのでしょうか。
承久の乱の動揺と、武家政権の確立をはかった時代背景がよくわかる一冊です。
150年も続いた鎌倉幕府。源頼朝が開いたものの源氏の将軍は3代までで、その後は執権の北条氏が権力を握り続けました。3代将軍の実朝が倒れた後、後鳥羽上皇を中心とする朝廷が権力を取り戻そうと起こした「承久の乱」。これを制して執権への権力集中を成し遂げた北条義時とその息子の泰時は、同じような乱が起きぬように「六波羅探題」を設置したのです。ご紹介した2冊の本から、ぜひ当時の様子を学んでみてください。