5分でわかるサラエボ事件!概要と原因、真犯人の真相をわかりやすく解説!

更新:2021.11.14

オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人の青年に暗殺され、第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」。名前だけは聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。この記事では、事件の概要や原因、真相、第一次世界大戦までの流れをわかりやすく解説していきます。

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サラエボ事件とは?概要を簡単に解説

 

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫婦が、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプに銃で暗殺されました。当時オーストリア領だったボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボを視察中に起こった出来事だったため、「サラエボ事件」と呼ばれています。

これをきっかけに、オーストリア=ハンガリー政府は、セルビアに対して「最後通牒」を突き付けます。

最後通牒とは外交文書のひとつで、交渉における最終的な要求を提示したもの。相手が受け入れない場合は交渉を打ち切るという意味があります。

最後通牒を受け取ったセルビアは、その内容の一部を留保に。それを受けてオーストリア=ハンガリー帝国は、1914年7月28日、セルビアに宣戦布告。「第一次世界大戦」が開戦しました。

サラエボ事件は日本人にとってはあまり馴染みがありませんが、ヨーロッパでは世界大戦のきっかけとなった重大な事件として扱われています。

サラエボ事件はなぜ起きた?原因と真相。真犯人は誰なのか。

 

サラエボ事件の主犯は、セルビア人の19歳の青年ガヴリロ・プリンツィプです。きっかけは、1908年に彼の祖国であるボスニア・ヘルツェゴビナが、オーストリア=ハンガリー帝国に併合されたこと。ボスニアに住むセルビア人たちはこれに反発していました。人々の不満が膨らんでいた状態だったのです。

そんな時、帝国側の皇太子夫妻のサラエボ訪問が決まります。設定された6月28日はセルビア人にとって大切な祝日にあたり、また1389年にセルビアがオーストリアに負けた「コソヴォの戦い」がおこなわれた日でもありました。

セルビア人の感情をさらに刺激する結果となり、事件が起こったのです。

実は、ガヴリロ青年が使用した銃は、ボスニア政府からの支給品。政府が裏で操っていたということがわかります。また彼が所属する暗殺グループが、政府と軍で構成された組織「黒手組(ブラック・ハンド)」から援助を受けていたことも明らかになりました。

つまり、本当の犯人は、実行犯の青年ではなくボスニア政府だったということです。

サラエボ事件が起きた当時は、各地で帝国主義が蔓延し、併合する国・される国の主従関係で世界が成り立っていました。併合された国の住民は当然主要国に対して反発し、いつ争いが起こってもおかしくない状態だったのです。

第一次世界大戦のきっかけになった

 

サラエボ事件が起こった後、オーストリア=ハンガリー帝国政府はボスニア政府を非難し、最後通牒を突きつけました。

全部で10の項目がありましたが、その内容はとても受け入れることができないものだったそうです。当時イギリスの外務大臣を務めていたエドワード・グレイは、「今までで国の状況を変更する最も恐ろしい文書」と評しています。

つまりこの最後通牒は、要求を受け入れてもらう交渉ではなく、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニアに侵攻するための口実にすぎなかったのです。

ボスニア政府は、10の項目のうち2つを保留。それを受けて帝国政府は、1914年7月28日にボスニア政府に対して宣戦布告をし、戦いが始まりました。

両国の争いは欧州に広がり、やがて世界へ。第一次世界大戦へと繋がっていったのです。

サラエボ事件から第一次世界大戦までの流れを知る

著者
山上 正太郎
出版日
2010-01-12

 

1914年に開戦した第一次世界大戦。帝国主義が蔓延し、ナショナリズムが暴発、そしてアメリカが台頭していきました。そんな時、各国の指導者たちは何を考え、どんな行動をとったのでしょうか。そしてそれは、日本にどんな影響をおよぼしたのでしょう。

本書は、きっかけとなったサラエボ事件からヴェルサイユ条約の締結までの流れをわかりやすく記しています。焦点を当てているのは、各国首脳の人物像と、彼らの外交関係。

現在の国際情勢にもつながる当時の概要を知るのに最適の一冊です。

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