1077年冬、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世のいるカノッサ城門の前で、破門の取り消しを願った事件です。なぜ皇帝は破門されたのか、彼らが対立する原因となった「叙任権」とはなんなのか、わかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本もご紹介するので、ぜひご覧ください。
11世紀、「叙任権」をめぐり争っていたローマ教皇とローマ皇帝。教皇のグレゴリウス7世は、身勝手な行動をとる皇帝のハインリヒ4世を破門と王位の剥奪を宣言しました。
するとそれまで皇帝に味方していた諸侯たちも次々と手のひらを返し、手詰まりとなったハインリヒ4世は、雪のなか3日間泣きながら許してくれと頼んだ事件です。皇帝の一種のスキャンダルのようなものでしたが、この騒動は後に皇帝を許してしまったローマ教皇にも悲劇をもたらしてしまいます。
ではカノッサの屈辱といわれるこの一連の事件はどうして起きたのか、その経緯や原因をみていきましょう。
この事件の主人公は、神聖ローマ帝国の皇帝・ハインリヒ4世と、ローマ教皇グレゴリウス7世です。
まず神聖ローマ帝国は、皇帝の権力が非常に弱い帝国でした。4世紀に古代ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅んで以降、さまざまな民族による領主が分立します。962年にそんな状態の各国を神聖ローマ帝国が統治しましたが、地方の小領主の分立状態は変わりませんでした。
やがて皇帝は、国内における自らの影響力を拡大するため、自分の言うことを聞く人物を司教や大司教に次々と任命していくようになります。教皇はこれに異を唱え、1076年に皇帝の破門と、皇帝権の剥奪をほのめかしました。
しかしこれが逆効果で、ハインリヒ4世は激怒。独自の会議を開いて教皇の廃位を宣言してしまうのです。
すると教皇も、皇帝の波紋と皇帝権の剥奪を宣言。するとそれまで皇帝についていた諸侯たちも次々と願えり、およそ1年後までに破門が解かれなければ、新しいローマ皇帝を決めること、権威の付与者として教皇を招聘すること、適任の人物がいない場合は王位を空にすることを決定してしまうのです。
ハインリヒ4世はあっという間に手詰まりとなってしまいました。使いを送って教皇に許しを願うものの、聞き入れてもらえません。そのため自ら真冬のアルプス山脈を越え、カノッサ城に赴きます。
なかなか教皇が出てこないため、武器を捨て、修道服に身を包み、土下座をして、3日間ものあいだ破門の取り消しを願いました。
この一連の騒動をカノッサの屈辱と呼びます。
ハインリヒ4世とグレゴリウス7世の対立のきっかけとなったのが、「叙任権闘争」です。ローマ教会の聖職者の叙任権、つまり誰を聖職者にしてどの地位に就かせるかを決める権利をめぐり争っていたのです。
叙任権を持っていれば、自分の言うことを聞く聖職者を教会の重役にすることができ、教会自体をコントロールできるようになります。
当時この権利を持っていたのは皇帝。しかし彼に任命された聖職者たちは荘園を持って領主化し、金を求め、教義と大きく外れた行動をとるようになってしまいました。
このままでは腐敗してしまうと危惧した教会は、教皇のグレゴリウス7世に教会の刷新を任せることにしたのです。グレゴリウス7世は「クリュニー修道院」というキリスト教の教義をあるべき姿に戻す教会改革派の旗頭でした。
グレゴリウス7世は、皇帝の持っている叙任権を教皇に移し、教会を私利私欲の場にすることを禁ずると宣言します。
しかしこれを告げられた皇帝のハインリヒ4世も、簡単には言うことを聞きません。叙任権を有することは、教会が持っている荘園や財産に介入できるということで、これが皇帝自身の領土の基盤のひとつになっています。当然手放したくありません。
カノッサの屈辱は、教会の「あるべき姿」を考えた教皇と、皇帝としての支持基盤を失いたくない皇帝の対立だったのです。
結果的にこの騒動は、教皇であるグレゴリウス7世がハインリヒ4世へ出した破門を解くことで1度収束します。しかし「屈辱」という名が表しているとおり、2人の間には遺恨が残りました。
破門されなかったとはいえ、この一連の騒動で皇帝の権威は大きく地に落ち、叙任権も失ってしまったため、ハインリヒ4世は暗君の名を背負わされます。そして、なんとかこの借りを返そうと、大軍を率いてローマ教会を武力包囲してしまうのです。
1081年にグレゴリウス7世は捕らえられ、この時に腕を切り落とされたという逸話が残っています。その後イタリア南部のサレルノに脱出、しかし教皇の座をハインリヒ4世が立てた人物に成り代わられ、憤死してしまいました。
もともとカノッサの屈辱が起きた際、グレゴリウス7世は自分に逆らうハインリヒ4世を許すメリットは特にありませんでした。しかし温情で許した結果、張本人に死に追いやられるという悲劇が待っていたのです。
一方のハインリヒ4世も、1度失墜した信頼を取り戻すことはできず、グレゴリウス7世が失脚した後にローマ帝国領内の領主の反乱に加え、自分の任命した新教皇とも対立し、失意のうちに亡くなるという悲劇的な結末を迎えます。
叙任権闘争に明確な決着はつかず、カノッサの屈辱は双方とも勝者になることなく終結しました。「屈辱」とは、皇帝にも教皇にも当てはまる言葉かもしれません。
- 著者
- 菊池 良生
- 出版日
- 2003-07-19
神聖ローマ帝国は異民族の集合体で、実態の掴みづらい王国です。また日本人にとってキリスト教の教えは馴染みが薄く、「破門」や「教会の腐敗」などもなかなかイメージすることが難しいでしょう。
本書は、これらわかりづらい要素を物語調で表現し、読者が飽きないように説明してくれています。
神聖ローマ帝国ができる前のヨーロッパ情勢から解説しているので、帝国ができた目的や、国と教皇の関係性を深く理解することができ、当時の状況を理解することができます。
- 著者
- 小長谷 正明
- 出版日
著者は医学博士の小長谷正明。ローマ教皇を10人ほどピックアップし、残された記録から彼らの死因を考察するという異色の切り口です。
神聖ローマ帝国ができてからカノッサの屈辱までは、聖職者であっても結婚し、酒を飲み、好きなものを食べていました。乱れた生活から起こる生活習慣病の疑いなども見抜いています。
またマラリアやペストといった当時のヨーロッパを震撼させた奇病にも言及。医学書としても歴史書としても読める一冊です。
断片的に見れば単なる一事件ですが、これは当時の世相や宗教と国家の立場、優位性や対立を総括的に把握していないと理解することが難しい事件です。叙任権闘争はカノッサの屈辱では決着がつかず先延ばしになりますが、ヨーロッパ史で長年続く国家と宗教の溝を示す象徴的な事件だといえるでしょう。