5分でわかる鎌倉時代!主な出来事を年表でわかりやすく!人物や文化の特徴も

更新:2021.11.13

日本で初めて封建制に基づく武家政権が誕生した鎌倉時代。武士が力を持つことで、さまざまな変化が起こりました。この記事では、主な出来事を年表で整理しつつ、主要人物や文化、宗教、食事をわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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鎌倉時代の概要を簡単に説明!いつからいつまで?

鎌倉時代のはじまりには諸説あります。「いい国つくろう鎌倉幕府」という言葉があるように、かつては源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とする学説が一般的でした。

近年では幕府の捉え方に関するさまざまな学説が主張され、頼朝が「守護」や「地頭」の任命権を獲得した1185年を鎌倉時代のはじまりとする説が主流になってきています。

幕府が成立した当時は、朝廷も強い力を持っていたため、幕府と朝廷の二元的な支配体制が形成されていきました。1221年に起こった「承久の乱」以降、朝廷を破った幕府の支配力が増していくことになります。

また文化面では、平安時代末期から戦乱が続いていたため、人々の心の支えとして新しい仏教が生まれます。さらに、武士の気風にあった力強い文化が発達し、運慶(うんけい)や快慶(かいけい)の手掛けた「金剛力士像」に代表される作品がつくられました。

1274年と1281年には、モンゴルの元が日本を攻撃する「元寇」が発生します。撃退には成功したものの新たな領地を得ることはできず、また当時問題となっていた御家人の所領相続問題なども重なり、幕府に対する不満が増していきます。

1333年、こうした不満を背景に後醍醐天皇が幕府打倒の兵を挙げ、幕府滅亡をもって鎌倉時代は終焉を迎えます。

鎌倉時代の主な出来事を年表でまとめ

1185年 源頼朝が「守護」と「地頭」の任命権を獲得する

1192年 頼朝が「征夷大将軍」に任命される

頼朝は権力の確立と並行して、御家人の所領支配を保証する「本領安堵」や、功績に応じて新たな所領を与える「新恩給与」を実施。「御恩と奉公」と呼ばれる将軍と御家人の主従関係を築きあげました。

所領を通じて形成される主従関係を基盤とした社会のことを「封建制」といいます。鎌倉時代は、日本ではじめて封建制が成立した時代でした。

1199年 頼朝が亡くなり、源頼家が2代将軍となる

1203年 頼家が伊豆の修禅寺に幽閉される
      3代将軍・源実朝の擁立と同時に、北条時政が初代執権となる

頼朝の息子で2代将軍となった頼家は、御家人たちの信望を得ることができませんでした。頼朝の妻・北条政子と、その父である北条時政によって幽閉され、その後暗殺されてしまいます。

頼家の弟である実朝が3代将軍となると、時政は「執権」という将軍を補佐する地位につきます。さらに彼は他の有力御家人を倒し、幕府内で勢力を強めるようになっていきました。

1219年 実朝、頼家の遺児公暁(くぎょう)に暗殺される
 

1221年 「承久の乱」が発生、幕府が朝廷に勝利する

実朝の死で源氏将軍は途絶えることとなります。同じころ幕府の台頭をきらった後鳥羽上皇は、朝廷権力の拡大を目指して「西面の武士」を設置するなど軍事力増強に努め、1221年に当時執権をしていた北条義時追討の命令を発しました。

しかし北条政子の号令によって団結した鎌倉武士が、ただちに京都を占領。幕府方の勝利で終わります。

後鳥羽上皇は隠岐島に流され、上皇方についた貴族や武士の所領は没収されました。幕府は功績をあげていた御家人を没収した土地の地頭に任命し、権力の拡大に成功します。

ちなみにその後の将軍職は、藤原氏から迎えた「摂家将軍」や、皇族から迎えた「宮将軍」が引き継ぎます。しかし幕府の実権は、執権に就任する北条氏が独占しました。
 

1232年 北条泰時が「御成敗式目」を制定する

3代執権に就任した北条泰時は、1225年に「連署」を設置。ついで「評定衆」を選び、合議による統治形態を確立するなど幕府機構の整備を進めます。1232年に制定した「御成敗式目」は武家法の基盤となり、室町時代の「建武式目」や戦国時代の「分国法」、江戸時代の「武家諸法度」にまで影響を与えました。

1274年 「文永の役」の発生
1281年 「弘安の役」の発生

「文永の役」と「弘安の役」をまとめて「元寇」と呼びます。

チンギス・ハンの孫にあたるフビライ・ハンは、1271年に元を建国。日本に国書を送って朝貢を求めましたが、8代執権の北条時宗がこれを拒絶したため、2度にわたって日本への遠征を実施しました。鎌倉御家人の奮戦もあり、どちらも元の敗退で終わります。

フビライは3度目の遠征も計画していましたが、元の支配に反発する中国民衆の抵抗や、大越(ベトナム)の抵抗もあり、実現することはありませんでした。

1297年 「永仁の徳政令」の実施
 

元寇では、モンゴルに勝利することはできたものの、新たに土地を得ることができなかったため、幕府は軍役を負担した御家人に十分な恩賞を与えることができませんでした。

また当時は、子供たちが親の所領を分割して受け継ぐ分割相続が一般的だったため、所領は縮小を続け、御家人を経済的に圧迫していきました。

幕府は困窮する彼らを救済するために、「永仁の徳政令」を発します。しかしその効果は少なく、有効な対策を打ち出せない幕府に御家人たちは不満を募らせていきます。また北条氏だけが幕府の要職を独占していることも、幕府に反発する主な要因となりました。

