爆弾と自分の命を抱えて、敵艦に体当たり攻撃を仕掛けた「特攻隊」。多くの若者が命を落としました。なぜこのような作戦が決行されたのでしょうか。この記事では、当時の戦況や隊員の年齢、基地、遺書などを解説していきます。あわせておすすめの関連本もご紹介するので、チェックしてみてください。
第二次世界大戦末期、戦況は日本の劣勢となっていました。本土防衛の最前線となっていたのが沖縄。なんとか死守するために特別攻撃隊「特攻隊」が結成されます。
爆弾を抱えた航空機もろとも敵艦に体当りする部隊で、特殊滑空機には車輪がなく、燃料は片道分、帰還することは許されない設計となっていました。
特攻隊による最初の攻撃がおこなわれたのは、1944年10月、フィリピン戦線で空母1隻を撃沈した「敷島隊」です。ここで戦果を挙げたため、特攻作戦に拍車がかかっていきました。
当初米軍や連合軍は、組織立って体当たり作戦をおこなう日本軍の行動に理解がおよばず、対処が遅れていたため有効でしたが、しだいにレーダーや護衛などの対策をとられるようになります。
その結果、沖縄での特攻作戦では、敵艦にたどり着く前に撃ち落とされてしまうものが多かったそう。しかし日本はその他の有効な作戦が無く、新たな兵器を作り出す資金も人員も無かったため、引けない状況になっていたのです。
1945年4月6日に第1次総攻撃としてはじまった特攻作戦は、7月19日の第11次まで続きました。
特攻隊として命を落とした人の多くは、まだあどけなさの残る若者でした。最年少は17歳。そのほかも10代から20代前半の者が多かったようです。
そもそも隊員が不足してたこともありますが、戦時教育の影響を受けやすかった若者から志願者が多かったという報告も残っています。
一方で、志願というのは形式上であり、実際は逃れようのない特攻「命令」だったという証言も存在します。年齢が若ければ若いほど、上官の命令には逆らえないことでしょう。ひとりひとり、思想や信念は異なり、家族や環境もさまざま。特攻作戦への向き合い方も一枚岩ではなかったと想像できます。
もっとも多くの特攻隊が配属され、出撃したのが、鹿児島県の知覧基地です。現在は平和会館が建てられ、資料が展示されています。そのほか宮崎、熊本、福岡、山口、沖縄などに基地となる飛行場が16ヶ所あり、さらには台湾にも飛行場が6ヶ所存在しました。
特攻隊員たちにも家族がいて、恋人がいて、子供がいました。平和な日々のなかで大切な人と楽しい時間を過ごすことができないことを思うと胸が痛くなります。
しかし、日本が戦争に負ければ、その大切な家族や恋人たちが虐殺されるという教育を受けていました。彼らは国のため、そして家族や恋人を守るために、命を捧げる決意をしたのです。決意の手紙の一部をご紹介します。
植村眞久大尉から妻と娘へ
「(前略)私はお前が大きくなって、立派なお嫁さんになって、幸せになったのを見届けたいのですが、もしお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、けっして悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会いたいときは九段にいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。
(中略)必ず私に万一のことがあっても親無し児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護っております。優しくて人に可愛がられる人になって下さい」(『会報特攻』平成12年5月号より引用)
小川清中尉から両親へ
「お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。
(中略)清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に」(『会報特攻』平成18年11月号より引用)
特攻作戦を、ただの残虐で命を無駄にしただけのものだったと定義付ける人もいます。しかしそれこそまさに残酷な解釈だといえるでしょう。
本書に記されている特攻隊員たちの声を聞けば、むしろ命について深く考えていたことがわかります。
- 著者
- 神坂 次郎
- 出版日
短い生涯を終えることになる若者たちの人生は、限られた命の火を儚く燃やし続けていました。今の日本の平和がいかにしてあるのかを知るために、ぜひとも読んでおきたい一冊です。
特攻隊員たちの悩みや悲しみ、そして決意する様子は、我々に勇気を与えてくれるでしょう。
作者は、台湾沖航空戦に参加した艦上攻撃機搭乗員。彼が過ごした海軍航空隊での日々を、臨場感と絶望感にあふれる描写で切り取っています。戦争というものの恐ろしさがリアルに伝わってきます。
特攻作戦へと転じていった当時の日本軍の様子が、ありありとわかるでしょう。
- 著者
- 世古 孜
- 出版日
- 2003-12-01
特攻作戦は、日本軍の司令部が残酷な命令を出したものだという印象を抱いている人が多いのではないでしょうか。しかしそこには、戦況が悪化し、敗戦濃厚となっているなかで、なんとか危機を打開するための明確な理由がありました。
厳しい状況で判断をくだすしかなかった様子がよくわかる一冊です。
1945年5月11日、九州から飛び立った特攻隊が目指したのは、沖縄沖にある米艦隊です。安則盛三中尉と小川清少尉らが空母バンカーヒルに突入しました。空母は甚大な被害を受け、650人以上が死亡します。
本書の作者は、ロバート・ケネディ元司法長官の息子であり、ジョン・F・ケネディ元大統領の甥。日本の特攻を日米方の視点から描いています。
- 著者
- マクスウェル・テイラー・ケネディ
- 出版日
- 2010-07-12
本書はさまざまな取材をもとに、特攻の経緯、激闘、その後をまとめあげています。特攻隊の行動は、敵であるアメリカ兵にも強く印象を残しました。武士道にも通じるその日本の精神に、経緯を払うものまでいたそうです。
自らの命に代えてまでも守りたいものがあった、彼らの生きざまをご覧ください。
現代において、自ら命を投げ出すことは、いかなる事情があっても許されることではありません。しかし、なぜ命が大切なのか、なぜ生きるべきなのかを時々見失うこともあるでしょう。死を逃れられなかった特攻隊員たちの英霊からは、力をもらい、命を学び、平和を目指して、何があっても生き抜かなかればならないと感じさせられます。