1333年 後醍醐天皇が討幕を実施、鎌倉幕府滅亡

鎌倉時代の主な人物を紹介

北条政子(1157~1225)
 

伊豆に流された流人時代の頼朝と出会い、父時政の反対を押し切って彼と結婚しました。頼朝を支え、彼の死後は「尼将軍」として幕府の事実上の指導者となります。

「承久の乱」の際は御家人たちに、「頼朝の恩は山よりも高く海よりも深い……名誉を失いたくない者は、敵を討ち幕府を守りなさい」と演説し、彼らを結束させました。

北条泰時(1183~1242)

3代執権として幕府の統治機構整備に尽力した北条泰時。彼の時代に執権政治が確立されました。執権就任前の「承久の乱」の際には幕府方の総大将として活躍し、その後は「六波羅探題」として戦後処理にも当たっています。

他者の意見を尊重しつつ客観的な法典や道理を踏まえて統治をおこない、公正で誠実な姿勢は御家人の支持を集めたそう。その人格は鎌倉武士の模範とされ、後々まで高く評価されました。

北条時宗(1251~1284)
 

元寇が起きた際に執権を務めていた北条時宗。フビライ・ハンが国書を送ってきた時はまだ18歳でしたが、元の要求を黙殺し、元寇後も北九州に石塁を構築するなど徹底抗戦の構えをとります。

禅宗に深く帰依しており、中国から僧侶を招聘して教えを受けました。彼らの母国である宋が元に滅ぼされたことから、強硬姿勢につながったともいわれています。

栄西(1141~1215)
 

幼いころから比叡山で学び、14歳で出家。その後日本の仏教を立て直すために宋にわたって禅宗を学び、日本に紹介しました。

禅宗とは、座禅を組んで精神統一をはかり、自分の力で悟りを得ようとするもの。気持ちを鎮める様式は命がけで戦う武士たちに受け入れられ、幕府によって保護されるようになります。また日本に招かれた宋の禅僧たちを通じて、禅宗様といわれる建築様式が広まりました。

藤原定家(1162~1241)

『小倉百人一首』や『新古今和歌集』を編集した、日本を代表する歌人です。『小倉百人一首』は飛鳥時代から鎌倉時代までの優れた歌人を100人選び、それぞれの代表作を1首ずつ採録した和歌のベストアルバムのようなもの。今日でも多くの人に親しまれています。

鎌倉時代の生活は?文化、宗教、食事など

【文化】

武士の気風にあった文化が発達し、運慶や快慶の「金剛力士像」に代表される力強い造形が好まれました。また『平家物語』に代表される軍記物が生まれ、琵琶法師たちの弾き語りによって文字を読めない人々にも親しまれています。

朝廷では、藤原定家によって『小倉百人一首』や『新古今和歌集』などが編集されました。また鴨長明の『方丈記』や兼好法師の『徒然草』など、無常の価値観を反映した随筆も有名です。

【宗教】

平安時代末期から戦乱が続き、心の支えを求めた人々にこたえるために新しく「鎌倉仏教」が起こります。

法然は平安時代末期の浄土信仰を継承し、一心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後誰でも極楽に行けると説いて浄土宗を開きました。法然の弟子である親鸞はさらに教えを発展させて、自力で修行できない悪人こそ阿弥陀は救うため、本願を信じ念仏せよと説いて浄土真宗を開きます。

また法然の弟子に学んだ一遍は、信心の有無を問わず念仏を唱えればすべての人が救われると説き、時宗を開いて人々に念仏信仰をすすめました。

栄西と道元は宋で学び、日本に禅宗を紹介しています。禅宗は幕府によって支持され、栄西の臨済宗は公家や幕府の有力武士に、道元の曹洞宗は地方の武士や農民に信仰されました。

そのほか鎌倉時代後期には、天台宗の中心経典とされる法華経を重視した日蓮が、題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば日本も人々も救われると説いて日蓮宗を開いています。

【食事】

主食はあわと米。金属製の「羽釜」の普及により、米を煮る調理法から、現代のように炊く調理法に変化しました。

1日2食が一般的で、おかずの数は少なめです。繊維質が多く、栄養価の高い食材を食べていました。

【服装】

平安時代よりも簡略化されていきます。武士たちは「直垂(ひたたれ)」を着用し、彼らの妻は「十二単」の略装を着用することが多かったようです。

庶民の服は、麻を用いたものが中心。男性は「筒袖」に「括袴」を着用し、女性は「小袖」を着ることがほとんどでした。

鎌倉幕府と朝廷の全容に迫る

著者
近藤 成一
出版日
2016-03-19

「日本中世史」シリーズの第2巻。この一冊で鎌倉時代の全容がまとめられています。

新書ながら、朝廷と幕府の関係や、元寇、幕府内の内紛について手堅くまとめられ、特に第5章の「裁判の世界」では当時の紛争解決手段について詳細に解説しています。

鎌倉幕府の滅亡は、元寇の有無に関わらず分割相続という制度に原因があったという指摘も新鮮でしょう。
 

漫画で読む鎌倉時代

著者
森藤 よしひろ
出版日
2007-08-01

全10巻で構成される「日本の歴史」シリーズの第4巻。平安時代末期の「治承寿永の乱」から、鎌倉時代、そして室町時代の足利義満までが描かれています。

イラストも見やすく、漫画ながら人物や出来事に関する説明もしっかりされているため、大人が読んでも十分に満足できる内容でしょう。
 

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